第154話:『定義の解体 ー 02/03 15:30 執行開始』
第3部:定義の解体
レオンの視界が、白濁する。
高級な黒檀のテーブルも、窓外の高層建築の並ぶ景色も、インクの匂いさえもが遠ざかっていく。
代わりにレオンの網膜を埋め尽くしたのは、かつて過ごした――あるいは今もなお、精神の奥底で囚われ続けている――あの「部屋」の、無機質な白。
目の前に座る「叔父」が、レオンの首元に手を伸ばし、チェスの駒を動かすような淀みない動作でタイを解く。
シャツの襟元を開けられ、首にかかる鎖を指先で引っ張られる感触を皮膚で感じて、そこではじめてレオンは目を強く閉じた。
レオンの震える手がバルトロメの腕を掴み、動きを静止させる。
「今、お前は何を見た?」
声音を戻したバルトロメは、強張った表情で目を閉じるレオンを見下ろした。
「……叔父上」
「何を感じた」
「……」
「……計算を止めるな」
バルトロメの低く冷たい声が、白濁した世界に楔を打ち込む。
レオンは、自分の首筋に触れているバルトロメの指先――今は「叔父」のそれとして機能している指――を、折れそうなほど強く掴み返した。
「……憎悪。郷愁。憧憬。檻。……それから……安堵」
それは感情の吐露というより、バグを起こしたプログラムが必死にエラーログを書き出している姿に近い。
「私の、命の回収先」
レオンは喉の奥で、ひりつくような熱を飲み込んだ。それはアメリアとヴァルプスを守るために、レオン自身がオスカルに提案した契約そのものであった。
「……違うな。そんなものは、誰にでも書けるありふれた『台本』だ。
君がやりたいのは、そんな感傷的なお遊びか?」
バルトロメは掴まれた腕をあえて振り払わず、冷酷な観察者の瞳でレオンを射抜く。
「……再計算だと言ったはずだ、バルトロメ。私は……」
レオンは荒くなりかけた呼吸を整え、無理やり目を開けた。
視界が滲む。目の前にいるのはバルトロメか、それとも。
バルトロメはレオンの頬を軽く叩くと、その横に青白いホログラムを展開させた。そこにはオスカルという存在の、検索エンジンが数秒で拾い集めてくるような「公開プロファイル」の残骸が浮遊している。
バルトロメは、ホログラムに浮かぶオスカルの経歴を、汚物でも見るかのように指先で弾いた。
「いま、ここで。読みなおせ。お前自身の目で」
バルトロメはレオンの顎を掴み、強引にホログラムの方へ向けさせる。レオンは冷たくなった指先をホログラムに滑らせ、文字を見つめた。
数分間。バルトロメに顎を固定されたまま、レオンは生真面目に情報を読み込んでいく。バルトロメの指先が顎を掴むその食い込みが、レオンをひどく現実に繋ぎ止めていた。
生年月日、学歴、経歴、叙勲の記録、そして「完璧な統治者」として編纂されたインタビュー記事の断片。
世界の定義機関を率いるCEOとしての実績、影響力、構造。
冷静に見れば、「個人」というより世界を編み直す装置に近い存在。
バルトロメは資料を別画面に展開し、レオンの前にスライドさせる。
「オスカル・ド・ラ・ノワールの直近の意思決定履歴だ」
レオンはすぐには開かなかった。
一拍置いてから、ページをめくる。
数字、判断、承認、却下。そこには整然とした軌跡が並んでいる。
「問題はない」
レオンは淡々と言った。
バルトロメはそれに頷かない。ただ、別のファイルを開く。
今度は同じ期間の別整理だった。
「こちらは別の観測ログだ」
そこには、さっきと同じ事象が並んでいる。
だが、記述の重心が違っていた。
意思決定は、揺れている。
方針は、途中で何度も変更されている。
外部の意見が頻繁に取り込まれている。
それでも、結果だけは変わらず成功していた。
レオンの手が、わずかに止まる。
「……」
言葉は出なかった。
バルトロメが視線を上げる。
「どちらも同じ期間の記録だ」
レオンはすぐに否定しなかった。
ただ、もう一度目を落とす。
同じ出来事のはずなのに、見え方が一致していない。
「……さっきと、違うな」
小さく、それだけが漏れる。
そのあと、すぐに顔を上げた。
「どちらが正しい」
問いではなく、確認に近い声だった。
バルトロメは答えない。
代わりに、短く言う。
「両方とも、事実だ」
沈黙が落ちる。
レオンは資料を閉じないまま、しばらく動かなかった。
だが次第に、指先だけが紙の端を整えるように動く。
次に見た資料は、同じ事実を違う角度で並べている。
揺れる判断。
何度も変わる方針。
他者の意見の取り込み。
それでも結果は一貫して成功している。
レオンの視線が止まる。
ほんの一瞬だけ、空白ができる。
(──まただ)
言葉にならない何かが、喉の奥に引っかかる。
それは理解ではない。
整理でもない、もっと前のものだ。
「……叔父上が、自分を、否定している」
レオンは承認ログの端をなぞる。
一分。わずか一分で、一度下した定義を、自ら書き換えている。完璧なはずの、神の指先が、震えている。
「……何が、起きている」
「どちらも同じ記録だ」
バルトロメの静かな声に、レオンはすぐに反論しなかった。
代わりに、低く言う。
「……どちらも、同じ人物だろう」
それは確認というより、少しだけ尖った言い方だった。
「そう定義しているのは君だ」
バルトロメの言葉が耳に届いた瞬間、レオンはホログラムを通り越したその宙を見つめた。
