第14話:『現世に咲く黒の資産』— 開拓(独占)
第1部:「105%」の嘘
事務所の奥にある魔導通信端末から、青白い光がレオンの顔を冷たく照らしていた。
画面の向こうには、バルナザールの代理人である監査官が、無機質な事務処理の完了を待っている。
7月の湿った空気が窓から入り込み、事務所内の温度をさらに上げていた。
冷房が効かない部屋では、レオンの額に微かな汗が浮かぶ。その光景を、ヴァルプスは無言で桃味の氷菓を食べながら見守っている。
暑さのせいで時折、ヴァルプスの影が揺れた。
レオンはあらかじめ用意していた「ヴァルプス・ド・ラ・ノワール移籍に伴う現世研修計画書」を送信した。
その中には、バルナザールが喜ぶであろう甘い言葉が並んでいる。
「閣下の偉大なる因子を継ぐこの個体を、あえて現世の『汚泥』の中で揉む。
これこそが、将来的に本社の利益を最大化させるための、高度なOJT(実地研修)なのです。
管理責任はすべて私が負い、閣下には『研修管理費』という名の純粋な配当だけをお届けします」
数分後、端末が重厚な音を立てて反応した。
画面に浮かび上がったのは、バルナザール本人の魔力署名が刻まれた【不干渉推奨】の刻印。
「……よし。これで、あの人の『直感』がこっちに向くことは、当分ない」
レオンは深く息を吐き、ネクタイを緩めた。その仕草が、より一層汗ばんだ褐色の肌に不釣り合いに感じる。
「主さま、また専務を騙したんですか?」
ヴァルプスが氷菓を食べ終え、細い木の棒を齧りながら身を乗り出した。その瞳には、主人の狡猾さへの呆れと、自分を「守り抜いた」ことへの隠しきれない熱が混ざっていた。
「騙したのではない。
……お前という『不良在庫』を、私が責任を持って『永久欠損(独占)』すると報告しただけだ」
ヴァルプスが苦笑いを浮かべながらも、どこか安心しきった表情を見せる。
レオンは端末を切り替えると、自分だけが閲覧できる「真実の損益計算書」を開いた。
バルナザールに報告した利益は「105%」。
だが、裏帳簿に踊る実質利益は「320%」を超えている。
差額の215%は、すべてヴァルプスの身代金であり、これからのQ3を優雅に過ごすための「凪の軍資金」だ。
表向きはバルナザールの看板を借りつつ、内実はレオンがすべてを奪取した二重契約。
嵐のようなQ2が去り、不穏な変異さえも日常として楽しむための、狂気的なほど平穏な第3四半期(Q3)が、今ここから始まろうとしていた。
第2部:名前に宿る責任
市役所の出張所は冷房が効きすぎていて、外の暑さが嘘のように肌寒かった。
足元のタイルの冷たさが、レオンの感覚を少しだけ鋭くする。
番号が呼ばれ、レオンは滑らかな手つきで書類を窓口へと差し出した。
彼の白シャツの袖が、腕の筋肉にぴったりと沿って、光を受けてほんのり輝いている。そのシンプルな装いは、余計な装飾がなくとも彼の整った顔立ちと引き立て合い、まるで誇らしげに洗練された印象を与える。
少し眉をひそめた表情、まっすぐな青い目線──どこか異国の貴族を思わせる、完璧な好青年。
窓口の職員は、レオンの整った顔立ちと、隣でソワソワしている銀髪の青年に目を留めた。
その青年、ヴァルプスもまた美しい容姿を持つ。しかし、その美しさにはどこか儚げなものがあり、白いシャツがそれを一層際立たせていた。
頭後ろで一つに結ばれた銀色の髪が肩に流れ、青白い肌はまるで冷たい石のように、静かに強調される。
彼の赤い瞳が一瞬、職員と視線を交わしたが、すぐにレオンに寄り添うように、少し離れて静かに立った。
レオンが書類を渡す際、職員がもう一度その二人の姿に目を留めた。違和感を感じるのも無理はない。
本来ならばエルフと悪魔──ただの親族に見えないその二人には、はっきりとした違和感と、何かしらの秘密が隠れているようだった。
「……珍しいお名前ですね。ご兄弟ですか? その、あまり似ていらっしゃらないようですが……」
レオンは一瞬、心臓の奥がチリと焼けるような感覚を覚えた。
自分が以前持っていた家族の名前を、今や悪魔界の「研修個体」に分け与えているという事実に、少しばかりの疎外感を覚えた。しかし、すぐに完璧な営業スマイルを浮かべて、言葉を紡ぐ。
「ええ。……少し手のかかる、従弟です」
その答えに、ヴァルプスが机の下でレオンの裾をぐいと引っ張った。
レオンが少しだけその肩を振り返ると、ヴァルプスの瞳に浮かぶのは、昔、何度も見てきた、どこか甘えたような輝きだった。
彼にとって「従弟」という響きが、バルナザールの「所有物」としての刻印を少しずつ上書きしていく、希望の証のように感じられたのだ。
ヴァルプスが軽く息を呑み、その足音がレオンの動きに合わせてきて、彼の手が少し震えているのがわかる。あの「名前」が本当に現世での新しい居場所を意味するものだと思うと、今までどこか「借り物の存在」として過ごしてきたヴァルプスにとって、これは大きな一歩だった。
