『激情の縮退運用(フォール・バック)』④
第4部:生存の多重送信
二月九日 十六時三十分
レオンから無造作に手渡されたジャケットとタイを、カイはタクティカル・スーツの中で冷や汗を流しながら受け取った。
最高級の魔糸で織られた、レオンの特注スーツ。本来の任務内容に、この高価な国家機密級の『装備品』を預かることは含まれていない。いつもレオンを支えているヴァルプスが留守なだけで、これほど業務外のトラブルと精神的ハイリスクが発生するとは、完全に想定外だった。
レオンはすこし考え込んだあと、ズボンのポケットから個包装に包まれた黄色い飴を取り出すと、カイの手に握らせた。
手の中の『待機報酬』を見つめ、カイはさらに深いあきらめの境地に至りながら直立した。
「さて」
束縛から解放されたと言わんばかりにシャツのボタンを外しながら、レオンは不敵な笑みを浮かべる。
近くの空き椅子に深く腰を下ろすと、目の前にホログラムモニターを展開し、マルヴェイから受け取った自身のログを読み込み始める。
当の最高情報セキュリティ責任者であるマルヴェイは、レオンをこの部屋に放り出したまま、すでに別の仕事に没頭していた。
CEOが居座っていて帰らない。部屋の隅のデスクにいたSRE――ノアは、席を移動することもできず、気まずげに椅子の背もたれをいじりながらレオンに背を向けた。
その動作に、レオンが反応する。
「ねえ……ノア、だよね。ちょっと、いいかな」
立ち上がったレオンに声をかけられ、ノアは動揺しながら振り向く。レオンはカイにも指先で呼びつけ、カイは静かな足取りでレオンの横に立った。
レオンはノアに個人端末を手渡すと、カイを抱きしめるようにして、彼の首に腕をかけた。
「ヴァルプスにログを送りたい。
撮ってくれ」
その唇の隙間から、鋭く尖った犬歯の先が覗いた。
「……ねえ、レオン。それ、本気でヴァルプスさんに送るつもり?」
いつ間にか背後に立っていたマルヴェイが、タブレットに視線を落としたまま、呆れたようにノアを指差した。
「君の口元の、それと。はだけた襟元から覗く肌。
……それを『お留守番の写真』として受け取った彼が、どんな顔をしてこのラボにすっ飛んで戻ってくるか、私がシミュレーションしてあげようか?」
「……」
「あと、ここは記念撮影は禁止。私の研究用の記録と一緒にするな」
「……そうか。そうだな」
暫く逡巡したあと、レオンは抱きついていたカイから身体を離す。フルフェイスバイザーの中で、カイはひとり信仰神への祝詞を捧げながら、なんとか直立した。
「レオン、そろそろだよ」
マルヴェイはそう言って、空中に浮かせたホログラムモニターに指を滑らせる。室内の壁に巨大なモニターが浮き上がり、時刻を表示する。
レオンは個人端末に届いたメールと、タブレットに表示された資料を一瞥したあと、モニターに視線を投げる。
――一六時五九分。
市場の取引終了(大引け)を告げるアラームが室内に鳴り響く、まさにその直前だった。
「報告します! メディア監視システムにアラート! 空売りの連中が、大引け間際を狙ってデマを流し始めました!」
ノアの緊迫した報告と共に、モニターへ『アメリア姫の魔力炉にヒビ、暴走間近』というフェイクニュースが映し出される。同時に、画面上の株価チャートが垂直に近い角度で急降下を始めた。一七時ジャスト、最悪の暴落を記録したまま市場の取引が終了する。
「急降下していく自社の株価ラインを見守るのは……いつ見ても、冷や冷やするよねぇ」
マルヴェイが、唇に指を添えて面白そうに笑う。
「そうだな……」
レオンは椅子に座り直し、両手を組んでモニターを見上げた。過去のやらかしが一瞬脳裏を掠めるが、ゆるく頭を振る。
