第153話:『演出家の介入ー 02/03 15:10 執行開始』
第2部:演出家の介入
不意に、静寂が「色」を変えた。
――ジャリ、と。
防音が完璧なはずの会議室に、場違いな「鉄鎖が擦れる音」が響く。聞き間違いかとレオンは長耳の先を揺らした。
「……演出と違うな。今の君は『氷雨に打たれる悲劇のヒロイン』か?
私は『揺れないCEO』を仕上げに来たんだが」
声は、レオンのすぐ耳元からした。
反射的に顔を上げたレオンの視界で、テーブルの上のミモザの花びらが、ハラハラと「黒い文字」に変わって剥落していく。
鮮やかな黄色を黒く塗りつぶしながら、花瓶の影から這い出してきた「粘り気のある影」が、レオンの向かい側の椅子の上で急速に人の形を編み上げた。
影が色彩を得て、一人の男が完成する。
足を組み、傲慢なほど深く椅子に背を預けたバルトロメが、退屈そうに瞼を落としてレオンを見つめていた。
バルトロメは首元から下げていた入館証をレオンに提示したあと、気だるげに胸ポケットに差し込む。
「……その手、胸元のアミュレットに逃げたな?
叔父君の前でもそうやって、自分をプレゼンするつもりか?」
バルトロメは身を乗り出し、テーブルに散った「黒い文字の花びら」を骨ばった指先で弄ぶ。
「少なからず今の君は、出力制御としての技術は学べているだろう。
……君は、怯えているのではない。固定されているだけだ」
黒ずんだ両手の指先をレオンに見せつけ繊毛のように揺らめかせながら、バルトロメは問いかけた。
レオンは胸元からハンカチを取り出すと、バルトロメに無言で差し出す。バルトロメがハンカチを受け取り指先を拭き取るのを見守ってから、レオンは深く、長く、止めていた呼吸を、肺の底からすべて吐き出すような溜息をついた。
「……一つ、確認したいことがある。
私は、あのひとを前にすると、思考が遅くなる。
誤解しないでほしい。恐怖ではない。
むしろ逆だ。判断が固定される」
レオンは両手を太ももの上で組み、バルトロメを見つめる。
「何度も修正は試した。だが、条件が更新されない。
……君なら、わかるだろうか」
「条件が更新されない、か。違うな」
バルトロメは黒く斑になったハンカチを机に投げ出すと、鼻で笑った。
「私は、君のカウンセリング担当ではない」
カメレオン・グレーの瞳がレオンを冷たく射抜く。
「だが、その挙動は観測対象としては興味深い」
バルトロメがふわりと椅子から立ち上がる。足音はない。だが、彼の移動に合わせて、会議室の照明が不自然なほど急激に光度を下げていく。
「……君は、私に『修正』を求めているのか?
それとも、その固定された自分を愛してくれる『観客』を求めているのかね」
バルトロメはレオンの背後に回ると、細長い指を彼の角の根元に、触れるか触れないかの距離で這わせた。
「ヴァルプス君は後者だろうね。彼は君がどれだけ壊れていても、その破片を丁寧に拾い集めて、元の歪な形に並べてくれる。
だが、私は違う」
バルトロメの声が、レオンの思考の「奥」に直接響く。彼が動くたび、春の陽だまりを思わせる、柔らかく甘いミモザの香りがレオンの鼻腔をくすぐった。
薄暗い照明のなかでそれは場違いなほどに甘く漂い、レオンは気持ちを正すように背を伸ばして目を細める。
レオンは静かに口を開いた。
「再計算が、したい」
顎に張り付いた指先を受け止めながら、レオンは上を向く。頭上から覗き込むバルトロメは僅かに瞼を上げ、それから口の端を上げた。
「……では、どこまで壊れたいか、選ばせてやろう」
バルトロメはレオンの顎を指先で弄ぶのをやめ、その場に跪くようにして視線の高さを合わせた。ミモザの香りが、さらに濃く、むせ返るほどに膨れ上がる。
レオンはしばらく目を伏せて逡巡したのち、バルトロメを見つめる。
「最大値って、どれくらい?」
「ヴァルプスくんが見れば、発狂して私を殺しに来るような地獄を見せられる」
「……それは、困る。
……今日は、きっかけだけ、でいい」
「……そうか」
バルトロメが懐から引き抜いたのは、銀色の長針――あるいは極細の指揮棒だった。表面には刻印とも回路ともつかない微細な溝が走り、会議室のわずかな光を吸い込んで、神経質なまでに鋭い光沢を放っている。それは救いの道具というよりは、神経の束を一本ずつ解剖するための、冷酷なメスのようにも見えた。
「贅沢を知らない子供ほど、扱いづらいものはない。
いいだろう、今日は『入り口』の鍵を開けるだけで済ませてやる」
バルトロメは、まるで注文を妥協された美食家のように肩をすくめた。だがそのカメレオン・グレーの瞳の奥には、毒蛇のような冷ややかな熱が灯っている。
バルトロメは針の先でレオンの胸元を、正確にはアミュレットが隠れている位置をトン、と叩いた。
アミュレットを叩いた銀の針が、レオンの心臓の鼓動を物理的に止めたかのような錯覚。
甘い香りは湿った土の匂いに塗りつぶされ、会議室という安全な檻は、一瞬にしてレオンの記憶の深淵へと接続された。
会議室の照明が点滅し、壁に飾られた絵画が、レオンを閉じ込めていた白茨の棘に歪んでいく。
「……レオン。私は、否定しない」
バルトロメの唇から零れたのは、ノイズ一つない完璧な複製。レオンの精神構造に直接マッピングされた、拒絶不能な管理者権限の声だった。
幻覚だとわかっている。バルトロメの演出だと理解している。
それなのに、レオンの指先は逃げ場を失って震え始めた。
「否定はしない……ただし、最適解は私だ」
レオンに囁きながら、バルトロメは静かにレオンを見つめ直した。その瞳は、怯える獲物を慈しむ聖者のようでもあり、不具合を修正する冷徹なエンジニアのようでもあった。