「はい、ではこちら。新しい身分証です。大切に保管してくださいね」
手渡されたのは、現世のどこにでもある長方形のカード。
それには確かに【ヴァルプス・ド・ラ・ノワール】という文字が刻まれていた。
レオンがそれを受け取ると、ヴァルプスはそのカードを奪い取りしっかりと握りしめ、まるで自分の存在がここで証明されたかのように眺めた。
「……ボク、本当に、研修生になっちゃった」
その言葉に、レオンは少し胸が締め付けられるのを感じる。
ヴァルプスの瞳の中には、今まで見せなかった安堵と希望が入り混じっていた。レオンは一瞬、言葉を飲み込み、顔を向ける。
「何を言っている。君は最初から私の……」
その言葉を飲み込み、レオンは少しだけ表情を緩めて言った。
「資産だ」
その瞬間、レオンの内心に広がった微かな後悔の気持ちが、どうしてもヴァルプスには似つかわしくないと感じた。あの美しい瞳が、どこか子供のように輝いているからだ。
レオンはふっと言葉を漏らす。
「……大切にしろ。その名前は、現世では私と同じだけの『責任』を伴う」
その言葉が、少し冷たく響いたことを、レオンはわずかに後悔したが、今はそれが最も必要だと思う。
彼の中で、ヴァルプスは既に「資産」としての価値を持ち、その扱いには慎重でなければならなかった。
「わかってますよ、お兄様!」
「……外でその呼び方はやめろと言っただろう」
レオンは一瞬顔をしかめるが、すぐにその目の端が夏の眩しさのせいか、わずかに歪むのを感じた。
足早に歩き出すと、ヴァルプスは少し遅れながらもその足音に合わせてついていった。
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現世市民権・身分証(現地盤・書き換え後)
発行機関:地獄台帳管理局・認可局(現世支部)
氏名:ヴァルプス・ド・ラ・ノワール(正式個体名・市民登録済み)
所属:レオン個人資産・家族権下
階級:特例上級(現世管理職相当)
特記事項:本個体はレオン閣下直轄の資産・家族権として完全管理。
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第3部:翡翠の監視者
役所の帰り、二人は路地裏の奥にある「影の吹き溜まり」へと足を進めた。
目的は、バルナザールの監視回線を欺くための「二重帳簿」の完成だ。
店に入る直前、レオンは足を止め、隣の銀髪の青年に静かに言い含めた。
「ヴァルプス。これから会う男は、記憶に留めておくだけでいい。
……以前、お前があの男の無礼さに噛み付こうとしたのは覚えている。
だがあまりにも無粋な場面だ。今日は大人しく影に入っていなさい」
ヴァルプスは不満そうに唇を噛み、頬を膨らませる。
「……だって、あの人。
主さまに対して、ありえないくらい失礼じゃないですか」
その声には明らかな不快感がにじんでいるが、レオンは冷徹な眼差しを向けて、静かに制した。
「あれは、そういう風にしか作られていない『個性的な男』だ。
プログラムのバグに怒っても、時間の損失にしかならない。……分かったな?」
ヴァルプスは少し黙り込むが、やがて不満を抑え込んで、そっと頷いた。
レオンにとって、その異常な距離感を持つ男は、もはや「不快な感情」の対象ですらなく、冷徹に「仕様」として処理している。
だが、その「仕様」に従って動くことが、ヴァルプスには容易ではないのだった。
店内は薄暗く、まるで時が止まったかのような静けさが漂っていた。
壁には古びた掛け軸が無造作に掛けられ、そこにはほのかな湿気とともに腐敗したような微かな匂いが漂っている。
細かな埃が静かに浮かび、ランプの灯りが不安定に揺れる中、まるで誰かが時間を止めたかのように、空間全体が鈍く沈んでいた。
そんな空間の奥から、翡翠色の瞳がまるで獲物を狙うかのように鋭くこちらを射抜いていた。やがて男の姿が暗闇から浮かび上がり、その白い顔には不気味な笑みが浮かんでいる。軽く振った耳朶の形はレオンと同じ種族を主張していた。
東方の国独自の薄紫色の衣装に身を包んだ彼の存在自体が、まるでこの店の一部であるかのように、この場の異様さをさらに引き立てていた。
「おや、いらっしゃい。……現世の新たな『ド・ラ・ノワール家長殿』」
淡桃色の髪を揺らし、マルヴェイが口元に悪戯めいた笑みを浮かべる。
レオンは眉一つ動かさず、その挑発をスルーした。
「こんにちは、マルヴェイ。
……皮肉はもうよしておけ。
叔父上が聞けば、君の薄っぺらな舌をコレクションに加えるだろう」
「おや、怖いな。でも、この『王国』では君こそが唯一の支配者だろう?
