『聖域の収穫、あるいは無垢な署名』③
第3部:聖女の覚醒、あるいは共犯者の夜
「……ヴァルプスくん。それは、誰とお話しているの?」
静寂を裂いたのは、月光のように涼やかな声だった。
ヴァルプスは心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね、通信機を抱え込むようにして振り向いた。
そこには、全てを見透かしたような瞳をした宝石姫が、幽霊のように立っていた。
希少種の生命エネルギー、という言葉に反応し、彼女の耳元に僅かに紫電が走る。
「……あ……宝石姫ちゃん……ボク、これは……」
「レオンさんに関係することだよね?ヴァルプスくん」
宝石姫の言葉は短く、けれど拒絶を許さない重みがあった。
彼女がここにいるのは、好奇心からではない。
いつからか感じた違和感。瓦解しそうな二人の男を、自らの手で繋ぎ止めるための「義務感」が、彼女を動かしていた。
通信機から低く、愉悦を孕んだ笑い声が響いた。
「……ふむ。希少種の娘、か。なるほど……愛らしい」
バルナザールの声は、物理的な質量を持って夜の空気を震わせた。
宝石姫はその見えざる「王」の気配に息を呑む。
南の交易都市で出会ったことのある大悪魔だと察した彼女は、小さく挨拶を述べた。
「閣下、やめて! 彼女は関係ないんだ!」
ヴァルプスの叫びは、夜の森に虚しく消えた。彼は通信機を抱きしめ、宝石姫から視線を逸らす。その胸を焼いているのは、規律違反への恐怖ではない。
クライアントであるレオンに契約以上に執着してしまったこと。そして、目の前の「聖域」であるはずの彼女に対し、敬意よりも先に「この人を出し抜いてでも、主さまの隣を譲りたくない」という醜い独占欲を抱いていること。その「悪魔の私情」を暴かれるのが、何よりも恐ろしかった。
しかし、バルナザールの声は残酷にその核心を突く。
『……娘よ。ヴァルプスが恐れているのは、自分の『私情』だ。
彼は悪魔でありながら契約者を愛し、君をそのライバルとして憎むことさえ厭わない。
……ヴァルプス。お前は譲る気がないのだろう? あの騎士の腕の中を』
ヴァルプスは震え、膝をついた。
宝石姫はその姿を、ただ静かに見つめている。
「……ヴァルプスくん。あなたは、レオンさんを」
その声に、責める色はなかった。
宝石姫は一歩近づき、少年の細い肩に手を置く。
「なんとなくわかっていました。時々、私と同じ目をしていたから。
……でも、私も手放すつもりはないわ」
ヴァルプスを掴む白い手に、僅かに力がこもる。冷ややかな紫の瞳と、揺らぐ赤の瞳が交差した。
「ヴァルプスくん、私はあなたを責めない。
だって、私もあの人を、この旅を、終わらせたくないもの。
……それで、バルナザール様。希少種の生命エネルギーとは何のことですか?」
宝石姫が通信機から漏れる青白い光を見据えると、バルナザールは愉悦に満ちた合いの手を入れた。
『ふふ……まだその手を差し出せるのかい?
彼らが君に隠れて、その身体の欠片を密かに収集していたことは、知っているかな?』
その瞬間、ヴァルプスが必死に守り抜こうとした「宝石姫の無垢」という最後の防壁が、暴力的に引き剥がされた。
「違う……! 集めていたのは、宝飾の民の痕跡を土地に残したくなかったからだ!」
ヴァルプスは両手を握りしめる。
「言い訳かもしれないけど、レオンは本当に宝石姫のことが大事すぎて……過敏に集めすぎちゃっただけだよ!」
通信機を握りしめ、主の「献身的な自制」を叫びながら涙を浮かべるヴァルプス。
宝石姫は数秒の沈黙の後、震えるヴァルプスの頭をそっと抱き寄せた。
(ああ……やはり私は、あの方に愛されていた。
どんな形であれ、求められていた!)
秘められていた狂気への驚愕は、一瞬にして、脳を灼くような甘美な全能感へと塗りつぶされる。
宝石姫の中で、自尊心が恐ろしいほどに膨れ上がっていく。
自分という「モノ」に心をくれた救世主。彼が自らの底無しの渇望に震え、同時にそれを「愛」という名の自制で封じ込めようと苦悶している。その浅ましさと高潔さの混濁さえ、今の彼女には愛おしかった。たとえそれが、高潔な騎士道とは対極にある、決して人に言えぬ歪んだ執着であったとしても。
「バルナザール様。教えてくれてありがとうございます。
……ヴァルプスくん、もういいわ。大丈夫よ」
宝石姫は通信機を見据え、毅然と言い放つ。
「あの方は正気を失っているのではなく、私の最も忠実な『信徒』なの。
たとえそれが理性を欠いた『執念』だとしても、私を思うがゆえにそれを封じ、病んでいるのなら……それは信仰と何ら変わりないわ」
私は美の女神を飾るために生まれた民の末裔。
ならば、あの方が私を求め、同時に損なうまいと絶望するのは、私を『神の美』として扱っている証拠だわ」
彼女は、モノとして狩られるだけの存在から、自らの価値を主体的に使う「共犯者の神」へと変貌した。
「バルナザール様。ヴァルプスくんが進化するために私の身体が必要なら、それは『あの方を救う道具』として私を使ってくださるということですよね?
