『激情の縮退運用(フォール・バック)』①
第1部:自爆の釈明草案
二月九日 五時
カチ、と精密な時計の針が時を告げた。
窓の外は、黒いインクを流したような闇と、石畳を濡らすしとしととした雨の音だけが支配している。
誰もいない執務室で、レオンは机のランプの明かりだけを頼りに、端末を握りしめていた。
視界の右隅に、青いシステムウィンドウが明滅する。レオンは溜め息をつき、空中をスワイプして、構築中の「釈明用草案」を開いた。
「……これは、アメリア基金におけるCEOの地位が『特権』ではなく、組織の安定のために身を捧げる『生贄』であることを示す象徴的演出である。
白制服の男は、特定の個人ではなく『厳格な規律』そのものの擬人化。
私が押し倒される描写は、CEO個人の意志よりも組織の論理が優先されるという、ガバナンスの徹底を表現したものである」
レオンは自ら書いた文面を読み上げると、眉根を寄せて次のページへと指先を動かした。
「……昨今、ディープフェイク技術の進化により偽動画の精度が向上している。あえて私が『最もスキャンダラスで、宗教的な物議を醸す』映像を自ら制作・公開することで、市場の耐性を調査し、真偽判定エンジンの精度をテストした。白制服の男の顔が見えないのは、誰にでもなり得るという匿名性の恐怖を――」
画面を下から睨みつけ、レオンは額を押さえた。
「……自分で書いておいて、意味がわからない」
唇を歪め、文字を打ち直す。
予算を通した以上、完成したPVを提示せねばならない。だが、その中身はオスカルを罠にかけるための爆弾を詰め込みすぎて、今やただの『自爆装置』と化していた。
自分の首を絞めるロープを、最高級のシルクで編み上げてしまったのだ。
心の中の黒い絵の具をひたすらすりつぶしているような、救いようのない思考のループが文字を踊らせていく。
胸を焦がす焦燥感にじわじわと体温を奪われながら、レオンは傍らで静かに明滅するA.I.D.Aへ手をかざした。
「A.I.D.A。契約相手への査定提出前に、意思決定のノイズを検知した場合の最適処理を」
データを読み込んだA.I.D.Aが、ゆっくりと回転する。
『……マスター・レオン。確認しました。
……そのノイズ、本当に除去対象ですか?』
「……どういうことだ」
『問題ありません。自己ログとの整合性を確認。現在のマスターは、極めて「生きて」います。
……そのまま送信しましょう!』
A.I.D.Aはクリスタル端末の周囲にホログラムの花火を打ち上げ、くるくると高速回転した。その無責任な電子音を聞いた瞬間、レオンはA.I.D.Aを掴んでソファへ放り投げ、執務机に額をこすりつけた。
「A.I.D.Aが……役に、立たない」
『最適解ですよ』
背後でA.I.D.Aが無機質に光る。レオンの視界の端で、極彩色の明滅が散った。
「……くそ」
頬から伝わる熱が、冷たい執務机を温くしていく。その熱がこびりつく前に、レオンは顔を上げた。
◆
件名:【共有】DPA初期検証素材(外部マル秘)
送信者:CEO レオン・ド・ラ・ノワール
受信者:オスカル・ド・ラ・ノワール
叔父上お疲れ様です。
DPA初期検証の一部素材を共有します。
現時点で外部公開の予定はありません。
市場耐性、および高負荷環境下におけるCEOの挙動分析の一環として取得した試験映像ですが、当初の想定とは異なる表情データが確認されたため、参考資料として送付いたします。
なお、本件については現在、実運用前提ではなく検証用途として再評価中です。
添付:DPA_test_material_v1.
◆
永遠のようにも思えるほどの逡巡を経て、レオンは送信ボタンを押した。
窓の外を見る。
ヴァルプスとの契約は、この胸を焦がす痛みを半分に分かち合っているはずだった。
だが、窓を濡らす雨の音を聴いていると、自分の身代わりに冷たい雨の中へと赴いたヴァルプスへの、泥のような不安が暗闇の中で肥大化していく。
いま刻まれている激しい心音は、彼に流れ込む自身の焦燥のせいなのか、それとも彼から逆流してきた恐怖のせいなのか、もう判別がつかなかった。
※初の予約投稿につき、10分ごとの投稿になります。ご了承ください。