今頃、十八時の定時になったら美味しいワインでも飲みに行こうと思っていた一般社員たちは、個人端末や魔力スクリーンに一斉に届いた緊急通知に驚愕している頃だろう。他国の投資家や蒼銀連邦の財務省から問い合わせが殺到し、すでにカスタマーサポートやIR(投資家広報)部門では修羅場が始まっているに違いない。
レオンは社内魔導チャット『レトス』を起動すると、役員・上層部限定のスレッドに冷徹な文字を打ち込んだ。
『これより我が社は、Q1決算発表までの『72時間連続時間外労働』に突入する。各自、覚悟を決めろ』
投稿された瞬間から、画面下部で各部署からの絶望と了解の伝達が、凄まじい速度で重なっていく。その光景を見下ろして、レオンは目を細めて頬杖をついた。
「……あ」
思い出したように、レオンは端末を弄る。
◆
件名:【共有】Q1決算およびオルカの件について。
送信者:CEO レオン・ド・ラ・ノワール
受信者:バルナザール
本日十七時、市場終了直後に『オルカ・ショート・パートナーズ』がアメリアの暴走デマを流しました。
明日の市場は荒れますが心配は無用です。Q1の数字はロックしており、三日後に予定通り決算は進行します。
そちらの世界の仕事を優先してください。
◆
打ち終えたレオンは、無意識のうちに人差し指の腹で尖った犬歯の先をなぞっていた。
自らの血の巡りを主張するように、熱く脈打つ感触が指先へ伝わってくる。
次いで、レオンはすこし渋い顔をしながら両手を動かす。
画面に向かう前に、深く息を吐き、自分の唇を指先で強く横に引いて、通常の「冷徹な笑み」の形に口元をマッサージして固定した。
◆ 件名:【報告】本日17時公表の報道について
送信者:CEO レオン・ド・ラ・ノワール
受信者:オスカル・ド・ラ・ノワール
叔父上お疲れ様です。
本日十七時、一部メディアより当社最重要資産の管理状況に関する報道がなされました。
本件に関し、当社の見解は以下の通りです。
報道内容:事実無根
当社資産の状態:極めて安定(『凪』の状態を維持)
今後の対応:三日後のQ1決算発表(二月一二日)にて、確定済みの財務数値を予定通り公表し、市場の懸念を払拭する。
以上、上場企業としてのガバナンスに基づき、一斉報告いたします。
なお、本件に関する個別の問い合わせや、方針変更のための臨時会議の開催には応じかねますのでご了承ください。
◆
レオンはそっと舌で唇を湿らせたあと、再び指を動かす。
◆
件名:【共有】
送信者:CEO レオン・ド・ラ・ノワール
受信者:ヴァルプス
本日十七時、市場終了直後に『オルカ・ショート・パートナーズ』がアメリアの暴走デマを流した。
想定通りのため、問題ない。
あと
同期率上昇時の追加変化を確認したため、共有しておく。
感情負荷に伴い、犬歯の軽度伸長を確認。
現時点で痛みはない。
・呼吸:安定
・視界異常:なし
・魔力循環:許容範囲内
・侵食反応:未確認
マルヴェイ側でログ取得済み。
波形データと現在値を添付しておく。
なお、過剰反応するほどの状態ではない。
業務を優先しろ。
……帰投時、追加検査には付き合ってもらう。
添付:0209_probably_fine.
◆
『……帰投時、追加検査には付き合ってもらう。』
そこまで打ち進めたところで、レオンの指先がわずかに速度を落とした。
無意識に下唇を噛み締めると、伸びた犬歯の先端がチクリと肉を突く。その小さな痛みを、ヴァルプスへの微かな呼びかけのように確かめながら、レオンは『0209_probably_fine.』というファイルを添付した。
「これで、よし」
レオンはにこりと笑って、メールを送信した。