略奪ではなく、私の意志による寄付として」
『くくく……そうだ。
お前の髪はヴァルプスの魔力の燃料となり、あの愚かな騎士を一生飼い慣らすための『管理術』を維持する力となる』
宝石姫は美しく微笑んだ。
「ヴァルプスくん、顔を上げて。
あなた一人に汚れ役はさせないわ。
あの方が一生、私に嘘をつき通せるように……私たちが、あの方を守る最強の『嘘』になりましょう。
私が燃料を出すから、あなたは火を灯して」
ヴァルプスの耳元で、甘く、けれど釘を刺すように付け加えた。
「ただし、忘れないで。
あの方の前では、絶対に『可哀想な私』を演じさせないで。
私はあの方の『北極星』。あなたはあの方の『泥』
……役割を違えないこと。それが、私たちが三人で地獄へ行くための、たった一つの条件よ」
ヴァルプスは肩に食い込む宝石姫の指の痛みを、熱い塊のように飲み込んだ。
恐れに喋れなくなっていた赤の瞳に、不意に暗い、けれど鋭い光が宿る。彼は宝石姫の白い手を、あえて乱暴に振り払った。
「……言われなくても、わかってるよ」
ヴァルプスは立ち上がり、自分より背の高い宝石姫を、地獄の底から見上げるような視線で見据えた。そこにはもう「可愛い使い魔」の仮面はない。
「ボクは、主さまを独り占めしたかった。
君にバレないように、君を『何も知らないお姫様』のまま隅っこに追いやって、ボクだけがあの方の汚い部分を全部食べてあげたかったんだ。
……でも、君がそのツラ(聖域)をかなぐり捨てて、ボクと同じ汚泥に足をつっこむって言うなら……いいよ、認めてあげる」
ヴァルプスは一歩踏み出し、今度は自分の手が宝石姫の細い肩を、壊さんばかりに強く掴み返した。
「約束してよ、宝石姫。
……あの方の前では、絶対に『完璧な光』でいて。
あの方が、自分の醜さに耐えきれなくなってボクの胸で泣く時、あの方の背中を、君のその綺麗な光で焼き続けて。
……そうすれば、あの方はボクの腕の中から二度と逃げ出せなくなる」
ヴァルプスの口角が、バルナザールそっくりの形に歪む。
「『聖女』が自分たちのために嘘をついてるなんて知ったら、主さまは今度こそ死んじゃう。
……だから、最後までボクたちを騙しきってよ。
あの方を愛する『共犯』の責任、君も半分背負うんだからね」
宝石姫は一瞬、目を丸くしたが、やがて満足そうに、より深く微笑んだ。
「ええ……いいわ、ヴァルプスくん。望むところよ」
通信機の向こうから、二人の歪な誓いを見届けた大悪魔の、低く満足げな笑い声が響いた。
『まあ、また打ち合わせの場を設けよう。二人でしっかり話し合いたまえ』
「はい……ありがとうございます」
バルナザールの短い応答と共に魔導通信が切れた後、野営地には再び、薪の爆ぜる音だけが戻ってくる。
ヴァルプスはまだ、宝石姫の指が食い込んだ肩を抱えて震えていた。それは恐怖ではなく、主のすべてを縛る『呪い』の火を、今まさに灯してしまったという狂おしいほどの昂りのせいだった。
隣り合うライバル、共有される「素材」、そして自分たちの主。
悪魔としての仕事は完璧にこなしてみせる。けれど、この宝石姫という「共犯者」を前にして、自分は二度と「ただの純粋な使い魔」ではいられない。
「……ヴァルプスくん、戻りましょう。あの方が目を覚ましてしまうわ」
宝石姫は、何事もなかったかのように、いつもの穏やかで美しい「宝石姫」の微笑みを浮かべて歩き出す。 その足取りは、もはや略奪を恐れる者のそれではない。
自らの身体を切り売りしてでも、愛する男を永遠に自分たちの領域に繋ぎ止めようとする、管理者の足取りだった。
※2026/05/21 大幅修正をしました。