オスカル氏も君が地獄の契約を書き換えてまで『家族』を増やしたことを面白がっているに違いない」
マルヴェイはカウンターから身を乗り出し、まるで獲物を検品するようにレオンを舐め回す。その翡翠色の瞳は、レオンの内面に生じるはずの「亀裂」を期待して爛々と輝いていた。
「ヴァルプス、影に入れ。……私の声だけを聞いていろ」
「……了解」
ヴァルプスは渋々とレオンの足元の影に沈み込んだ。その影の中で、主人の冷徹な交渉を聞きつつ、不快な外気を遮断するように懐から薄荷味の飴玉を取り出して転がし始める。
マルヴェイは、レオンと2人きりになるなり待ってましたとばかりに距離を詰めた。
鼻先が触れそうなほどの、狂気的な距離感。
レオンの青い瞳を、その奥までこじ開けようとする執拗な視線。
マルヴェイの翡翠色の瞳がレオンの目に焦点を合わせると、まるで一つ一つの変化を収集するかのように、その瞳孔の僅かな変化を見逃すまいとする。
彼の目は深く、冷徹に、レオンの身体と心の隅々までを測り取ろうとしていた。その心理的圧迫を、レオンは表情ひとつ変えずに受け流し、微笑みを浮かべた。
普通なら嫌悪感で顔を背けるような至近距離。だが、レオンは瞬きひとつせず、むしろその距離感さえも「検収」の一部として悠然と受け止めた。
「……右目の瞳孔が、薄く縦に割れている。これはどうしたんだい?
へえ、わずかに金の輝きも見える。
……怖い? 自分がどんどん、自分でなくなっていく感覚は君を揺らがせているのかな」
マルヴェイの濡れた吐息がレオンの鼻先にかかる。
(……やはり、この男のパーソナルスペースという概念は初期設定から破損している。
だが、この執拗な『個性』こそが、地獄の監視を潜り抜ける偽造技術の源泉なのだろう)
レオンは僅かに目を細めたあと、むしろ、その変異を自慢のプレゼンのように語り始めた。
「そうだろう? なかなか興味深い身体になっているようでね。
昨夜よりスリットの深度が0.5ミリ増した。毎朝鏡を見るのが楽しくて仕方ないよ。
……君も、この機能美を理解できる側だと思っていたが、違ったかな?」
「君のその強さは毒だね。
いや嫌いじゃない、嫌いじゃないとも……えぇ。えぇ」
期待していた「動揺」が得られなかったマルヴェイは、苦い薬を飲まされたような顔で視線を逸らした。
それでもマルヴェイの目は鋭く、視界の端ではレオンの姿勢や仕草を全て観察していた。
彼の欲望と好奇心は、レオンの反応を引き出すことに向けられ、目の前の冷徹な交渉すらも一種のゲームのように感じている。
マルヴェイは、レオンがどこまで自分を隠すのか、その心理的な動揺を引き出すことで、彼の「真実」を見たいという欲求に駆られている。
「……あの子を隠さなくてもいいのに」
「いや、君は印象が強すぎるよ。さて、それで準備は整ったかな?」
マルヴェイが差し出したのは、専務の監視ログに「偽の105%」を流し続ける偽造ゲートの認証キーだ。
レオンは視界を埋め尽くすマルヴェイの顔を見下ろしながら、手を上げる。
マルヴェイはレオンの手のひらの上に認証キーを乗せると、そのまま自身の手を重ねて指を絡ませた。
「今回の代価はねぇ……そうだな、そのネクタイピンを置いていってもらおう。
君の肌に一番近く、君の呼吸を聞いていた、その『名残』をいただこう」
レオンは無言でネクタイピンを外す。その動作は無造作であり、まるでゴミを捨てるような冷淡さだった。
執着されることさえ、彼にとっては自分の価値を高める「コスト」として捉えていた。
レオンがネクタイピンを手放すその瞬間、マルヴェイはそれを包み込むように慎重に手を伸ばし、まるで彼の一部を手に入れたかのように、その『名残』を大切に保管しようとする。
マルヴェイは自分の掌の上にハンカチを広げるとネクタイピンそっと置いて大事そうに包んだ。その顔は本当に嬉しそうだった。『これが、君の一部なんだ』と心の中で呟きながら。