ホログラムが映し出す「揺れる判断」のログが、レオンの瞳の中でチカチカとノイズのように明滅する。
バルトロメは周囲の幻影魔法を解く。
見慣れた会議室に戻ったなかで、机に無造作に一枚の紙媒体を置いた。
黒髪、青い瞳。褐色の肌。レオンとよく似た顔立ち。
そこに写っているのは、紛れもなくオスカルだった。
レオンは無言で視線を落とす。その瞬間、網膜が情報を捉えるより速く、内側のOSが警報を鳴らした。
ほんの一瞬だけ、瞳が揺れる。レンズのピントが合わなくなるような、物理的な揺らぎだ。
「これは誰だ?」
「……叔父上だ」
即答。だが、声の輪郭がわずかに硬い。「叔父上」という単語に、過剰な重圧が乗っていた。
「そうか」
バルトロメは瞳を細め、レオンの喉元の拍動を見つめる。
「では、なぜ反応した?」
レオンは沈黙する。視線は写真のまま動かない。情報の処理を拒否するように、意識のシャッターが下りかかった。
無意識に指先へ歯が触れる。自覚なき自傷。指の痛みが、かろうじて彼をこの部屋に繋ぎ止める。
「……反応はしていない。……情報の、整理だ」
「空気が一度、落ちた。……重力の設定を書き換えたのは、お前自身だぞ、レオン」
バルトロメの声は、ただ「観測事実」を告げる声だった。
「……生理的な反射だ。……演算上の、些細なノイズに過ぎない」
「ならば問う」
バルトロメが少しだけ前に出る。
嗅ぎ覚えのあるミモザの甘い香りと、それから重厚なウールの匂いが、オスカルの記憶を遮断するようにレオンの鼻腔を突く。
「今、お前は何を見た?」
レオンは再び沈黙した。
レオンの呼吸がわずかに浅くなる。胸の奥で、過去の記憶と情報が火花を散らしている。
「……叔父上だ。……それ以外の、何だと言うんだ」
レオンは繰り返す。だが声がわずかに遅い。レオンは汗が滲む額に指を当てた。
「それは定義だ。……あらかじめ用意された、便利なラベルだ」
バルトロメが写真の端を指先で叩く。
「もう一度聞く。意味を剥がせ。何を見た?」
レオンは写真を見直した。喉がわずかに動き、飲み込もうとした言葉が逆流してくる。
「……違う、違う。……これは……」
レオンは音に出す言葉を探した。オスカルの用意した辞書にはない言葉を、自分の内側の瓦礫から掘り起こそうと思考を巡らせる。
「……記録された顔だ。……四角く切り取られた、ただの光の集積……
……だが……混ざっている。……この光の束が、私の奥にある何かを強制起動させる」
「何が?」
「……記憶。状況、音、温度……。あの男が私を、……価値あるものとして、評価した時の……」
「では、それは写真か?」
「……違う。……これは、写真ではない」
「では何だ?」
「……再生だ。……私の中で、永遠に終わらない、認識の再構築……」
レオンの呼吸が乱れ始めた。
レオンは自覚した。自分がまだ「承認」を欲している子供であることを。
自分が、自分の脳にハッキングされている事実に戦慄する。
世界から音が消えるような感覚に視線が揺れる。
無意識に、レオンは右手のひとさし指の付け根に歯を当てた。
鋭い痛みと、鈍い圧が、思考の暴走を止める。
思考の暴走が、一瞬だけ停止する。
「……っ」
その短い呼気で、レオンはここにいることを再確認した。
「いい。……そこまでだ」
バルトロメが短く、鋭く、レオンの思考を断ち切る。
しばらくの沈黙のあと、レオンはバルトロメの顔を見つめた。ほんの少し、笑みを浮かべるように唇を歪ませる。それは取り繕いのできない自嘲だった。
「……難しいな。……計算式が、組み立たない」
バルトロメはレオンの顔を覗き込み、唇についた微かな血と、レオンの傷ついた手を見つめる。自身の懐に手を差し入れ、何も持ち合わせていないことに気がつくと、舌打ちをしてレオンの指を指し示した。
レオンは緩慢な動作で、ジャケットの裏ポケットからを銀色の薄いケースを取り出した。中から白く薄いスキン・シーラーを取り出すと、バルトロメがそれをレオンの指に巻いていった。
「逆をやれ。……意味を食らうのをやめて、お前が世界を判定する側に回れ」
バルトロメの骨ばった指先に治療されながら、レオンは再び写真を見る。今度は、少しだけ距離がある気がした。
絶対的な支配者ではなく、解体すべき構造体を見る視線が僅かに滲む。
「……歪んでいるのは……いや。
……どちらだ」
「それ以上、定義するな。……結論を急ぐな」
バルトロメの指が、今度はレオンの唇の端の血を拭う。
鉄混じりの甘い香りが二人の間を掠め、バルトロメは一瞬強く眉を寄せ、指先を見下ろした。
レオンは、ゆっくりと目を閉じて椅子の背に体重を預ける。疲弊しながらも思考を揺らめかせるレオンの様子をバルトロメは見下ろした。
「……」
──無意識に、バルトロメは自分の指先に舌をのせる。
静かな震えが、バルトロメの身体を侵食する。
カメレオン・グレーの瞳に微かな欲望が生まれ、隠れるように一瞬閉じられた。
「訓練、ありがとう」
レオンがバルトロメを見上げ、力なく礼を言う。
四肢を投げ出し解体を誘う禁断の果実を、バルトロメはしばらくの間、無表情で見下ろしていた。
「……ヴァルプスくんには、せいぜい甘いミモザの匂いでもさせて帰ることだ」
やがて、彼は気だるげな「演出家」の貌を貼り付け直すと、剥落したミモザの残骸を無造作に踏みつけて、その場を離れた。




