第16話:『泥を啜る覚悟と、蛇との契約』— 開拓(代償)
※基本的に登場人物たちの衣装はスーツです。
第1部:冷めたメイプルシロップ
その朝は、窓を叩く霧雨とともに始まった。
現世のオフィスを兼ねたレオンの居室は、空調によって常に22度に保たれているはずだが、今朝のレオンには、その空気が氷のように冷たく感じられた。
「……社長。メイプルシロップを多めに、とのリクエストでしたので」
ヴァルプスが、音もなくパンケーキの皿をテーブルに置いた。
立ち昇る湯気と、暴力的なまでに甘い香りが部屋に広がる。普段なら、この香りはレオンにとっての「凪」への入り口だった。しかし、今の彼の喉を通り抜けるのは、鉛のような重い沈黙だけだ。
数秒の後、レオンは無言でフォークを手に取った。
指先が微かに震えているのを、テーブルクロスの陰に隠す。
「……ヴァルプス。今日の定時監査だが、内容を変更する」
パンケーキを一口、無理やり飲み込み、レオンは努めて平坦な声を出した。
唇に残るシロップの甘さが、言葉の立ち上がりを、わずかに鈍らせた。
「これから単独で、現世の特殊資産ルートの開拓に向かう。
……座標の追跡は一切禁止だ。これは社長命令だ。いいね」
ヴァルプスの動きが、止まった。
赤い瞳が、レオンの伏せられた瞼を、そして隠しきれない頸動脈の激しい鼓動を、冷徹なデータとしてスキャンしていく。
「……単独で、ですか。叔父様の領域へ?」
「なぜ分かった」とは言わない。言えば、それが正解だと認めることになる。
「リスク管理だ。地獄の管理官(君)の魔力波形は目立つ。
バルナザールの監視網に引っかかる可能性をゼロにしたい。
……論理的な判断だ」
「論理的、ですか」
ヴァルプスが一歩、近づく。 その影がレオンの皿に落ちた。
「今の貴方の心拍数は、最大負荷時の85%に達しています。
魔力波形は乱れ、指先の体温は平常時より2度低い。……この数値を『平常』としてログに残せと、貴方はボクに命じるのですか、レオン」
ヴァルプスの声は静かだが、その裏には「管理官」としての意地と、剥き出しの懸念が混じっていた。 レオンは、フォークを皿に置いた。カチン、と硬い音が無機質な部屋に響く。
「……そうだ。これは『異常なし』として処理しろ。
ヴァルプス、君に守られた『エルフの標本』でいる時間は、もう終わったんだ」
レオンは立ち上がり、背を向けたままコートを羽織る。
ポケットの中の端末が一度、短く震えた。 ヴァレリアン――叔父の双蛇の片割れからの、ポータル座標の着信通知だった。
「18時までにバイタルが途絶えたら、独断で緊急回収に移行します」
背後から届いたヴァルプスの声は、もはや執事のものではなく、獲物を待つ捕食者のように低かった。
「……勝手にしろ」
レオンは一度も振り返らず、部屋の扉を開けた。
メイプルの甘い香りが、一瞬で廊下の冷たい風に掻き消される。
これから向かうのは、パンケーキの味など一瞬で忘れるような、汚泥と影の世界だ。
(……すまない、ヴァルプス。
君を連れて行けば、君の自由まで叔父のコレクションに並べられてしまう)
エレベーターの鏡に映る自分の顔は無表情で、そして――既に悪魔の「角」が、皮膚の下で疼いているようだった。
第2部:聖域の献立
霧雨に濡れる石畳を抜け、レオンは宝石姫の住まう邸宅の前に立っていた。
ポータルを潜る前にここへ寄ったのは、未練ではない。
これは「生還するための呪い」だと、自分に言い聞かせる。
玄関の扉を開ける直前、レオンはコートの襟を正し、冷え切った両頬を手の平で強く叩いた。血色を無理やり呼び戻し、口角を数ミリ引き上げる。
「ただいま、姫」
扉を開けると、そこには地獄の硫黄の臭いも、魔王本社の無機質な空気もない、柔らかな「生活」の匂いがあった。
「あら、レオンさん! お帰りなさい。今日は少し早いのね」
エプロン姿の宝石姫が、弾むような声でキッチンから顔を出す。
彼女が纏う空気は、レオンが先ほど浴びてきたヴァルプスの鋭い視線とは対照的に、どこまでも無防備で温かい。
「……ああ。少し、大事な商談があってね。
その前に、君の顔が見たくなったんだ。終わったらすぐに戻ってくる予定だよ」