「……Q3の検収は順調なようだな、マルヴェイ。次の定期連絡を待っているぞ」
「あとでメールするね……ふふふ」
マルヴェイはレオンの言葉に応じて小さく笑うが、その微笑みの奥に潜むのは、無意識のうちにレオンに向かって手を伸ばす欲望だった。
レオンはそれに気づかぬふりをして、静かに身をかわしマルヴェイに背を向けた。
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店を出ると、薄暗い路地の空気が冷たく感じた。
外に出てしまえば、もはやマルヴェイの執拗な視線からは解放されたはずだが、それでもレオンの耳の奥にはまだ、あの男の愉悦を含んだ声の余韻が残っている。
「ヴァルプス、行くぞ」
影からヴァルプスがひょいと現れ、レオンの背を追って歩き出す。
風が吹き、路地裏の片隅に積もった埃が舞い上がった。
レオンはヴァルプスと歩幅を合わせ、足元に視線を落としながら一歩ずつ前に進む。その横顔は静かだが、どこか内側から湧き出す愉しみを噛み締めているようでもあった。
あの男の挑発を逆手に取り、自らの変異を「機能美」と断じた瞬間の、マルヴェイの拍子抜けした顔。それを思い出すことは、レオンにとって密かな、そして確かな勝利の味だった。
「……主さま、社長、あの、お兄様」
「その呼び方はよせと言っているだろう、ヴァルプス」
「……すみません。
でも、あの人の前で主さまが……なんだか、すごく遠いところに行ってしまう気がして、怖かったんです」
ヴァルプスは影の中で聞いた、レオンの「変異を喜ぶ声」を反芻していた。
未知の存在へと加速していく主人の足音。
レオンは一瞬だけ足を止め、自らの右目にそっと触れた。
「遠くへなど行かないさ。
ただ、私という資産がより効率的に、より強固にアップデートされているだけだ。
……正直なところ、面白いと思っているよ」
レオンは薄く目を細めると、胸元から色付きの眼鏡――サングラスを取り出して装着した。
世界は一瞬で影の色に沈んだが、ぎらついた太陽の光が遮られたその景色は、今のレオンにとっては驚くほど歩きやすく、心地よいものだった。
「さあ、帰るぞ。
今日はマルヴェイから掠め取った『余裕』で、最高に甘いケーキを検収しなくてはならないからな」
レオンは淀みなく一歩を踏み出した。
背後で「ケーキ!」と叫ぶヴァルプスの声を聞きながら、彼はサングラスの奥で、右目をさらに細めた。
第4部:漆黒の更新
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【管理対象:L・D・N 定期検収ログ(Q2)】
■7月報告書:視覚情報の同期と最適化
右目:瞳孔のスリット化が定着。暗所での熱源感知能力が向上。
特記事項:対象は現世の景色を「ノイズが多い」と称し、サングラスを常用。
視界変化を「効率的」と評価。
管理官所見:視線は鋭利で、無意識か意図的か不明。
隠していた飴の場所も容易に把握され、感覚鋭敏化の進行が確認された。
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■8月報告書:生体維持機能のアップデート
左目:右目に追従。瞬膜退化、粘膜自浄作用向上を確認。
観察:連続覚醒下での凝視時間15分超(瞬きゼロ)、集中力極大化。
特記事項:対象は「瞬きというロスが消えた」と称賛。
管理官所見:寝顔30分間、目は閉じず。
本人は無意識に維持、新しい標準と思っているのかもしれない。
長時間凝視に楽しさが見えるが、記録対象外。
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■9月報告書:骨格構造および末端組織の新規出力(Ver.1.0)
側頭部:左右に硬質突起を確認(皮膚下2mm〜表層)。
爪:硬質化・色素沈着、天然漆黒に変質。
計測:前日比+0.5mm、角の基部形成。
特記事項:聴覚異常発達。隣室の心音を「BGM」と処理。
