『聖域の収穫、あるいは無垢な署名』③
第3部:共犯者の夜
「……ヴァルプスくん。いま、誰とお話しているの?」
静寂を裂いたのは、月光のように涼やかな声だった。ヴァルプスは心臓が喉から飛び出しそうなほど跳ね、通信機を抱え込むようにして振り向いた。そこには、全てを見透かしたような瞳をした宝石姫が、白い花のように立っていた。
――しまった。査定を誤った。この距離なら気づかれないと踏んでいたのに。
「……あ……宝石姫ちゃん……これは……」
「レオンさんに関係すること、だよね」
問いというより、確認だった。宝石姫の声に責める色はない。それがかえって、ヴァルプスの喉を締め上げた。
通信機から、低く愉悦を孕んだ笑いが漏れる。
『……ふむ。希少種の娘か。ちょうどいい』
バルナザールの声は、物理的な質量を持って夜の空気を震わせた。宝石姫はその見えざる「王」の気配に息を呑み、けれど怯むことなく小さく一礼した。
「閣下!また日を改めてご連絡差し上げたく」
『娘よ。このまま私の話を聞くといい。いま、レオンくんをどうやって元気づけようかとヴァルプスと相談していてね。
君も感づいてはいるだろう?彼が君にひとつの愚痴も零さずに君を守り続けていることを。
レオンくんはね、いまだいぶ精神が壊れているみたいなんだ』
「閣下、やめてください」
「……」
『それで、ヴァルプスがその問題を解決するための計画を練っていたところなのだよ』
「……そう、なのですね」
宝石姫はヴァルプスの顔をちらりと見て、それから彼の手元の通信機を見下ろす。
『ついでに言うと。娘よ、ヴァルプスが恐れているのは、自分の私情だよ。
彼は悪魔でありながら契約者に懸想して、君を厄介なライバルとして見ている。……ヴァルプス。譲る気がないのだろう? あの男の腕の中を』
「なにを……」
言った瞬間、自分の声が震えていることにヴァルプスは気づく。いつもなら軽口の一つも挟んで場を制御できるのに、今は自分の持ち駒が全部見えてしまっている気がした。
反論の言葉が出てこなかった。それが一番、答えになった。
宝石姫は少しの間、ヴァルプスの顔を見つめていた。値踏みをするような視線ではなく、確かめるような静かな視線だった。
「……なんとなく、わかっていました。時々、あなたが私と同じ目をしていたから」
彼女の手が、ヴァルプスの肩に置かれる。夜風で冷たいはずのその手が、衣服越しにもやけに熱く感じられた。
「でも、私も手放すつもりはないの」
冷ややかな紫の瞳と、揺らぐ赤の瞳が交差する。ヴァルプスは、いつもなら真っ先に働くはずの計算高い部分――相手の出方を読み、有利な条件を提示する部分――が、完全に沈黙しているのを感じた。前例のない判断力のなさに、ヴァルプスの喉が鳴る。
「……宝石姫ちゃんは、自分がレオン好みだから愛されてる、って思ってるんだよね。でも、知ってるよ。それ、本当は」
言いかけて、ヴァルプスは口をつぐんだ。この先を言えば、自分の中の一番醜い部分に触れることになる。
宝石姫は、その沈黙の意味をわかっているような顔で、静かに続きを促した。
「バルナザール様。教えてください。さきほど話していた強い生命エネルギーとは、何を指すのか」
一拍、彼女は目を伏せた。長い睫毛が影を作る。ヴァルプスには、その一拍が数分にも感じられた。彼女はおそらく、今、天秤にかけている。自分の身体を守ることと、レオンを守ることと、そして――ヴァルプスを一人で抱えさせないこと。
『それは言葉遊びをしたいのかね?では、娘よ……君の髪や爪の欠片を、あの男が愛でていたことは知っているかな』
「お待ちください」
ヴァルプスは咄嗟に割って入った。
「あなたから暴露するのはお門違いだと思います。守秘義務があるのですよ」
『守秘義務、ね』
バルナザールが喉の奥で笑う気配がした。
宝石姫はヴァルプスをちらりと見た。責めるでも咎めるでもない、ただ本当のことを教えてほしい、という目だった。
ヴァルプスは、いつも通り言葉を売買のように選ぶことができず、もじもじと足踏みをする。代わりに、素のままの声が口から零れた。
「ボクからちゃんと言うね」
息を吸い、呼吸を整えてからヴァルプスは告げた。
「……レオンはさ。変わらないものが好きなんだ。壊れない、朽ちない、永遠にそのままでいられるもの。……だから宝石姫ちゃんを、モノとしてじゃなくて、守りたい永遠として見てる。いつだったか、星って言われたこと、覚えてる?君は、レオンの北極星なんだよ」
言ってしまってから、ヴァルプスは自分がレオンの一番弱い部分を彼女に差し出したことに気づいた。だが、もう止まらなかった。
