『激情の縮退運用(フォール・バック)』②
第2部:完璧な装甲の測定
二月九日 十六時
カフスボタンを留める小気味いい音が、静かな研究室に響く。
レオンが肩をすくめてジャケットを羽織ると、マスター・ニードルが施した加護が、静かに起動した。
鏡に映る姿は、洗練されたエグゼクティブそのもの。だが、その布地の内側には、古代の防護呪文が幾重にも折り畳まれて息を潜めている。
アンティーク・オブシディアンのジャケットは、最終調整の段階に入っていた。
肩線、袖丈、重力制御靴との歩幅同期。魔力伝導のロスはゼロに近く、肉体との融和はほぼ完璧と言っていい。レオンは台座の上に立ったまま、視線だけを鏡へ向けていた。
「……左肩、0.4ミリ補正」
マルヴェイが静かに告げる。背後から伸びた白い指先が、レオンの首筋へと伸びた。そっと、生地の皺を撫でるように整えていく。
マルヴェイは微かな微笑みを浮かべながら、衣服の上からレオンの背骨をなぞるように、ゆっくりと指を滑らせる。
針の落ちる音すら許されない静寂。その中で、壁際に控えていたカイの指先が、微かに動いた。
「カイ」
レオンが鏡越しの視線で制すると、漆黒のタクティカル・スーツをまとった護衛は、その場でピタリと動きを止めた。
表情を消したフルフェイスバイザーの奥で、警戒と責任に塗れた瞳がマルヴェイを射抜いている。
ヴァルプス不在のいま、彼の直属部隊からレオンの懐刀として配属されたカイは、その最速の反応速度を解放する瞬間を、飢えた獣のように待ち望んでいるかのようだった。
マルヴェイはカイの視線を気にする様子を見せず、レオンに声をかける。
「着脱プロトコルのトリガーはどうします?
精神負荷が限界値に達した際の、強制パージ(脱衣)機能も付帯できますが」
「……もう少し、考えたい」
「はい」
短い返答。その後、数秒の沈黙が落ちた。
レオンが腕を回す衣擦れの音と、タブレットを流れる測定値の揺らめきだけが、静かに室内に広がっていく。マルヴェイは手元の画面に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……最近、綺麗すぎますね」
レオンの眉が、僅かに動いた。
「何がだ」
「歩行ログです。呼吸、姿勢制御、視線固定。ノイズが減りすぎている」
「最適化しただけだ」
即答だった。
マルヴェイはそれを否定しない。ただ、採寸データをスクロールしながら、静かに続ける。
「通常時なら、良い傾向です」
「なら問題ないだろう」
「ええ。ただ――」
そこで一度、言葉が切れた。マルヴェイはレオンの背後へ回り込み、ジャケットの襟を整える。鏡の中で、その翡翠の瞳だけがゆっくりと細められた。
「高負荷障害の直前も、監視値は急に静かになる」
レオンの視線が止まる。室内の空気が、ほんの僅かだけ震えた。
「……君の仕事は、精神分析ではないはずだ」
「分析しているのは精神ではありません。運用状態です」
淡々とした声だった。マルヴェイは一歩下がり、タブレットへと視線を落とす。
「今の君は、少し収束しすぎている」
「……誤差が少ない方が安定する。違うか?」
「ケースによります。
……完全停止する直前のシステムも、同じように綺麗ですよ」
レオンの指先が、袖口を直す。その動きだけが、ほんの僅かに硬かった。
「……結論は早い方がいい」
「ええ」
マルヴェイは頷いた。
「ただ、早期解決と早期終了は別物です」
そこで初めて、レオンが鏡越しにマルヴェイを正面から見据えた。蒼水晶のように硬く冷たい視線。だが、その深奥には、じりじりと爆発を待つような僅かな熱が混ざっている。
「……だから、どうしろと言うんだ」
低い声だった。怒鳴ってはいない。けれど、強固に押し殺されていた何かが、堰を切るようにほんの少しだけ滲み出ていた。
マルヴェイは数秒、答えなかった。代わりにレオンのタイへと手を伸ばし、その中心線を静かに合わせる。
冷たい指先が、タイのサファイアブルーの一筋に触れる。
「別に」
その声音は、驚くほど事務的だった。
「今すぐ完全復旧しろ、とは言っていません」
レオンの眉間が、ゆっくりと深くなる。
「障害発生中のシステムは、通常『縮退運用』へと移行します。監視を増やし、ログを保持し、致命的な急停止だけを避ける」
「……」
「未修復のまま、歪に運用を継続すること自体は、珍しくもありませんから」
鏡の中。そこには、寸分の狂いもなく完璧に仕立てられたCEOが立っている。だが、マルヴェイはその完璧さなど見ていなかった。見ているのは、その美しい布地の内側で、過剰に圧縮され続けている何かだ。
「君は」
レオンがゆっくりと、這い出るような声で口を開く。
「本当に、余計なことばかり言うな」
「よく言われます」
わずかに笑う気配。それからマルヴェイはタブレットを閉じ、静かに一礼した。
「ですが、障害予兆はすべて記録します。それが、今の私の権限ですから」
背を向け、歩き出そうとするマルヴェイの手首を、レオンは遮るように強く掴んだ。滑らかな白い肌に浮かぶ、酷い火傷痕に一瞬だけ青い目を細め、そのままその身体を自分の方へと力任せに引き寄せる。つま先が触れ合うほどの距離。
引力に逆らわず引き寄せられたマルヴェイの翡翠の瞳には、しかし、驚きも、拒絶の色もなかった。凍りついた湖面のように静かな視線が、至近距離でレオンの激しい呼吸を受け止める。そのあまりの温度のなさに、掴んだ手首から伝わるはずの、かつての火傷の熱さえ見失いそうになる。
「……マルヴェイ。その敬語を、やめてくれないか」
マルヴェイが展開した正論への反論を、全く別の執着へとすり替える。
レオンは苛立ちを隠そうともしない青い瞳で、至近距離からマルヴェイを見下ろした。




