第147話:『欠けた契約 ー 01/29 19:10 執行開始』
第2部:欠けた契約
事務所一階にある社員食堂「ラ・フォンテーヌ」の周辺は、営業終了三十分前を過ぎてもはや一つの小国家を成していた。
残業に魂を削られた職員たちが、黄金色の照明の下、まるで最後の聖遺物を求める巡礼者のように入口に殺到している。
カウンター横の棚には、時刻を印字されたレシートが貼られた紙袋が、木積みブロックのように隙間なく積み上がっていた。
部署ごとにまとめられた注文品が、浮遊するトレイの上で待機している。それを受け取りに来ていた社員たちは、ヴァルプスを見かけるなり声を掛け合ってカフェテリア入口までの道を開けた。ヴァルプスは左右を一瞥し、微かな顎の動きのみを見せたあと、歩みを進める。
ヴァルプスが単品でカフェテリアに現れるのは極めて稀だった。
職員たちは思わずレオンの姿を探して周囲を見回してしまい、壁際に直立する護衛たちと目があう。微かな違和感に背筋を撫でられながら、社員たちはそそくさと紙袋を抱えて足早に各々の巣に戻っていった。
ヴァルプスは「ラ・フォンテーヌ」のテイクアウトカウンターへ向かう。歩きながら、そっと窓際に視線を向けた。
本来は『善良な外部の人間』のための特等席だ。だが今、そこは周囲から物理的に切り離されたかのような、異質な静寂の領土と化している。
チャコールグレーとミッドナイトブルーの「世界を定義するスーツ」を着た二人の男たちが、一対の美しい彫像のように座っている。
ヴァレリアンは端末を操作しながら、無表情にサラダを口に運んでいる。
カイウスはヴァレリアンの皿から、野菜を当然のように自分のフォークで奪い取っている。彼が動くたび、ネオンイエローの眼帯が存在を主張する。
彼等はお互いの足を円卓の下で絡ませながら、極めて静かで、他者を排除した親密さを披露していた。それは、互いが互いの『部品』であることを、一時も忘れたくないという病的な誓いに見えた。
ヴァルプスは彼等が座っている座標を「物理的な障害物」としてのみ認識し、そこにある「生命反応」を意識からシャットアウトする。
メニュー表の文字だけに神経を集中させて、一般的な客という偽装を展開した。
「お疲れ様です!ヴァ、ヴァルプス様!」
カウンター越しに、店員が緊張した面持ちでヴァルプスに声をかけた。
ヴァルプスはレオンから送りつけられた「最高優先度の暗号通信」を脳内メモリから直接出力するように、淀みなく告げた。
「お疲れ様。
ショコラティナを二個。苺のタルトを二個。カプチーノを二杯。
……カプチーノの一杯は、シナモンを規定量の1.5倍に」
「は、はいっ! 承知いたしました!」
店員の手が、かつてない速度で紙袋を詰め始める。
背後の窓際から、粘りつくような視線と、低く楽しげな笑い声が飛んできた。
「ねえ、ヴァルプス~!主人は上に隠しちゃったの?
なんで一緒に居ないの?
俺達に会うの、そんなに嫌だった?」
カイウスが、ヴァレリアンの皿から奪ったチェリートマトを口に放り込みながら、わざとらしく声を上げた。
円卓脇に置かれていたネオンエメラルドの正六面体が、チカチカとまるで笑い声のようなリズムで点滅する。
ヴァルプスは微動だにせず、カウンターに置かれた「ショコラティナ」の焼き色を検品するように見つめた。
店員はパンとカプチーノを詰めた茶色の紙袋の横に、掌から余る程度の青のリボンで結ばれた白磁のような小箱をそっと置いた。小ぶりな容積に反した丁寧すぎる梱包こそが、中身が『ただの残業食』ではないことを、窓際の捕食者たちに雄弁に語ってしまっていた。
ヴァルプスが指にリボンを引っ掛けて持ち上げようとした。指先に伝わるのは、果実とタルト台が凝縮された、密やかな重みだ。
持ち上げた瞬間に、カイウスが背後から声をかけた。
彼はカウンターを覗き込み、ショーケースの中に苺のタルトがないのを確認してから、ヴァルプスの顔を下から覗き込む。
派手な髪飾りをしゃらりと流しながら、カイウスは無邪気に微笑んだ。
「その苺のタルト、レオンの好物だったよね。
……俺も食べたいな。そのタルト。
一つ、譲ってくれないかな?
……もちろん、正当な対価は払うよ」
カイウスの黄緑の瞳が、獲物を解体するメスのような鋭さでヴァルプスの視線を絡めとる。
ヴァルプスの赤い瞳が一瞬、冷えた。
「構いませんよ」
ヴァルプスは、感情を一切排した声で応じた。その指先がリボンを解く所作には、冷徹な処刑人のような正確さと、容赦のなさが同居していた。
「もっとも、これはレオンがボクと一緒に食べるために、二つ買わせたものです。
欠けたセットにどれほどの価値を見出すかはあなたの自由ですが……」
ヴァルプスは小箱を開け、宝石のように赤く輝く苺のタルトを一つ、カイウスの鼻先へと差し出した。
「……飢えているようですね、カイウス。
同情しますよ。主の食べ残しを欲しがるその卑しさに」
周囲の空気が凍りついた。
店員は呼吸を止め、トレイを持ったまま動きを止める。
窓際で珈琲の入ったカップを持ち上げながら、ヴァレリアンがヴァルプスの横顔を見つめる。ヴァレリアンの口の端が僅かに上がった。
カイウスは一瞬、言葉を失ったように目を見開いたが、すぐに口角を吊りあげ、歪な笑みを浮かべた。
「……ははっ!言うねぇ。
二人で食べるためのタルトを、俺に与えてくれてありがとうよ」
カイウスは差し出されたタルトを指で直接摘み、その苺を愛撫するように弄ぶ。
「……この欠けた契約の味を、じっくり噛み締めてあげよう」
カイウスはタルトの端に軽く口付けてから、ヴァルプスに視線を投げる。
「……あ、それと。レオンに伝えておいて。
演算するときはさ、阻害魔法を展開してからにしなよって。
なんつーか、君達、わかりやすいよ。
……演算の癖、ここまで響いてた」
ヴァルプスは、パンが入った袋と封をし直した紙箱を手に取った。
脳裏にレオンを驚かせたメールの送信元や、M.O.N.Oの情報、そしてマルヴェイとのやりとりが高速で流れ、冷えた一粒の欠片となった。
(……すべては、推測でしかないが)
「伝言は承りました。……失礼いたします」
ヴァルプスは目の前のカイウスに一礼をして、続けてヴァレリアンにも頭を下げる。それからようやく踵を返した。
背後でカイウスが「おいしい!……ヴァレ、これ凄くおいしいよ!」と、わざとらしい声を上げていたが、振り返らなかった。
一階のアトリウムを抜け、昇降機へと向かうヴァルプスの歩幅は、先ほどよりも僅かに速い。
胸元の袋からは、まだ微かなパンの熱が伝わってくる。
だが、重量の欠落した小箱の軽さは、ヴァルプスの胸の奥に、カイウスへの殺意とは別の、割り切れない沈殿物を残していた。




