第144話:『虚無の講堂ー 01/29 18:00 執行開始』
第5部:虚無の講堂
重厚な防弾仕様の扉が開き、車外の湿った空気が流れ込む。
見上げた空は、先ほど窓越しに見た通りの曇天だ。厚い雲がルテティアの街を低く抑え込み、逃げ場を奪っているかのように見えた。
事務所の三階に着く。普段は輝かしい成果を誇示するためのオーディトリアムは、今や巨大な虚無の器と化していた。
観客のいない数百の座席。磨き上げられた黒い床は、まるで深淵のような光沢を放ち、レオンとヴァルプスの足音を無情に跳ね返す。
天井の高い空間特有の、冷え切った空気が肌を刺した。
その最奥、ステージ中央に置かれた一脚の椅子に、マルヴェイが座っていた。
背後の巨大スクリーンには、何も映し出されていない。ただ、彼の手元の端末から漏れる青白い光だけが、その端正で残酷な横顔を闇の中に浮かび上がらせていた。
重厚な扉が閉まる音。それが、この日最後の『逃げ場』が消えた合図だった。
「……ちょうど、きたね。
……ふふ。野暮だね、レオン。せっかくの儀式に、そんな影を連れてくるなんて」
広いホールに、マルヴェイの声が不自然なほどクリアに響く。
「……私の情報の公開範囲を決めるのは私だ。マルヴェイ、お前じゃない」
レオンは足を止め、後ろに向けて静かに声を投げた。
「いいか、ヴァルプス。私が呼ぶまでは手は出すなよ。
……それと、負荷が飛ぶかもしれない。覚悟だけしておけ」
「……わかりました」
目を伏せ、付き従うヴァルプスを確認し、レオンは歩みだす。マルヴェイの真正面の席につくと、ゆっくりと座り込み足を組んだ。
まるで、剥き出しになった己の急所を隠すかのように。
レオンが腰を下ろしたのを確認後、マルヴェイが空中からホログラムキーボードを召喚し、指を鳴らす。
巨大スクリーンが音もなく点灯した。
映し出されたのは、先ほどまでレオンがいた「白鏡宮」の温室の、リアルタイムの熱源チャートだった。
「アメリア様の多幸感指数が下がったね、レオン。
……凪を強要して、あの子の笑顔を凍らせて、それで守った気になっているのかい?」
マルヴェイの指先が、流麗な動作で空中にホログラムを投影する。そこには、白鏡宮のサーバーから密かに吸い出された、レオンの感情のスパイクが青白い波形となってうねっていた。
「……君のそういう『傲慢な自己犠牲』が、M.O.N.Oにとってどれほど甘美な餌になるか、今から見せてあげるよ」
レオンは、組んだ足の指先に力を込め、革靴が軋む音を微かに響かせた。
視界の端で、壁際に控えるヴァルプスの気配が、凍りついたように鋭くなるのが分かった。レオンはあえて後ろを振り返らず、スクリーンの青白い光に照らされたまま、低く、押し殺した声で応じる。
「……勝手に私の視覚ログを同期し、あの子のプライバシーに土足で踏み込んだ言い訳が、その『心理分析』か。
……CISOの権限を、いつから覗き見の免罪符だと勘違いし始めた?」
「おや、心外だな。
私は君の『資産管理』の穴を指摘しているだけだよ」
マルヴェイは椅子に深く背を預け、手首の火傷を慈しむように撫でながら、暗闇に沈む客席へと視線を投げた。
「君は『情報の開示こそが信頼の証だ』と言った。だから私は、君が開示したその脆い精神の隙間を、正しく『補強』してあげようとしたんだ。
……まさか、君を助けている私の観察眼を、『不誠実な裏切り』だなんて呼ぶつもりじゃないだろうね?」
レオンの冷ややかな視線を受け止めながら、マルヴェイは口の端を上げる。
「レオン。君が門を閉ざし続けるなら、A.I.D.Aは君を守り切るだろう。
……ただし、君一人の『生存』と引き換えに、事務所とヴァルプス、そしてアメリア様を切り捨ててね」
マルヴェイはスクリーンに高度な専門用語を並べ立てはじめた。
A.I.D.Aの崩壊シミュレーション、C.O.L.L.A.T.E.R.A.LとA.I.D.Aが同期した場合のシステム予想図。
展開されるグラフはどれもがレオンのリスクを示していた。
――予測侵入成功率:72%
――精神負荷臨界到達:残り4分
それは、ヴァルプスには叩き落とせない「論理の刃」だった。
「……わかったよね?レオン。このままじゃ次の決算の最中に、君の脳内がM.O.N.Oにハックされる可能性だってある。
すべてを防ぐには、私との完全なペアリングだけ。
……君の心を、もっと、私に預けてくれないかな?」
マルヴェイはスクリーンの光量をゆっくりと落としながら、優しい微笑みを浮かべてみせた。
「……同期とは、服従じゃない。
君の意思決定を、孤独な推測から——
検証済みの演算へ引き上げるということだ。
君が守ろうとしているものすべて。
事務所も、あの子の笑顔も、そこにいる忠犬も。
それらを『運』に委ねずに済む未来が手に入る」
マルヴェイの微笑みを、レオンは無表情で受け止めた。
「……『運』、だと?」
マルヴェイの唇から零れたその単語に、レオンの組んだ指先がピクリと跳ねた。
それはレオンの人生において、最も不合理で、最も管理を拒む最悪のバグ(脆弱性)の呼称だった。
磨き上げられた革靴の先が、無意識に黒い床を叩く。その微かな音が、オーディトリアムの静寂に「不快感」という名のログを刻み込んだ。
「私が積み上げてきた計算を、その一言で一蹴するつもりか」
十数秒の間を置いて、レオンは口を開く。
「……マルヴェイ。プレゼンはもういい。
……預けるかどうかは、A.I.D.Aが決める」
「……いいよ。やるんだね」
マルヴェイは長い袖から覗く細い指先で、空中に龍淵の文字を素早く描き初めた。
赤黒い錆のような魔力が揺らめき、歪な魔導基盤がその場に固定されはじめる。
床の光沢が、わずかにそれを拒むように波打った。
「君がいつも社員や投資家に嘘を見せているこの場所で。
レオン。本当の君(脆弱性)をさらけ出そう」
マルヴェイは右手の指をすべて折り曲げ、上向かせた。手のひらの上にボルドーの正二十面体クリスタル――C.O.L.L.A.T.E.R.A.Lが顕現する。
レオンは座ったまま胸元に右手を当てて、目を閉じた。
青い茨が、黒い床から湧き出るように展開し、レオンの身体を守るように絡みつく。
その棘は彼を傷つけない。外側だけを拒絶するために存在していた。
やがてそれらは右手へと収束し、指先がわずかに震える。
レオンはまるで心臓を取り出すように、青い正八面体クリスタル――A.I.D.Aを顕現させた。




