第143話:『反転する境界線 ー 01/29 17:30 執行開始』
第4部:反転する境界線
白鏡宮をあとにした専用車の後部座席は、防音魔法と遮光フィルムによって、先ほどまでの陽だまりが嘘のような静寂に包まれていた。
ヴァルプスの膝に頭を預け、浅い眠りとも気絶ともつかぬ意識の淵にいたレオンは、指先に伝わった微かな振動で目を覚ます。
手元の個人端末が、一通の受信を知らせていた。
網膜に映し出された送信者の名は――マルヴェイ。
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件名:Re: 1/29 SRE報告書への追記(閲覧注意)
18:00。3階オーディトリアム。
ヴァルプス監理官には共有されていないログがある。
正確には、共有可能な形にまだ整理されていない。
君が来るなら、その場で全て開示する。
来ない場合でも処理は進むが、その場合「解釈の主導権」は君の手から離れる。
それだけだ。
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レオンは静かに目を見開いて、それから手元を睨みつけた。
(……マルヴェイ)
レオンはマルヴェイの言葉を思い出す。彼はレオンがリスクを認識し、自力で拒絶しなければ、再発防止にはならないと言った。
レオンからすれば「事務所が侵食されているのを知りながら、自分の教育のためにあえて放置した」という不誠実な裏切りだった。それはレオンの経営ロジックである全体の安全第一から反していた。
ヴァルプスに頼ることは、自分を律する理性を放棄することと同義だった。清廉な管理官を曇らせるわけにはいかないという、それは一種の、主としての矜持だ。
だが、マルヴェイは違った。彼は最初から底の抜けた泥沼だ。どれだけ自分の醜い弱音や汚濁を投げ捨てても、マルヴェイなら笑って飲み込んでくれると思っていた。なのに、マルヴェイはその泥を、レオンの喉元までせき止めて見せていた。
(マルヴェイなら、私の判断を処理対象として扱ってくれると思っていた。
私の内側に溜まる致命的なエラーログすら、ただの未整理データとして分類し、焼却ラインに送ってくれるはずだと)
レオンは文面を何度もなぞりながら、レオンの心は急速に計算モードに切り替わる。
(……私はまた、彼に選ばされている)
一瞬だけ、指先が震えた。
――その震えを、意識的に握り潰す。
自虐的な笑みとともに、レオンの思考が冷徹なビジネス・ロジックへと塗り替わっていく。
選択肢を外すわけにはいかない。たとえその支払いが、自分の魂の切り売りであっても。
アメリアを、ヴァルプスを、事務所を守るため――マルヴェイという選択肢を、手放すわけにはいかない。
レオンは乱れた前髪を無造作にかき上げ、窓の外――夕闇に沈みゆくルテティアの街並みを見つめる。
「……ヴァルプス。……十八時、オーディトリアムへ」
「……レオン。休養が必要だと判断します」
「……マルヴェイと、打ち合わせだ」
真上から見下ろすヴァルプスと視線を交わし、レオンは低く硬い声で告げる。
「……一緒に、来てほしい」
「わかりました。
……判断としては、正しいですね」
その声は、肯定でも否定でもなかった。
ただ事実として、次の局面を示しているだけだった。
ヴァルプスの瞳には、ただ闇の中でも鋭く光る、獲物を狙うかのような冷たい光だけが宿っていた。
レオンは視線を外し、薄く息を吐いた。
(……これでいい)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥では別の計算が続いている。
見覚えのあるビル群が見え、レオンは事務所が近づいているのを感じる。
レオンは車が停まるまで、窓の外に広がる曇天を、ただ黙って見つめていた。