レオンは彼女に近づき、その華奢な肩に、汚れを移さないよう慎重に手を置いた。
思い出したように脇に挟んでいた小さなブーケを手に取り、宝石姫にそっと手渡す。
宝石姫は淡く微笑んで受け取り、胸元でブーケを抱きしめた。
「商談? また大変そうね……。でも大丈夫、今夜はとっておきのシチューを作るわ。
貴方の好きな、お野菜がトロトロになるまで煮込んだやつ」
シチュー。 その響きだけで、レオンの胸の奥がキリリと痛む。 これから向かう場所では、血の通った温かいものなど、何一つ供されないだろう。
「シチューか。……いいな。楽しみだ」
「ふふ、お腹を空かせて帰ってきてね? 約束よ」
宝石姫が、いたずらっぽく小指を立てる。 レオンはその指を見つめ、一瞬だけ呼吸を止めた。
(……この指を、叔父の影から守る。その代価が、私の自由だとしても)
「ああ、約束する。必ず、腹を空かせて帰るよ」
彼女の額に、誓うように短く唇を寄せた。彼女の肌の温もりが、冷え切ったレオンの唇に、残酷なほど鮮烈に刻まれる。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、レオンさん。頑張ってね」
背後で閉まる扉の音。 その瞬間、レオンの顔から「騎士」の仮面が剥がれ落ちた。 階段を降りる足取りは重く、だが迷いはない。
彼はポケットから端末を取り出し、ヴァレリアンが指定した座標を起動した。
(……シチューを食べるために、魂を売りにいく。……滑稽だな。
ヒューム、君なら笑うだろうか)
街角の影に溶け込むように、魔導ポータルの青白い光がレオンを飲み込んだ。
光が収まったとき、そこはもう、シチューの匂いなど届かない「蛇の住処」だ。
第3部:影の兵站(断頭台の会議)
ポータルの青白い残光が霧散したとき、そこは色を失った世界だった。
重厚な黒檀の扉の前。左右を固めるのは、彫像のように動かないヴァレリアンと、退屈そうに爪を眺めるカイウス。 二人の無言の圧力を背に受けながら、レオンは一歩、叔父の私室へと足を踏み入れた。
室内には、光がない。 ただ、机の向こう側に座る男――オスカルの青い瞳だけが、暗闇の中で燐光を放っている。
「で、今回は何を“持ってきた”?」
叔父の声には、かつて箱庭で北極星を教えてくれた男の温度が、まるで最初から存在しなかったかのように欠落していた。
レオンは一度だけ、喉の奥で――塩気の強すぎる、あの夜のシチューの味を反芻し、感情を完全に殺した。
「Q4までに、大悪魔バルナザールの現世資産を実質ベースで三割削れます」
理由も、復讐心も、恐怖も言わない。
提示したのは、叔父にとっての「実利」としての数字だけだ。
暗闇の中で、オスカルがわずかに身を乗り出す気配がした。
「……ほう。あの『静寂の主』のポートフォリオを崩すと。……条件は?」
「一点だけ。現世拠点への直接介入は避けてください」
「拠点、だと? ……なぜだ。あそこを叩けば効率は上がるが」
レオンの背中に、嫌な汗が伝う。 だが、視線は逸らさない。
ここで「彼女が待っているから」と言えば、一瞬で彼女が人質になる。
「回収効率が落ちます。
私のパフォーマンス維持に必要な、最低限のインフラです――破壊すれば、こちらの動きが雑音になります」
「……インフラ、か」
オスカルは短く呟いた。 理由を言わないのが、理由。 その空白に横たわる「人間性」を、叔父は冷酷に、そして楽しむように見抜いている。
「で、具体的な手法は。……君がやるのか?」
「市場です。正確には、バルナザールの現世資産が、外部からはそう“見えるように”誘導します。
Q4に入れば、それらは本人の意思とは無関係に、動かなくなる」
「凍結」とは言わない。「攻撃」とも言わない。 ただ、機能不全を事実として突きつける。
「……市場の判断、というわけだ。面白い。……だが、もし失敗したら?」
レオンは、自分の喉元に断頭台の刃が落ちる感触を覚えた。
ここが、魂の売り渡し場所だ。
「……回収して構いません。
私を貴方名義の『オプション』として保持してください。
……行使タイミングは、バルナザール排除後で結構です」
(これでいい。これで、バルナザールは沈む。ヴァルプスは守れる。