対象は爪の変化に「マニキュア下地の手間が省けた」と発言。
管理官所見:計測中、社長から「悪くない」と評価。表情の微細変化は記録上無関係。
爪の変化に軽い楽しみを見せるが、記録に影響なし。
変化は無感情に記録、進行状況は注視。
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「――以上、9月30日、23時50分の定時報告です。……異常、なし」
ヴァルプスは事務的な口調を維持したまま、バインダーの金具を『ガシャン』と重々しく鳴らした。その鋭い音だけが、月光に照らされた社長室の静寂を切り裂く。
机の向こう側、レオンは漆黒の椅子に深く身を預け、自らの指先を見つめていた。その爪は、既にエルフのそれではなく、硬質な光沢を放つ黒い宝石のようだった。
「異常なし、か。優秀な管理官だ、ヴァルプス。
見てごらん……この爪、塗り重ねる必要すらなくなった。中まで完璧な黒だ。
……私の体は、私の好みをよく理解しているようだ」
レオンは微笑みながら、黒くゆるやかな髪をかき上げた。 そこには、皮膚を力強く押し上げ、天を突こうとする小さな『角の芽』があった。指先で触れれば、それは熱く、脈打ち、地獄の律動を刻んでいる。
「私の側頭部にある、この『異物』を数えてもそう言えるのは、君くらいだろうな」
「……異物じゃありません。ただの、仕様変更です」
ヴァルプスは震える声で言い返した。
チェックシートの余白には、びっしりと書かれた「枕の高さ調整」「角カバーの試作」「聴覚過敏への対策」のメモ。彼はレオンが怪物になっていく恐怖を、膨大な事務作業の中に封じ込め、自分に言い聞かせているのだ。
「いいじゃないか。仕様が変わるなら、マニュアルを書き換えれば済む話だ。
……変わらぬものなどない。なら、変わることを楽しめばいい。
私は今、かつてないほど自分の『性能』に満足しているよ」
レオンは立ち上がり、音もなくヴァルプスの背後に立った。
サングラスを外したその瞳は、暗闇の中で冷たく、黄金色の燐光を放っている。
鏡に映る二人の姿――完璧な悪魔の相貌へと近づく男と、背後からくる波のような怯えを感じた悪魔が、鏡越しに視線を交差させる。
「ヴァルプス。Q4の決算までに、私は私を完成させる。
……君がバルナザールの支配から逃れるために、私は、私という人間の全てを代価として支払い終えるつもりだ」
「……お兄様」
「その呼び方は、もうすぐ『契約違反』になるな」
レオンはヴァルプスの耳元で、甘く、冷たく囁いた。
新調されたその耳は、ヴァルプスの心拍が恐怖ではなく、強烈な依存と悦びで跳ね上がっているのを正確に聞き取っていた。
レオンは淀みなく歩き出し、椅子に座り直した。
自らの変異を祝福するように、机においていたお気に入りの黒い小瓶に手を伸ばす。
蓋を外すと、微かに揮発性の香りが漂い、黒い液体が光を受けて深く艶めいた。指先で液体の粘度を確かめ、爪に沿わせるように塗布する。
光沢が爪表面に乗る瞬間、レオンは淡い満足を確認した──あくまで機能美として、変化が予定通りに反映されているかの確認作業として。
「……壊れるなら、もっと派手な壊れ方を見せてくれ。
検収し甲斐があるというものだ」
独りごちて、レオンは満足げに指を曲げた。
ヴァルプスは呆れたように小さく溜息をつき、同時に、この狂った日常が壊れていないことに深い安堵を覚えた。
普通の人間なら「自分が自分でなくなること」を何より恐れるのに、このエルフは「新しい自分」に出会えることを、初恋を待つ子供のように心待ちにしている。
主が自分を「面白い実験体」だと言って笑う限り、この地獄はどこまでも平穏なのだ――たとえその先が、破滅であったとしても。
レオンは机の引き出しから、二つのカードを取り出し、月光の下に並べた。
一つはバルナザールの紋章が鈍く光る地獄の認可証。
