第152話:『氷雨の停滞ー 02/03 15:00 執行開始』
第1部:氷雨の停滞
二月三日 十五時
首都ルテティアの空は、様々な色を浸し、使い古した刷毛を濯いだあとのような、濁った灰色に沈んでいた。
窓外の景色を切り裂くように立つ高層建築のシルエットが、冷たい雨に霞んでいる。
巨大な魔導プロジェクターが放っていた青白い光のグラフが、静かに収束し、闇に消えた。
会議室に残っているのは、冷え切った紅茶の渋い香りと、数時間におよぶ「数字との格闘」が残した、重苦しい静寂の残滓だけだ。
この無機質な会議室の空気は、レオンの鋭すぎる嗅覚には少しばかり乾燥しすぎていた。
「……以上で、決算発表のリハーサルを終了します。お疲れ様でした」
財務担当たちが、逃げ出すように足早に退室していく。その中で、レオンだけが上座の革椅子から動かずにいた。険しい表情で手元の資料を見つめる彼の指先は、わずかに白んでいる。
側に控えていたヴァルプスは、主の意識を「数字の海」から引き戻すように、わざと靴音を響かせて歩み寄った。
「レオン、店舗との合意が取れました」
差し出された報告書には、魔導インク特有の、鼻を突くような鋭い香りが残っている。
「賠償問題は『設備貸与』の名目で会計上の処理を完了。
明日より、首都ルテティアの北・南・中央の主要三拠点にて、同時に試験供給を開始します。広報担当はグリッチ・ピクセルです」
ヴァルプスは淡々と、だが澱みなく、主の「帝国」の神経系を繋ぎ直していく。
「二月十二日の決算会場で提示する『実証データ』は、ボクが責任を持って収集・精査いたします」
レオンは組んだ指に顎を乗せた。天井から差し込む鈍い照明が、彼の鋭い眼光と、側頭部から伸びる二対の黒い角を冷たく縁取っている。
「処理は済んだか。だが、問題は残る、と」
ヴァルプスの含みのある補足に、部屋の空気がわずかに温度を下げた。処理はできても、感情や因縁までは数字で消せないことを、二人は知っている。
「……問題は、残るか」
レオンは短く吐き捨てると、重厚な万年筆を書類に走らせた。カリカリという硬い音が、まるで誰かの骨を削るかのように沈黙を支配する。サインを終えた彼は、ふと顔を上げ、傍らで端末を操作するヴァルプスを見やった。
「ヴァルプス。私はこのまま、ここでバルトロメと打ち合わせを行う。
……終了予定時刻は十八時だ」
ヴァルプスの赤い瞳が、無機質なバイタルデータの波形からレオンへと移る。そこには監理官としての冷徹な観察眼と、主が自分を「頼り切らない」ことへの微かな不満が滲んでいた。
「……承知いたしました。スケジュールに反映済みです。
バルトロメ氏の入館ログを確認しています。間もなく到着するでしょう」
事務的な返答。だが、低く響いたその残響には、押し殺した溜息のような重みが混じっている。レオンは、自分を突き放そうとするその響きに、微かな焦燥を覚えた。背を向けたヴァルプスの肩が、僅かに硬くなる。
立ち去ろうとするヴァルプスのスーツの裾を、レオンは吸い寄せられるように掴んだ。ひどく頼りない、数ミリの抵抗。
「終わり次第、なるべく……いや、最短で戻る。
だから、待っていてくれるかな」
ヴァルプスは止まり、視線だけをレオンの手元に落とした。短く溜息をつき、レオンの指を解くことはせず、ただ静かに見下ろした。
「あまり、無理はしないように。
なにかあったらすぐに連絡してください。……いいですね」
無言で頷くレオンに対し、ヴァルプスは今度こそ背を向ける。
扉が閉まり、ひとり取り残されたレオンは、会議室を見渡す。
視線を角に向けると、磨き上げられた黒檀のテーブルの上に、場違いなほど鮮やかなミモザが活けられていた。
「……春を、急ぎすぎているな」
独り言は、防音の壁に吸い込まれて消える。
レオンが個人端末を操作すると、数日前にオスカルから届いたメールが画面に呼び出された。
『M.O.N.Oの件は、承知した。構造の合理性は認める。
ただし、次からは事前に共有しなさい。
君の判断は理解した。監査ログに追加しておく』
無機質な文字をなぞるたび、レオンはいいようのない不安を覚えた。
自覚のないまま、レオンは胸元に指を滑らせる。シャツごしに硬い金属の感触を感じ、指を止めて唇を噛んだ。
十二日の大決算。あと九日もすれば、生身のオスカルと会う。
想像しただけで、首筋に冷たい薄氷が張り付いたような心地がした。
視界の端で揺れるミモザの黄色が、ノイズのように網膜を刺す。
世界はこんなにも春を装っている。それなのにレオンの心だけが、いつまでも止まない氷雨に打たれていた。