宝石姫、君の食卓は、私が売ったこの『骨』で買い戻す)
沈黙が、部屋を支配した。 やがて、暗闇の中から、乾いた革の手袋が重なるような、小さな拍手の音が聞こえた。
「……いいだろう。その契約、承認する。
ただし、不渡り(失敗)を出せば、君のすべてを私が清算する」
「……問題ありません」
契約完了。
レオンは深く頭を下げ、部屋を後にした。
背後で扉が閉まった瞬間、彼は壁に手をつき、肺にあるすべての空気を吐き出した。
(……啜ったぞ。……生き延びるために、世界で一番冷たい泥を)
震える手で端末を起動する。 バイタルデータの定時送信。
定時自動送信。
『異常なし』
その四角い文字が、自分を縛る新たな鎖に見えた。
第4部:約束のシチュー
ポータルを逆流し、現世の湿った空気の中に吐き出されたとき、レオンの身体は芯から冷え切っていた。
外套のポケットの中で、指先がまだ自分の意志とは無関係に細かく震えている。
(……帰らなければ)
叔父の影が染み付いたこの身を、一刻も早く、あの優しい光の中に隠したかった。 宝石姫の邸宅へ向かう足取りは重い。だが、止まることは許されない。
「異常なし」と報告した以上、彼は完璧な「レオン・ド・ラ・ノワール」として、あの食卓に座らなければならないのだ。
玄関の扉を開けると、そこには同じ、温かな生活の匂いがあった。 だが、今のレオンには、その匂いですら刃のように鋭く鼻腔を突く。
「お帰りなさい、レオンさん! ……ずいぶん遅かったのね」
宝石姫がキッチンから顔を出す。湯気の向こうで、彼女は世界で一番無邪気な、混じり気のない笑顔を浮かべていた。
「……ああ。少し、込み入った案件だった。……待たせてすまない、姫」
「いいのよ。ほら、約束のシチュー。お野菜、トロトロに煮込んでおいたわ」
テーブルの中央に置かれた、温かな一皿。
レオンは冷たい水で執拗に手を洗ったあとに椅子に沈み込み、震えそうになる手でスプーンを握った。 一口、口に運ぶ。 それは、宝石姫が心を込めて作った、最高の味のはずだった。
(……味が、しない)
甘みも、塩気も、温もりも。
叔父と交わした「オプション契約」という言葉の冷たさが、レオンの味覚を一時的に麻痺させていた。
冷徹な契約が心に影を落としながらも、レオンはただの一瞬だけでもその優しさに縋ろうと、温かいシチューを飲み下した。――失敗すれば、叔父の手によって命を引き取られることになるという重圧を胸に抱えながら。
レオンは微笑んだ――その微笑みが、どれほど空虚なものであるかを、誰も知らない。けれど、その空虚ささえも、今の彼には必要なものだった。
「美味しいよ。……こんなに温かいものは、久しぶりだ」
「ふふ、よかった。レオンさん、なんだか少し疲れて見えるわ。今日は、ゆっくり休んでね」
「ああ。そうするよ」
嘘だ。
これから深夜にかけて、ヴァルプスに「現世ルートの開拓は成功した」と報告し、バルナザールを嵌めるための偽装データを構築しなければならない。
休息など、今のレオンには許されていない贅沢だった。
--
深夜。
宝石姫が眠りについた後、レオンはそっとベッドを抜け出し、リビングの窓辺に立った。 暗い街並みの向こう、地獄の塔があるはずの方向を見つめる。
ふと、端末が震えた。 ヴァルプスからの、暗号化されたメッセージ。
『社長。心拍数が平常値より10%低い。……シチューの塩分濃度が足りませんでしたか?』
皮肉とも、気遣いとも取れるその言葉に、レオンは今夜初めて、自嘲気味な笑みを漏らした。
隠しているつもりでも、ヴァルプスにはすべてが――あるいは「何もかもが正常ではないこと」だけは、伝わっている。
(……ヴァルプス。君が管理している今の私は、もう叔父の予約リストに載った、借り物の命だ)
レオンは窓に額を預け、冷たいガラスの感触に目を閉じた。
遠く、夜の空に北極星が瞬いている。 ヒュームが愛したあの星は、泥を啜り、魂を売った今の自分を、まだ「レオン」として照らしてくれるだろうか。
「異常なし」
レオンは独り言のように呟き、深い、深い闇の中へと、意識を沈めていった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。




