『激情の縮退運用(フォール・バック)』⑤
第5部:一般資産の強制避難
二月九日 十七時二分
社員食堂「ラ・フォンテーヌ」。
善良な一般社員が「普通の日常」を過ごす、事務所の「光」の顔。その中央にある噴水が、突如として禍々しい赤にライトアップされた。
平和に夕食前の珈琲をすする者や、早めのディナーを取る家族連れの頭上で、「暴落」のニュースが流れる。それを見つめる一般社員たちの手は小刻みに震え、あるいは手元からフォークを落とした。
四階所属、コンプライアンス・エージェントの男たちが音もなく入口の扉を開ける。彼らは一般社員の肩を叩き、「……裏口に、第二駅入口までの大型車両を用意してあります。最終発車時刻は二十一時です。乗り遅れた場合は、三階オーディトリアムに寝袋が……」と、感情の死んだ声で囁いて食堂の中を歩きはじめた。
事務所上層所属、通称「青紐」。その社員証をつけた者たちは、食堂の混乱を一瞥しながらカウンターでテイクアウトを受け取った。彼らの目には深い決意と諦観が宿っている。同時にその奥には、かつて金色に光り輝きストップ安を生み出したCEOの姿が、今も消えない記憶として散りばめられていた。
--
薄暗い会議室の天井裏から、グリッチ・ピクセルが湧き上がる。
小さな電子妖精は、0と1の電子の揺らめきを羽から散らしたあと、パチンと指を鳴らしてホログラムのモニターを展開した。
SNSで広がる暴落の記事が、モニターに何層にも重なっていく。
「見てください!市場は閉まってますけど、夜間取引のパニック売り、天井知らずに膨らんでますよ?
……あーあ、このフェイクニュース、めちゃくちゃバズってます。ネット中の僕たち、みんなでうらやましがってます!」
グリッチは電子の海に漂う分体と感情を共有しながら、心底羨ましそうに目を細めてがじがじと指を噛んだ。その様子を横目に、メイは眼鏡の縁を軽く押し上げた。
「CEO、これは明確な風説の流布、および偽計業務妨害です。ドメインの足跡はすでに偽装されていますが、即座に該当メディアへの抗議文と、『オルカ』に対する損害賠償請求の訴訟手続きに入りましょうか?」
光のページを激しくめくりながら、ホログラムの巨大な『ルテティア法典』がメイの背後に浮き上がり、会議室を照らし出す。
椅子に座って資料を見ていたレオンは、その眩しさにぎゅっと目を閉じた。
光が落ち着いてから、レオンはメイを宥めるようにそっと話し出す。
「……メイさん。Q1決算書はすでに暗号化されてロック済みです。外野がいくら騒ごうと、私たちの数字は揺るぎません。
明日の朝九時、ルテティアの幕が上がれば歴史的な大暴落が見られるでしょう。
……面白いじゃないですか。今回は何もせず、静観しましょう」
「……わかりました。すぐに動けるように用意はしておきます」
メイは鋼鉄の瞳でレオンを一瞥する。普段と違う、タイを外したシャツ姿と、その襟元から微かに漏れ出る異質な魔力波形に眉を寄せたが、言及することなく、目を伏せた。
「グリッチ。広報部長は目覚めたか?」
「レオン様!連絡はありません。部長はまだ気絶してます~」
「では君が代わりにプレスリリースを打ちなさい。手短でいい」
「わかりました!
僕たちのネットワークで一瞬で流しちゃいますね。
『市場の憶測に対する個別対応は行いません。正式情報は二月一二日のQ1決算発表をご確認ください』……って感じですよね?」
「ああ」
レオンの軽い頷きにグリッチは親指を立てて、空中に姿を消した。
メイは一度腕時計を確認したあと、レオンに一礼をした。
「CEO。私はこれにて。また明日お会い致しましょう。
……緊急時は、連絡してください」
「ああ。メイさん、お疲れ様」
彼女の本当の戦場は、決算が発表され、市場が混乱に陥った「その後」の法廷だ。レオンもそれを分かっているため、彼女の定時退社を引き止めようとはしない。
メイの後ろ姿を見送っていると、レオンの肩に白い手が伸びた。
反射的にレオンがその手を掴みあげると、代わりのようにタブレットが視界に差し込まれる。
「……レオン。
オルカの代表から、今夜中に『和解金』の契約書にサインすれば明日デマを消してやる、とグリーンメールがきているよ。
あと、十九時半から直接会って話がしたいと、私を誘ってもいる」
レオンは資料を読み込み、目を伏せて逡巡したあと、後ろを振り返る。楽しそうな翡翠の瞳と目が合った。
レオンは白い手の主――マルヴェイに向かい、冷たく言い放つ。
「相手にするな。放っておけ」
「そうだね。でも面白そうだから、会いに行こうかな」
「……いや、だめだろう」
思わず身を乗り出したレオンに、マルヴェイはいたずらっぽく微笑んで、手をひらひらと振りながら歩き出した。
「では、私も定時なので失礼しようかな。お疲れ様」
「待て。君にはそもそも定時という概念がないだろう。……おい、待て。待機命令が出ているはずだ」
呼び止める声を背中で受け流し、マルヴェイは軽やかな足取りで会議室を出ていく。
「――会いに、行かないよ」
扉が閉まる直前、悪びれもしない声だけが室内に響いた。
レオンは、立ちあがりながら額を押さえた。信用のならないマルヴェイの言葉を判定しながら顔を上げる。
静まり返った会議室に残されているのは、レオンと、壁に同化するように直立不動で控えていたカイだけだ。
主人のジャケットとタイを胸元に抱きしめたまま、カイは微動だにせず、忠実なスーツハンガーになりきっていた。
レオンはしばらく悩むように眉を寄せていたが、やがてカイに視線を投げる。
「……カイ」
「はい」
「どう見る?」
「……必要であれば、護衛の用意はすぐに」
「頼む」
「わかりました」
淡々と端末を操作し始めるカイを、レオンは腰に手を当てて見守った。画面から漏れる淡い光が、静かな室内に二人の影を落とす。
しばらくして、レオンはカイに近づいた。僅かに身構えるカイの胸元から、顔の見えないフルフェイスバイザーの頭頂部まで見上げ、顎に手を当てた。
「……カイ」
「はい」
「君の交代時間は?」
「予定では、二十二時までとなっております」
「そうか。では、カイ。一階で一緒に夕食を取らないかい?」
レオンはすこし躊躇いがちに視線を床に落としたあと、カイに淡く微笑んでみせる。
「……赤い噴水を見ながらのディナーは、きっと新鮮で楽しいよ!
だって滅多に見られないものだから。
……どう、かな」
レオンは自身の片腕に手を添えながら、カイを見つめる。
「……はい」
乾いた喉から声を絞り出す。
レオンは、カイの返事を聞いて、心底楽しそうにハンガー役を終えたばかりの忠臣の手に両手を伸ばした。
拒否を許さない確かな力が、カイの手を優しく包み込む。
その微笑みは春の日差しのように暖かく柔らかで、だからこそ口元の笑みに混じる牙が、カイの精神を歪に震え上がらせた。
福利厚生の宛先を完全に誤配していると確信しながら、カイは指の先まで力を込めた敬礼をした。
カイはその日、心の奥底から二度目となる神への祝詞を捧げる。
レオンを護衛しながら一階へ向かう彼の姿は、どこまでも雄々しく、そして深く項垂れていた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。
※2026年05月25日 ep.3~ep.25、ep.31~ep.131の大幅な修正および新規追記を行いました。
ひととおり形を整えたので、最新話への執筆活動を再開します。




