『夜業の投資対効果(ディナー・リターン)』①
第1部:福利厚生の破棄
(赤い噴水を見ながらのディナー。
福利厚生にしては、あまりにも精神的負荷が強すぎる――)
事務所一階へ降りる魔導昇降機の密室の中、カイはフルフェイスバイザーで表情を隠しながらも冷や汗をにじませていた。
隣に立つレオンからは、まるで重力の変動があったかようにふわふわの圧が放たれている。
必死に『定格運用』と心の中で唱え続け、カイは扉が開くのを心待ちにしている。
チィン、と静かな電子音が鳴り、扉が開いた。
魔導昇降機の向こうに広がるのは、社員食堂「ラ・フォンテーヌ」。
善良な一般社員が憩う事務所の顔は、静かな破滅の空気に満ちていた。
天災を迎えた人間が浮かべる絶対的な諦めと恐怖の中、社員たちは喉を鳴らしてその姿を凝視する。
赤い噴水が増幅させ続ける絶望の視線が、レオンとその護衛たちに突き刺さる。
レオンは、それらの視線を気にもとめず、首に回しただけのタイに不器用な指先を引っ掛けて小首を傾げた。
いつもなら、この位置にあるはずのヴァルプスの手は、今はない。
彼は今頃、別の任務で首都を駆け巡っているのだろう。
レオンは周囲の恐れ戦く空気など1ミリも気にとめず、ただ管理者の不在を指先でなぞる。
――その、一触即発の静寂を切り裂いたのは、無機質な電子音だった。
ガガッ、と。 カイのインカムが、耳を劈くような緊急の暗号シグナルを拾った。
同時に、レオンの胸ポケットにある最高暗号化端末が、短く重いバイブレーションを震わせる。
画面に表示されたのは、秘書課を経由した――『ルテティア銀本位取引所・総裁秘書室』からの極秘ダイレクトメール。
◆
【件名:緊急召集/総裁面会許可】
『――CEOレオン殿。
例の「虚報」による暴落を受け、総裁が極秘裏に動かれた。
今夜二十一時三十分、裏口より取引所へ。猶予は夜明けまで。
本件、他言無用。単身での接触を要求する』
◆
端末を見つめるレオンの瞳に、冷たい光が滲んだ。
「……悪いね、カイ。ディナーは、お預けだ」
「……い、いえ」
レオンは、タイを感覚だけで締め直す。
「一度、上へ戻るよ。
二十一時の完全閉鎖までに『決算数値』の最終チェックを終わらせる。
そのあとルテティア銀本位へ向かう。
……今夜中に、総裁を射止めなければ」
「……了解」
カイの喉から、訓練された者の声が出た。
インカムを叩き、バックアップで待機していたベータチームのチャンネルを開く。
「アルファ1よりコントロールへ! ルート変更!
食事ミッションは破棄、これより最高警戒体制に移行。
二十一時の一般社員避難完了を待って、二十一時十分に対象を二区、ルーセント・ボードへ極秘誘導する。
ただちに大型サルーンを裏口へ回せ!」
『コントロール了解。
……ようやく仕事のようだな。
二十一時三十分に現地着を逆算し、最適ルートを構築する。
――各チーム、追って指示を待て』
インカムの向こうで、部隊長に着任したばかりのハヤテの、低く冷徹な声が響いた。
怯える一般社員たちが作る道を、レオンは淀みない足取りで引き返す。冷徹な戦場となるCEO室へ、再び籠もるために。
――二十一時十分。
完全な無人と化した事務所の裏口に、ハヤテの回した防魔装甲仕様の大型サルーンが停まる。
車に乗り込む手前で、一度レオンは空を仰いだ。
どんよりと低い雲が垂れ込め、肌にまとわりつくような夜気が、間もなく訪れる荒天を予感させていた。
ぽつり、と。冷たい一滴がレオンの頬を濡らす。ネットの喧騒も、オルカの脅迫も、この迫りくる嵐に比べれば取るに足らない非合理なノイズに過ぎない。
レオンは頬をそっと拭うと、黒い要塞の奥へと身を沈めた。