「レオンは、自分から言ったことがないけど。たぶん、変わっていくものが怖いんじゃないかな。ボクも、いつか契約が終わったら消えるかもしれない存在で……だから、君がことのほか眩しく見えて、大事にしたいんだと思う。
まあ、髪が落ちたら土地が豊かになって狩人に居場所が割れるからって理由で拾ってたときもあったし……寝てるとき、髪を梳いてたのも、本当だけど。いや、あれは、レオンの趣味っていうか……好きなものに、触れていたかっただけなんだと思うけど……ああもう」
自分はなにを擁護しているのだろうと思いながら、ヴァルプスはため息交じりに息を吐いた。
「……そう。じゃあ、私のこの身体も、あの方にとっては『永遠でいてほしいもの』の一つなのね」
「宝石姫ちゃん――」
「いえ、いいの。宝飾の民はもともと、そういうものだから」
宝石姫は、しばらく黙っていた。その沈黙の間、彼女の紫の瞳が、一度だけ自分の指先――白く、傷一つない、磨かれた宝石のような指先に落ちた。まるでそこに、自分がずっと知っている「もう一つの呼び名」を見ているかのように。
装飾の民。美の女神が、ただ愛でるためだけに作った種族。地に落ちた髪の一筋すら、誰かの財産になる。ヴァルプスは、彼女がその出自について語ったのを聞いたことがなかった。けれど、今この瞬間、彼女が何を思い出しているのか、ヴァルプスにはわかる気がした。
やがて宝石姫は風に揺れる前髪を抑えながら、通信機に向かって話しかけた。
「バルナザール様。仮にヴァルプスくんが進化するために私の身体が必要なら。私の意志による寄付としてなら。それは問題はありませんよね?
そして、それをレオンさんを救う道具として使ってくださるということですよね」
宝石姫の声には、迷いがなかった。だがヴァルプスは、彼女の白い指先がほんの少し、震えているのを見逃さなかった。迷いがないのではない。迷いを、決意で押し潰しただけだ。
『ふふ……そういうことも、可能ではあるね。君の素材はヴァルプスの魔力の燃料となり、いずれはレオンくんを助ける礎になるやもしれない』
「そうですか。……ヴァルプスくん」
宝石姫はヴァルプスの手を取った。
「あなた一人に汚れ役はさせないわ。私が燃料を出すから、あなたは火を灯してほしい」
「……」
彼女の指がヴァルプスの肩に食い込む。痛みだった。だがその痛みは、いつもの査定基準では測れないものだった。
「ただし、忘れないで。あの方の前では、絶対に『可哀想な私』を演じさせないでほしいの。私はあの方の『北極星』。あなたはあの方の『泥』。役割を違えないこと。それが、私たちが三人で前へ進むための条件よ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルプスの中で何かが決壊した。いつもなら真っ先に立ち上がる冷静な計算式――損得、リスク、交渉のカード――そのすべてが、燃え落ちた。
「……言われなくても、わかってるよ」
ヴァルプスは宝石姫の手を、あえて乱暴に振り払った。そこにはもう、可愛い小悪魔の仮面はない。
「ボクは、レオンを独り占めしたかった。君にバレないように、君を何も知らないお姫様のまま隅っこに追いやって、ボクだけが彼の汚い部分を全部覗いてみたかったんだ。……でも、君がボクと同じ場所まで降りてくるっていうなら……いいよ、来てよ」
ヴァルプスは一歩踏み出し、今度は自分の手で、宝石姫の細い肩を強く掴み返した。
「約束してよ、宝石姫。……レオンの前では、絶対に光でいて。レオンが崇めている宝石姫が、自分のために嘘をついてるなんて知ったら、主さまは今度こそ絶望して死んじゃうよ」
ヴァルプスの口角が歪んだ。それはバルナザールの笑みと、少し似ていた。
「レオンはぜったいに壊さない」
宝石姫は一瞬、目を丸くしたが、やがて満足そうに、より深く微笑んだ。
「ええ……いいわ、約束しましょうね」
通信機の向こうから、二人の歪な誓いを見届けた大悪魔の、低く満足げな笑い声が響いた。
『まあ、また三人で打ち合わせの場を設けよう。それまでに二人で話し合いたまえ』
魔導通信が切れた後、野営地には薪の爆ぜる音だけが戻ってくる。ヴァルプスはまだ、肩に残る痛みを抱えて震えていた。悪魔としての仕事は完璧にこなしてみせる。けれど、この宝石姫という共犯者を前にして、自分は二度とただの純粋な使い魔ではいられない。
「ヴァルプスくん、戻りましょう。レオンさんが目を覚ましてしまうわ」
宝石姫は、何事もなかったかのように、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて歩き出す。空には北極星がちかりと瞬いていた。
※2026/05/21 大幅修正をしました。
※2026/09/26 大幅修正をしました。




