『剝がれ落ちる仮面、あるいは共犯者の夜』③
第3部:聖域の陥落
【場所:現世・宿屋の一室】
扉を開けた瞬間、部屋に満ちていたのは暖炉の温もりではなかった。冷たく鼻腔を刺すような――アリストフェルが残した「毒」そのものである薄荷の香りが、澱のように沈んでいた。
「……おかえり、ヴァルプス。今日も遅かったね」
影の中から響くレオンの声は、凪いだ海のように静かだった。しかし、その奥には逃れられない深淵を孕んでいる。
「ただいま、レオン。……お待たせして申し訳ありません」
「なにかあったのか?」
「いえ」
ヴァルプスは「完璧な管理官」の仮面を被り直し、レオンの肩に触れた。しかし、その指先は微かに震えてしまう。
バルナザールに「矮小なエゴ」と断じられ、アリストフェルに「特等席の受容」と嘲笑された動揺が、皮肉にもレオンへの接触を通じて、脈動と共に伝わってしまった。
「……嘘が下手になったね、ヴァルプス」
レオンがヴァルプスの顔を見上げた。
「バルナザール閣下に吸い取られて……。
それとも、同僚に、何か余計な呪いでもかけられたのかな」
レオンはヴァルプスの手元へ視線を落とす。
「……私に、なにかできることはないかな?」
「いえ……あなたは、ただ安らいでいてくれれば……」
「……ふふ。君が一生懸命築いたその『城』に、私がどれほど救われているか……バルナザール閣下には分からないだろうね」
「⋯…レオン」
レオンはヴァルプスの手を取り、寝台に腰を据える。ぽんぽん、と寝台の縁を叩き、レオンは淡く笑った。
「おいで。疲れただろう」
ヴァルプスは言いようのない胸の疼きを感じ、唇を噛みしめる。拒否はできなかった。ヴァルプスはそっとレオンの右手を取る。膝をつき、その手の甲に唇を寄せた。
「癒して、くださると?」
「……うん」
絡めた指を解くことなく、ヴァルプスはレオンの首筋に深く顔を埋め、その柔らかな肌に唇を寄せる。
レオンの青い瞳は、ヴァルプスと二人きりのときだけ、まだどこか危うい光を滲ませている。彼は今、暗闇の中で自分を閉じ込める悪魔の温もりだけを、唯一の熱量として求めているような気がした。
「ボク……もっと、がんばりますから」
「……気負わなくていい」
レオンの手がヴァルプスの角を優しく撫でる。自分は、傷ついた彼を「箱」に入れて守っているつもりだった。だが、本当は彼という名の巨大な箱に、自分から飛び込んで鍵を閉めてしまったのは、自分の方ではないのか。アリストフェルの残した「毒」が、ヴァルプスの思考を蝕んでいく。しかし、角から伝わる静かな振動に身を任せ、ヴァルプスはただ、ひたすらに目を閉じた。
レオンから与えられる安らぎが本物であるなら、騙されていたとしても構わないと、その温もりを噛み締めていた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。
※2026/05/29 大幅修正をしました。