もう一つは、先ほど手に入れたばかりの『ド・ラ・ノワール』の名が刻まれた現世の身分証だ。
「いいか、ヴァルプス。
地獄の役人が来たら、その認可証を見せろ。彼らは権威に弱い。
……だが、現世の住人が来たり、私が死にかけたりした時は、この住民票を盾にするんだ。
それは私がお前の家族であるという、この世界で唯一の嘘のない契約だ」
「……はい。……どっちのボクも、社長が守ってくれたボクですね」
ヴァルプスは、その二枚のカードを交互に見つめ、やがて大切そうに胸元へ仕舞い込んだ。
その薄いカードの重みは、彼がこれまで地獄で背負わされてきたどの「重罪」や「呪印」よりも、ずっと重く、そして誇らしいものに感じられた。
「……お前の価値を、他人の物差し(バルナザール)に決めさせるなと言っただろう。
それは、私が検収し、私が承認した資産だ。
誰にも、一ミリたりとも毀損させるつもりはない」
レオンはそう言って、光沢さを上げた漆黒の爪で、ヴァルプスの顎を羽毛に触れるような繊細な圧で撫でた。
ヴァルプスはその手に頭を預け、目を細める。 レオンの指先から伝わるのは、もはやエルフの清冽な体温ではなく、地獄の業火を宿し始めた熱だった。けれど、その熱こそが、今のヴァルプスにとっては世界で最も安全な場所の証でもあった。
ヴァルプスが一瞥して部屋を出ていく足音を聞きながら、レオンは再びサングラスをかけ、月光を遮断した。
暗闇に沈んだ部屋で、黄金の瞳だけが、次の戦場を静かに見据えていた。
第5部:微笑む支配者(Q3)
店を出て路地を抜けると、初秋の柔らかな夕暮れが空を覆っていた。
数ヶ月前、Q2が始まった頃の暴力的な湿気と熱気は、もう遠い記憶だ。足元では乾いた落ち葉が音を立てて舞い、微かに冷たい風が二人の頬を撫でる。
レオンは立ち止まり、サングラス越しに街の灯りをひとつずつ数えるように見渡した。
「……空気が変わったな」
「そうですね。……少しだけ、寂しい匂いがします」
ヴァルプスはマフラーを直すように首筋をさすり、かつてバルナザールが刻んだ呪印を覆い隠す「ド・ラ・ノワール」の誇りを静かに、だが強固に纏っていた。
今年のQ3(7月~9月)は、完璧な「凪」だった。
バルナザールへの虚偽報告も、ヴァルプスの現世での市民権の確立も、変異という名の『新OS』のデバッグも──すべて、レオンの描いたロードマップ通りだった。
振り返れば、あの熱く湿った夏の日々も、今では遠く、淡く輝く記憶だ。
足元の落ち葉がひとひら、風に舞った。
空気の冷たさに、夏の名残はもうない。
だが、季節が冬へ向かうように、地獄の契約もまた、次のフェーズへと動き出す。
レオンは指先で黒く硬質化した爪をなぞった。
Q4──それは、積み上げた裏利益(320%)を武器に、バルナザールからヴァルプスの完全な所有権を奪い取る、最終決算の季節だ。
「寂しがる必要はない、ヴァルプス。Q4は、より刺激的な戦場になる」
……小さな事件、大きな策略。すべては、私たちの『検収』対象。
……私も、名前に恥じない働きを」
「……はい、社長。……お兄様」
レオンは一瞬、眉を動かしたが、それを咎めることはしなかった。
夕闇が深まり、街の灯が一層鮮やかに浮かぶ。
レオンはサングラスをかけ直し、黄金の瞳で冬の足音を捉えた。
変わらぬものなど何一つない。
だが、その変化を支配し、楽しみ、自らの「機能美」へ昇華させた者だけが、地獄の王ですら見たことのない景色を目にするのだ。
二人の影は、長く、深く、秋の夜道へと伸びていった。
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現世市民権・身分証(現地盤・書き換え後)
発行機関:地獄台帳管理局・認可局(現世支部)
氏名:ヴァルプス・ド・ラ・ノワール(正式個体名・市民登録済み)
所属:レオン個人資産・家族権下
階級:特例上級(現世管理職相当)
特記事項:
本個体はレオン閣下直轄の資産・家族権として完全管理。




