第141話:『宝石姫の市場操作ー 01/29 13:00 執行開始』
第2部:宝石姫の市場操作
白鏡宮の重厚な門扉が、監理官を迎え入れるべく左右に開かれる。
居並ぶ職員たちの敬礼を受けながら、レオンは漆黒のコートを翻し、一瞥もくれずに前へと進む。その横には、影のようにヴァルプスが寄り添った。
第一層である白い石壁の内側に入った瞬間、レオンの頬をかすめたのは、季節外れの温かな風だった。
「……また、上がっているな」
レオンが手元の端末を叩くと、そこには[Internal Temperature: +3.2°C]の表示。
アメリアが「思い出し笑い」をした影響だ。施設の庭園にある噴水が、まるで歓喜の歌を歌うように、不自然なほど高く、リズミカルに水を空へ叩きつけている。
白い石畳の真ん中に立ち、一礼する淡灰銀髪の男を見上げてレオンは立ち止まった。
「――管理室長アゼルフィード。状況を報告しろ」
「監理官閣下。アメリア様の多幸感指数は、数日前から異様なスパイクを見せています。
……閣下から同期された、あの『背脂の物語』の余韻が、未だに施設の因果律を揺さぶっているようです」
「……その話は、あとでいい。
……それより、試験運用中の第九から第十一までの予備タンクは利用できるようにならないか。
『位相空間蓄電グリッド』へ強制パージしてでも、市場への出力を抑え込め」
レオンは、背脂というフレーズに過敏に反応しそうになり、震える声を押し殺して命じた。
アゼルフィードは瑠璃色の瞳を細め、手元のタブレットに流れるカオスな波形を見つめる。
「……閣下。『多幸感サージ・シンク』は既に八十%が埋まっています。
予備タンクを解放したところで、彼女がこれから貴方の口から直接語られる『ラーメンの真実』を聞けば、数分で臨界点を迎えるでしょう」
アゼルフィードは、その光の薄い瞳に、観察対象を前にした研究者特有の、わずかな熱を浮かべて続けた。
「……このまま溢れさせれば、『変異』の観測が可能ですが。
――まあ、閣下のご判断に従います。
『情緒圧力・分散コンデンサ』は最大出力で回しておきましょう。
広報は『定期メンテナンス』で処理可能です」
「頼む」
レオンは白く無機質な床を均等な歩幅で踏みつけながら、アゼルフィードの提示するタブレットを見下ろす。
「……ところで、監理官閣下」
アゼルフィードの声が、一歩踏み出そうとしたレオンを引き止めた。
レオンが不快げに振り返ると、アゼルフィードは表情を一切変えず、淡々と、だが必要事項として続けた。タブレットに表示された真っ赤なアラート画面を指先でなぞってみせる。
「こちらの追加設備投資案に目を通してください。午前中の査定会議で『保留』にされた分です」
アゼルフィードは一礼し、氷のように冷たい金属製のタブレットを、レオンの胸元へ差し出した。
画面には、剥き出しの鉄骨と魔導回路が複雑に絡み合う『第十二層増築案』の青写真が、警告を促す赤色で明滅している。
受け取ろうとしないレオンに対し、アゼルフィードは瑠璃色の瞳でわずかに圧をかけた。
「……来期を待つ、という判断はお勧めしません。物理インフラは、決算を待ってくれませんので」
レオンは、タブレットの冷たさが手袋越しに伝わるのを感じながら、奥歯を噛み締めた。
「……本日中に『第十二層増築案』の承認を。オスカル氏がこの計画を検知し、『不必要な装飾(格付け)』を加えてくる前に。 現場の権限で、因果の穴にパッチを当てておきたい」
レオンは、叩きつけるように承認ボタンに指を置いた。
それは、叔父上の「美学」という名の侵食から、わずかばかりの領土を守るための、無様な抵抗だった。
「――承認(Approved)だ。これで満足か、アゼルフィード」
レオンはタブレットを突き返すように戻すと、乱れた呼吸を整えるべく、一度だけ深く目を閉じた。
第十二層の増築という「物理的な防壁」は手に入れた。だが、これから対面する彼女の笑い声が、その防壁を内側から粉砕しないという保証はどこにもない。
レオンは背筋を伸ばし、一ミリの汚れもないカフスを整えた。
前方、数ヘクタールはあろうかという室内庭園の奥に、アメリアの私室――『星霜の温室』の扉が見える。
その巨大な扉の向こう側で、一人の少女が「背脂の君」という、一国の経済を破壊しかねない破壊力を持った言葉を唇に乗せて待っている。
「……ヴァルプス。開けろ」
レオンの言葉に応じて、漆黒の従者が、音もなく巨大な白銀の扉に手をかける。
扉の隙間から漏れ出してきたのは、ルテティアの冬空とは正反対の、あまりにも陽だまりに近い――そしてレオンにとっては甘やかで残酷な、少女の笑い声だった。
少女は白い長椅子に身を預けながら、朗らかに笑った。
「……あぁ、レオンさん。
やっとお越しになられましたのね。冒険譚を詳しく精査させていただきます」
その天真爛漫な「デバッグ」の宣言に、レオンの背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。




