『剝がれ落ちる仮面、あるいは共犯者の夜』②
第2部:薄荷の残香、残酷な助言
監査室の重苦しい空気とは対照的に、ラウンジは静謐な優雅さに満ちていた。
高い天井は、夜空をそのまま切り取ったような黒真珠のドーム。そこには星の代わりに、本物の魂の破片が鈍い光を放ちながら明滅している。
ヴァルプスが座るソファは、絶滅した魔獣の産毛で織られた最高級品だった。
身体が沈み込むたびに微かな魔力が神経を癒やす。だが今のヴァルプスには、その心地よさがかえって「罪悪感の重み」を強調しているように感じられた。
アリストフェルは、水晶のテーブルに置かれた磁器のカップを指先で遊ばせている。
窓の外には地獄の赤茶けた大地ではなく、次元の狭間を流れる青い燐光の河が見えた。
「……アリストフェルさん」
ヴァルプスが、不味いと評される魔力ソーダに浮かんだ薄荷の葉をストローで突きながら、消え入るような声で口を開いた。
「閣下が言ったこと……やっぱり、ボクが甘かったのかな。
契約者を、レオンの純粋さを守りたいって思うのは、悪魔として間違ってるの?」
アリストフェルは、ティーカップから立ち上る湯気を眺め、ゆっくりと頬杖をついた。
「いいかい、ヴァルプスくん。
君はさっき専務の前で、レオンくんのことを『レオンはボクが守らなきゃいけない』と、涙ぐみながら力説していたね。
……あれは、本気でそう信じているのかい?」
「……えっ? そりゃあ、そうです。
レオンは、誰よりも誠実で、ボクのわがままに困りながら付き合ってくれて……ハメられて。
だからこそ、ボクが管理という名の盾をしっかり掲げてあげないといけません」
ヴァルプスが必死に弁護するのを、アリストフェルはしばらく無言で見つめていた。やがて、彼は耐えきれないといった風に、肩を揺らして笑い出した。目元は黒面で覆われていてわからないが、そのぶん大口を開けて愉快そうに笑う。
「ははは……! ヴァルプスくん、君は本当に、最高の……そして最高に滑稽な『小悪魔』だね」
「……笑うことないじゃないですか。
それにいまのボクは上級悪魔です。あの頃のボクじゃない」
「笑わずにはいられないよ。
君はエルフという種族の寿命を、ただの数字だと思っているのかい?」
アリストフェルは優雅な仕草でソファに背を預け、長い足を組み替えた。
「その長い年月。
彼がどれほどの血を浴び、どれほど人間の醜悪な欲望を最前線で捌き、どれほど厚い『嘘の皮』を剥いできたと思っているんだい。
……そんな男が、君のような子供の悪魔に守られるほど、純粋で無垢なわけがないじゃないか」
ラウンジの空気が、アリストフェルが放った「毒」によって一気に冷え込んだ。
「彼はね、君が自分のために一生懸命、必死になって『優しい嘘の壁』を築き上げているのを、特等席で見物しながら楽しんでいるんだよ。
……君がひとりで罪悪感を背負って、『ああ、ボクが彼を守らなきゃ』と使命感に震えながら尽くしてくる……その献身、その支配。
それこそが、今の彼にとって一番の受容であり、最高級の『煉獄茶』なんだ」
アリストフェルは身を乗り出し、呆然とするヴァルプスの耳元に顔を寄せた。
薄荷の鋭い香りが、ヴァルプスの鼻腔を突く。
「君が『看守』を演じれば演じるほど、彼は安心して『無力な収集品』を演じられる。
……君は彼を閉じ込めているつもりだろうが、実は、その『檻』の中に自分から入って、君に鍵を持たせているのは彼の方だよ。
飼い慣らされているのは、君かもしれないね? ヴァルプスくん」
アリストフェルは、ヴァルプスのソーダに自分のお茶を数滴、悪戯っぽく滴らした。
「君の嘘こそが、今の彼にとって唯一の『生きている実感』なんだ。
彼は君の支配を受け入れることで、初めて自分の空虚を埋めているのさ」
「そんな、こと」
「まあ、これは私の勝手な推測ということで」
アリストフェルは、立ち上がり際にふと足を止めた。窓の外の燐光の河ではなく、ヴァルプスの影を見て、低く呟く。
「……まあ、安心したまえ。
君が本当に壊す側なら、専務は君を叱らない。何も言わずに、回収している」
一拍置いて、いつもの薄笑いを浮かべた。
「叱られたということはね。君はまだ社員だ。
――それだけは、覚えておくといい」
そして、何事もなかったように去っていった。
※2026/05/29 大幅修正をしました。




