第155話:『熱源の隷属ー 02/03 18:10 執行開始』
第4部:熱源の隷属
廊下に響く硬い足音。それがレオンの演算を「CEOモード」へと強制復旧させた。
0.1秒。肺を満たしたのは無機質な空調の風だ。思考のバグを深呼吸で押し殺し、彼は歪んだ貌を「最高責任者の仮面」へと貼り替える。
「お疲れ様」
通り過ぎざま、期待に満ちた目で見上げてくる社員に、レオンは完璧な角度の会釈と微笑みを返す。
指先に貼ったスキン・シーラーを、まるで重大な機密漏洩を防ぐように後ろ手へ隠しながら、レオンは一番近くの自動販売機コーナーへ逃げ込んだ。
背後を通り過ぎる社員たちの気配に怯えながら、わざとらしく珈琲の銘柄に迷っている男を演じる。
だが、その鋭い視線は、自分の指先に釘付けだった。
(傷を、つけてしまった)
指から這い上がる疼きが、いちどは整理した思考ログをじりじりと焼き焦がしていく。
――音が鳴る。
レオンは、わずかに視線を落とした。
いつの間にか、決済を終えている。
自分が、いつボタンを押したのか。
思い出せない。
吐き出し口に落ちた缶を、しばらく見つめる。
拾い上げるまでに、わずかな間があった。
腕時計を確認する。時刻はすでに十八時を過ぎており、レオンはヴァルプスに一報を入れるかを躊躇う。
ちらりと視線を上げれば、角にある監視カメラと目があう。おそらく、監視しているであろう者たちの顔を思い浮かべ、レオンは唇を引き結び、背筋を正した。
レオンは静かに監視カメラに完璧に整えた微笑みを向けると、踵を返して十二階に向かった。
その手には、熱を溜めた缶があった。
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レオンがラウンジに入ると、そこには無感情に主を待つヴァルプスの姿があった。
バルトロメとの「訓練」を終えたレオンの、わずかに乱れた襟元と結び目の緩んだタイ。そして逆に、隙がなく丁寧に指に巻かれた白色の帯。
ヴァルプスの視線がそこに固定された瞬間、室内の気圧がわずかに変わる。
レオンは一歩だけ進み、そこで足を止めた。
視線は合わない。
「……終わった」
それだけ言って、手にしていた缶を円卓の上に置いた。
というより、力を抜いて離した。小さく、乾いた音がした。
ジャケットを脱ぐ動作だけは、いつもの手順をなぞる。
だが、袖を抜く指先がわずかに遅れる。
ヴァルプスは何も言わず、静かに立ちあがった。
「お疲れ様でした、レオン」
長身が落とす影が、ゆっくりと距離を詰める。
その動きは穏やかで、しかし逃げ場を残さない。
レオンの前で足を止めたとき、ヴァルプスの視線はすでに顔ではなく、その指先にあった。
空気が、わずかに沈む。
ヴァルプスが距離を詰めた瞬間、彼の鼻腔を突いたのは、不自然に漂う甘い「ミモザ」の匂いだった。
バルトロメが踏みにじったはずの花の香りが、呪いのようにレオンの髪や肌に張り付いている。
ヴァルプスの赤い瞳が、その残り香を即座に検知し、微かに細められた。
ヴァルプスは、レオンが脱ぎ捨てかけたジャケットを引き継ぐように受け取った。その際、指先がレオンの指の「白い帯」に、羽が触れるような頼りなさでかすめた。
レオンの肩が、微かに跳ねる。
「……バルトロメが、巻いてくれた」
「そうですか」
ヴァルプスはソファに向かって優雅に片手を流し、レオンを誘導する。
きゅ、と唇を引き結びソファに腰を降ろしたレオンを確認したあと、薬品箱と水の張った小さな銀盆を用意する。
清潔な布を浸し、一度固く絞る。その水面には、彼自身の冷徹なまでの冷静さが映っていた。
「処置をさせていただきます。手を出して」
