第150話:『漆黒の表皮 ー 02/02 17:50 執行開始』
第1部:漆黒の表皮
二月二日 十七時五十分
空が血のような朱色に染まると、高層建築の窓硝子に刻まれた防護呪文が一斉に青白く明滅し始めた。帰宅を急ぐ群衆の影が、街灯の灯る前に一瞬だけ長く、そして深く伸びる。それは、夜の帳と共に忍び寄る『異界』との境界が、最も曖昧になる時刻だった。
月末特有の殺人的な業務と、日曜という概念的な空白を挟んだあとの月曜。
夕闇を窓から眺めながら、レオンはようやく一息つく権利を得ていた。……いや、正しくはその逆だ。
「……レオン。検品を」
ヴァルプスの影が静かに波打ち、漆黒の衣装ケースを吐き出した。
蓋を開ければ、そこにあるのは「服」ではない。
アンティーク・オブシディアン――古の黒曜石と名付けられたその布地は、天井からの照明の光を飲み込み、底知れない深みを持って鎮座している。
アイスシルバーのシャツが、顧問との前戦で刻まれた「敗北の記憶」をなぞるように、冷たく肌に吸い付いた。
ジャケットに袖を通した瞬間は、抵抗がなかった。
布が身体に沿ったのではない。すでにその形だった。
ヴァルプスが支えた等身大の鏡の前で、レオンは軽くポーズをとった。
新品の革靴が床を叩く硬質な音が、事務所の静寂に響き渡る。
「靴をサービスしてくれるなんて、マスターニードルは優しいね」
「……CEO。あの老蜘蛛が無償の愛で動くはずがありません」
メイがタブレットを片手に、事務的な足音で近づいてきた。彼女は眼鏡をクイと押し上げ、頭から爪先まで、冷徹な「査定」の視線を走らせる。
続いてタブレットを差し出し、レオンの前に革靴の特記事項を強調する。そこには広告宣伝及び「重力制御靴歩行ログ」の独占収集権が記載されていた。
「決算会場で、投資家たちからの圧を浴びても一歩も退かなかったという実績。
装備一式そのすべてで、彼のブランドをアピールしたいようですね
……それがマスターニードルにとっての最高の広告になるのです」
「そんなものか」
身につけた装備品の説明を流し読みしながら、レオンは顎に手を当てた。
「……あぁ……素晴らしいよ、レオン」
壁際に控えシステムチェックを行っていたマルヴェイが、溜息をつきながら静かにレオンの背後に回った。翡翠の瞳が、完璧に仕立てられたスーツの肩のラインを撫であげる。
マルヴェイはレオンの肩に鼻を寄せ、スーツの奥から漂う新しい布の香りと、レオンの微かな体温を深く吸い込んだ。
「……レオン。今の君は、世界で一番美しくて、……一番、経費がかかっている」
「……なんだそれ」
レオンは僅かに苦笑し、鏡越しにマルヴェイに視線を投げる。レオンの視線がマルヴェイの手首に流れ、すぐに自分自身の姿へと戻った。……迷いを押し込めるように。
「マルヴェイ。……防衛プログラムの運用は君に一任する」
「お任せください」
マルヴェイは淡く微笑んで静かに後ろに下がる。その様子をレオンは見送り、気を取り直すように襟元に手を滑らせる。
レオンは一度だけ鏡の中の「完璧なCEO」を確認すると、迷いのない足取りで扉に手をかける。
「……マルヴェイは、さきに訓練場で待機していてくれ。
A.I.D.A。環境維持ログの記録を開始」
レオンの言葉を受け止め、A.I.D.Aが了承のアラーム音を鳴らした。
レオンはヴァルプスとメイを伴って魔導昇降機から降り、十一階に足を踏み入れる。
ホールからすぐの円形フロア。外交特区にいる外交官たちがレオンの姿を見つけざわめくが、周囲の護衛部隊に牽制される。
群衆の喧騒が波のように押し寄せるが、ヴァルプスとメイの徹底的な「検討中」という防波堤に阻まれ、レオンの耳には届かない。
レオンは一度も視線を走らせることなく、円形フロアの中心部――黒い防スキャン壁がそそり立つ『コア・ラボ』のゲートへと歩を進めた。
網膜照合と魔力紋認証がパスされ、重厚な隔壁が音もなくスライドする。
ラボのさらに奥。視界の端に映る、ひときわ重厚な一筋の扉――デバッグ・ルーム。
そこに、顧問バルナザールの執務室があった。
防御結界の張られた扉から漏れる魔圧で、微かに空気が揺らいでいる。
スーツの表面が青く発光したかと思うと、肌に触れる衝撃を微かな駆動音とともに霧散させた。
レオンは扉の前で足を止めた。
スーツの裏地が微かに振動し、周囲の魔圧を数値へと分解していく。
――許容範囲内。
レオンは一度だけ呼吸を整え、大悪魔の気配が沈殿する重厚な扉をノックした。
「顧問。お迎えに上がりました。
……新調した正装の『慣らし運転』を兼ねて、訓練場までご同行願えますか?」
返答を待たず、レオンは静かに、しかし確かな意思でその扉を押し開いた。
一歩踏み出すごとに、スーツの裏地に編み込まれた魔導回路が、チリチリと周囲の魔圧を演算リソースへ変換していく。
椅子に深く腰掛け、古びた魔導書に目を落としていたバルナザールが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、ページをめくるはずだった空気の流れすら、止まったように感じられた。
そして金の瞳が、レオンの全身を舐めるように走る。
「……ほう。一週間ぶりにまともに会えた。ようやく顔を見せたな。
随分と小綺麗な『殻』を被ってきたものだ」
バルナザールが言葉を発するのと同時に、部屋の空気が物理的な質量を伴ってレオンを押し潰しにかかる。
だが、その重圧はレオンの皮膚に触れる直前、A.I.D.Aの不可視の介入によって「数字」と「エネルギー」に解体され、衣服の魔導回路へと吸い込まれていった。
「……いい。一歩も、揺れていない」
レオンは不敵に口端を上げ、バルナザールの視線を真っ向から受け止めた。
「お言葉ですが顧問。これは隠蔽のための殻ではなく、あなたの魔圧を効率的に資産運用するための『変換器』ですよ。
……今の私は、あなたが毒を吐くたびに機動力が上がる仕様だ。
効率がいいでしょう?」
バルナザールの口端が、獲物を見つけた猛禽のように吊り上がる。椅子の背に深くもたれかかり、楽しげに目を細めた。
「面白い。私の『声』を燃料にするか。
……いいだろう、精々その布切れが、いつまで私の前で『服』の体裁を保っていられるか。
……デバッグしてやるとしよう」




