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1魔貨の聖騎士 ― 価値ゼロCEOと悪魔の強制執行監査契約  作者: 暮夜すと
【シーズン2:オスカル最終承認編】Q1

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第146話:『香りの割込み ー 01/29 19:00 執行開始』

第1部:香りの割込み(セント・インタラプト)


 一九時。オーディトリアムの重厚な魔導扉が、音もなく左右に滑った。

 レオンは、ヴァルプスを従えて三階の廊下を歩く。背筋は鋼のように伸びているが、その脳内では、先ほどまでのマルヴェイとのやり取りが、剥がれかけのパッチログのようにノイズを立てていた。


 涼やかな電子音が、静まり返ったフロアに響く。中央の魔導昇降機が開くと、中から数人の職員たちが現れた。首から社員証を下げ、袖を捲り上げた「総務部」の面々。彼らはレオンの姿を認めるや否や、雷に打たれたように直立不動となり、深々と一礼した。


「お、お疲れ様です、CEO!」


 いつものような爽やかな笑顔を作る余裕は、今の彼にはなかった。レオンは無言で、王者のような鷹揚な頷きだけを返す。

 だが、職員たちとすれ違った、その刹那。

 ふわりと、鼻腔を、そして魂を直接くすぐるものがあった。

 香ばしい挽きたて珈琲の薫香。そして、それを追うように漂う、暴力的なまでに芳醇なバター混じりのパンの香り。

 職員が大切そうに抱えていた紙袋からは、まだ熱を帯びたパンの端が、まるで黄金の流動資産のように覗いている。一階のカフェテリアが放つ、抗い難い誘惑の結晶体。


(……焼きたて、だと?)


 レオンの足が、強力な磁石に引かれるように速度を落とし、止まった。

 一月二十九日。決算準備と法定調書の作成に追われ、死んだ魚のような目をしているはずの職員たちが、その紙袋を抱えるだけで、深夜の戦場へ向かう騎士のごとき輝きを取り戻しているではないか。

 カフェテリアはいま、残業に追われる者たちのために、その「魔力」を最大出力で稼働させているのだ。

 急速に、意識のプライオリティが塗り替わっていく。

 今のレオンにとって、「今日の夕食を食べていない」という切実な純損失ネット・ロスは耐え難く感じた。


「……ヴァルプス」


 レオンは前を見据えたまま、低く、地を這うような威厳に満ちた声で囁いた。


「今の、総務の者が所持していた物体……。即座に型番を特定し、その供給ルートを解析しろ」


「レオン。あれは備品ではなく、ただのクロワッサンです――正確には……焼き上がりログから推測して『ショコラティナ』ですね。カフェの限定焼成枠かと」


 レオンは微かに目を細め、去りゆく総務部員の背中を鋭い眼差しで射抜いた。


 「……一階へ向かう。緊急の現地視察が必要だ」


 レオンが一歩を踏み出した、その瞬間だった。

 ヴァルプスの懐で、無機質で重苦しい振動音が鳴り響く。

 中央管制室デッドロックからの、特権優先バイパスアラート。

 ヴァルプスの歩みが、精密機械が緊急停止するようにピタリと止まる。彼はレオンを追い越すことなく、視線だけを手元の端末へ落とした。青白い光に照らされた彼の横顔から、温度が急速に奪われていく。


「……ヴァルプス?」


「予定を変更します。レオン、あなたは十二階へ。最短ルートでの垂直退避を」


 ヴァルプスの声は、先ほどまでの「ただのクロワッサンです」という呆れた響きを完全に失い、冷徹な『管理官』のものへと切り替わっていた。


「一階に不純物が定着しました。

 今のあなたをあの義眼カイウスに晒すのは、脆弱性をわざわざ公開するようなものです。 カフェテリアの優先順位は、現在『最低』に格下げされました」


「……そうか」


 レオンが、間の抜けた声を漏らす。それはカフェテリアに寄れなくなったという絶望的な事実を、脳が辛うじて処理した証だった。


「……あ、いや、しかし……だな……」


「レオン」


 有無を言わさぬ管理官の視線を見上げ、レオンは額にかかる髪を撫でつける。


「……わかった、行く! 行けばいいんだろう!

 だがヴァルプス、私の『希望リスト』は後で端末経由で、最高優先度の暗号通信で送る。

 既読スルーは……許可しないからな……」


 背後で「了解しました」という、どこか諦めの混じったヴァルプスの声を聞きながら、レオンは焼きたての香りに後ろ髪を引かれつつ、魔導昇降機へと足を進めた。

 扉が閉じられるまで、きつく口を引き結び、真剣な顔つきで端末をスワイプするレオンの姿がヴァルプスの視界に映り込む。

 連続で鳴る受信音を受け止めながら、ヴァルプスは小さく、誰にも聞こえないほどの溜息を吐いた。

 端末に次々と表示される「ショコラティナ×2、苺タルト×2、カプチーノ×2」のログ。

 契約上の権利行使にしては、あまりに短絡的で非効率な過剰発注に、ヴァルプスは眉根を寄せた。


「……善処はしますがね、レオン」


 一階から三階までを覆う巨大なガラスのアトリウムは、夜の闇を透かし、同時に内部の喧騒を虚無へと反射している。

 カフェテリアの入口を見下ろし、監察官たちの不穏な生体波動を感じながら、ヴァルプスは胸元に端末を静かに戻した。



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