ヴァルプスの指先が、白い帯の端に触れる。
レオンが「訓練の結果だ」と言い訳をする暇さえ与えず、彼はその帯を、迷いなく、けれど驚くほど繊細な手つきで解き始めた。他人の施した手当てを、剥がし取るように。
露わになったレオンの指の傷。自分の歯でつけた、自傷の痕跡。
ヴァルプスはその傷を凝視したあと、濡れた布で傷口をゆっくりと拭い始めた。
銀のへらですくい取った透明な軟膏を、直接その傷口に置いた。自分の歯で抉った生々しい痕跡が、冷ややかな薬膜の下に閉じ込められていく。ヴァルプスの指が、軟膏を伸ばしながら、レオンの指の関節をなぞった。
レオンは黙ってヴァルプスの動作を見ていた。
ヴァルプスの細い指先が、レオンの指の幅に合わせて裁断されたガーゼを手に取る。微かな衣擦れの音にあわせて自身の指が白く塗り潰されていくたび、現実味が薄れていくような気がして、レオンは目を瞬かせた。
レオンは、処置を続けるヴァルプスの顔を見上げる。至近距離で揺れる白銀の髪。その隙間に覗く黒い角は、何者にも損なわれることのない不変の硬度を宿して、静かに光を弾いていた。目立たない自分の角とは違う、圧倒的な存在感。レオンはその艶やかな質感に触れ、所有したいという衝動に駆られ、己の浅ましさを隠すように目をそらした。
訓練のあとの影響で、注意力が欠けている。そう感じたレオンは左手を強く握りしめる。
なにかに耐えるように身体を強張らせたレオンに対し、ヴァルプスはその様子に触れず、ただレオンの瞳に映る自身の赤い影を覗き込んだ。
「もう、ご自分を噛む必要はありません。
……噛みたくなったら、ボクにすればいい」
ヴァルプスの声音は静かで柔らかく、熱を持った泥のようにレオンの脳にゆっくりと絡みつく。
レオンは一度目を閉じたあと、長く息を吐く。真面目な顔つきを作ると、口を開いた。
「……しない」
ヴァルプスはすぐに言葉を返さなかった。ただ、射抜くような赤い視線で、レオンの微かな動揺――跳ねる鼓動や、わずかに泳いだ視線の先を、残酷なほど丁寧に拾い上げていく。
「どうして」
ヴァルプスの声が、氷のように低くなる。わずかな落差で体温を奪うようなその響きに、レオンの背筋が凍りついた。
ヴァルプスはレオンの右手を、壊れ物を扱うような手つきで、しかし拒絶を許さない強さで包み込んだ。逃げ場を塞ぐように空気の圧が変わり、物理的に微かな冷気を感じて、レオンの長耳の先が自覚なく小さく揺れた。
「君が治せる範囲なら……いや。
ヴァルプスが、こうして、治してくれるから?」
疑問形の言葉が静かに響く。ヴァルプスはそれを聞いた瞬間、言いようのない充実感と、それに勝る昏い渇望に苛まれた。
ヴァルプスは、ガーゼに包まれたレオンの指を、磁石に吸い寄せられるように自身の唇へと引き寄せた。
治療ではない。それは、外部から持ち込まれた不浄な「残り香」を、自らの熱で上書きし、レオンというシステムを再び自分だけの管理下へ隷属させるための、執拗な再起動だった。
「……必要なら、あとで報告書にするが」
理性の破片をかき集め、逃げ場を失ったレオンが、絞り出すように言う。
「いいえ。その言葉だけでは、いまは……足りません」
ヴァルプスは傷口に唇を寄せたまま、獲物を捕らえた獣のように三日月型に目を細めた。
レオンの視界の端で、黒く艷やかな角が、冷ややかに光った。
甘いミモザの香りが、ヴァルプスの放つ冷気に圧し潰され、消えた。
ただ、主の熱を奪った缶だけが、円卓の上で静かに冷え切っていた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




