『激情の縮退運用(フォール・バック)』③
第3部:異形のエラー検知
レオンは掴んだ手首を離さない。マルヴェイもまた、逃れるような動きは一切見せなかった。
至近距離の沈黙のなか、マルヴェイが静かに唇を開く。
「……表情が崩れていますよ、レオン」
その声音には、なじるような響きは微塵もなかった。ただ、事実を淡々と告げる平熱のトーン。レオンは、胸の奥から突き上げる苛立ちのままに、言葉を叩きつけた。
「だったら何だ。――君は、そういう私が好きなんだろう」
かつてのマルヴェイであれば、この歪んだ問いかけに、嬉々として肯定の笑みを返したはずだった。だが、今は違った。ほんの少しの間が、二人の間に落ちる。
マルヴェイは、掴まれた手首の火傷痕へと視線を落としたあと、静かにレオンを見つめ直した。
「……ええ。ですが――消える顔は、趣味じゃない」
レオンは周囲で身構えているカイや、息を潜めて仕事を続けるSREたちの存在すら忘れ、マルヴェイを睨みつけた。激情を制御できずにいるレオンの姿は、その場の誰もが初めて目にするものだった。だが、その剥き出しの熱波を正面から浴びながらも、マルヴェイはどこまでも涼やかだった。その徹底した静寂が、彼を白百合のように凛とした佇まいにさせていく。
レオンは感情の読みとれない翡翠の瞳を見下ろして、自身の顎に力を入れた。
「私が、選ぶのは――」
強く噛み締めた奥歯が、微かに軋む音を立てる。
「誰の帳簿にも、載らないことだ」
激情を混ぜた囁きに、マルヴェイの瞳がわずかに揺れた。一度ゆっくりと瞬きをしたあと、演算遅延の空白のように、静かに目を伏せる。
ふ、と小さな吐息が漏れた。マルヴェイは目を細めて笑う。それは決して叶わない願いだという確信の笑みであり、そこへは連れて行かないという嘲りの笑みであった。
「願うのは、自由ですよ」
マルヴェイの柔らかな笑い声が、至近距離でレオンの耳朶を打つ。
「マルヴェイ」
レオンは掴んだ手首をさらに強く引き絞り、明確な発音で、しかし極限まで声を低く抑えて命じた。
「……その敬語を、やめなさい」
傲慢なまでの丁寧語。それはレオンが本気で怒り、CEOとしての、あるいは『主人』としての絶対的な一線を引いた証拠だった。
マルヴェイの唇から、笑う気配が完全に消える。彼はゆっくりと顔を上げ、熱を抑えた翡翠の瞳で、レオンの顔をじっと見上げた。張り詰めた沈黙。だが数秒の後、マルヴェイはふっと小さく瞬きをした。
「レオン」
名前を呼ぶ。その声から、先ほどまでの刺すような毒気が消えていた。マルヴェイの白い指先が、レオンの唇に寄せられる。レオンが身構えるよりも早く、マルヴェイは躊躇なくその唇の端を指で引っ掛け、強引に横へと引っ張った。
「レオン、歯。――犬歯が伸びてるよ」
「……!?」
指をかけられ、口を半開きにされたまま、レオンの思考が完全に凍結する。
室内にいるすべての者が、激しい処理落ちを起こしたように困惑していた。張り詰めていたカイも、データを追っていたSREたちも、誰も動けない。その静寂の真ん中で、マルヴェイだけがレオンの胸元に身を乗り出し、まるで珍しい玩具を検分するように、ただひたすらに彼の口中を覗き込んでいた。
喉まで出かかった傲慢な拒絶の言葉を、レオンは冷徹な理性で強引に飲み下した。マルヴェイの翡翠の瞳は、ふざけてなどいない。完璧に、異常を検知した技術者のそれだった。
ここで醜態を晒すわけにはいかない。周囲の視線を意識した瞬間、レオンの脳内の「CEO」が息を吹き返した。
マルヴェイの指先から、自らの歯を押し上げる生々しい感触が伝わってきた。
レオンは伸し掛かるマルヴェイの身体をゆっくりと押し留めると、その指を自分の唇から静かに取り外した。自分の口元しか見つめていないマルヴェイを視界の端に収めながら、腰を低くして指示を待つカイへ、手枠だけで「待機」のサインを投げる。
怒りは、完全に霧散していた。代わりに、胸の奥底から得体の知れない熱い塊がせり上がってくる。
レオンは口元に手を寄せ、自身の舌で、異常に尖った犬歯の先端をなぞった。
前歯のあたりが、自らの血の巡りを誇示するように熱く脈打っている。
台座を降り、レオンは立てかけられた鏡に顔を寄せて、自ら唇をめくった。
「……再現性は」
鏡面を睨みつけたまま、低く呟く。
「感情負荷への依存か。それとも、同期率に由来するものか……」
鏡越しに、マルヴェイが持つ端末のカメラへと視線を鋭く向けた。
「……いつからだ、マルヴェイ」
「今しがた。
犬歯の伸長、瞳孔の収縮、魔力波形の乱れ。そのすべてが、君の『怒り』と完全に同期している」
「記録は」
「当然、残してあるよ」
マルヴェイの返答は端的であったが、その表情には隠しきれない好奇心が滲んでいる。
怒りの感情によって引き起こされた、悪魔化兆候――。
「おもしろい」
レオンは鏡の中に映る異形の歯を凝視しながら、その致命的な事実を、頭の中で静かに反芻した。
「……閾値は不明。私は、怒ることさえ許されないというのか?」
レオンの喉の奥から、低く、掠れた笑い声が漏れ出た。自嘲の笑みは、すぐに冷徹な確信へと変わる。
「……いや、違うな」
観測を続けるマルヴェイの目の前で、レオンはゆっくりと背筋を伸ばした。首元のタイに指をかけ、それを強引に引き剥がすように強く引っ張る――。その瞬間、マルヴェイのタブレットから、室内の静寂を切り裂くような鋭い警告音が鳴り響いた。
レオンはタイを引き剥がす手を止め、マルヴェイを睨んだ。マルヴェイは涼やかな顔でタブレットの画面をせわしなく操作しながら、ひょいと肩をすくめて見せる。
「着脱プロトコルのトリガー、今、決めちゃえば?」
「……面倒だな。後にしてくれ」
「強引に引きちぎって、一千五百万かけた特注スーツを使い物にならなくしていいなら、お好きにどうぞ?」
画面の向こうの翡翠の瞳が、いたずらっぽく笑う。
レオンは目を細め、乱暴に吐き捨てた。
「いいから、脱がせろ」
「はいはい。じゃあ、今の言葉で登録しとくね。……はい、設定終わり」
「おい――!」
レオンが止めるのを聞かず、マルヴェイは端末を操作しながら歩き出す。
苦々しい思いを抱えたままレオンがタイに手をかけると、それはするりと解れた。




