第137話:『境界線の消音ー 01/29 04:50 執行開始』
第4部:境界線の消音
一月二十九日 四時五十分
「……複製完了。
次、一.五時間でトラフィックの全誘導を終わらせて」
「マルヴェイ様、M.O.N.Oが常にパケットを送ってきています……!
今、接続を切ったら、即座に『異常』として検知されますよ!」
白銀の糸が、本物のサーバーの心臓部を執拗になぞっている。M.O.N.Oの監視は、単なるデータの確認ではない。レオンの事務所という「生命体」が正しく呼吸しているかを、常に触診しているのだ。
「Gateway……できるね? 一瞬の空白も作らず、滑らかに『鏡の国』へ滑り込ませて」
マルヴェイの指先が、鍵盤を愛撫するような速度で宙を舞う。
Gatewayと呼ばれた職員は、実体を情報の海に溶かし込み、半透明になった両手をキーボードに沈ませた。彼がキーを叩くたびに、冷却水の循環音が不気味な高音へと変わり、ラボの空気は焼けたシリコンと高密度の魔力が混ざり合った、ひりつくようなオゾン臭に満たされる。
「……トラフィック、並列遷移開始。
……十、九、八……」
Gatewayのカウントダウンに合わせて、壁一面のモニターに映るトラフィック・グラフが、ゆっくりと、だが確実に「偽装サーバー」の方へと剥がれ落ちていく。
それは、全力疾走する列車のレールを、走りながら並行する別の線路へ繋ぎ替えるような神業だ。
「……三、二、一。……遷移完了」
Gatewayが、情報の海から無理やり肉体を引き剥がすように、キーボードから手を離した。
その瞬間、世界は二つに割れた。
M.O.N.Oが「本物」だと思い込んで愛撫しているのは、今やマルヴェイたちが作り上げた「鏡の国(偽装サーバー)」だ。白銀の糸は、偽物のレオンが眠る偽物の寝室を、疑うことなくスキャンし続けている。
「……接続維持。
……M.O.N.O、欺瞞(偽装)ログの受取を確認。
……食いつきました。あいつ、偽物だと気づかずに、俺たちの用意した『偽の歴史』を読み込んでいます……!」
Gatewayの声は、極限の集中による酸欠でかすれていた。半透明だった彼の手首には、過負荷による真っ赤な火傷の痕が、回路図のような紋様となって浮かび上がっている。
「……ふぅ。……お疲れ様。でも、まだ終わりじゃないよ
このまま、レオンの偽のデータも生成してしまおう
……ちょうどいいデータがあるよね?レオン」
マルヴェイは、滲んだ汗を拭うことさえせず、翡翠の瞳をさらに鋭く光らせた。モニター越しに、レオンの顔を愛おしげに見つめる。
レオンは小さく頷き、冷徹な面持ちで、いつものように足元の床を叩いた。
寝起きの彼が履いていたのは、寒さ対策でとりあえずヴァルプスに履かされた超高密度起毛の「ウサギ型スリッパ」だった。
フムッ、フムッ。
硬質な「コツ、コツ」という音は、贅沢なフェイクファーに完全に吸収され、召喚相手には微かな温もりとしてしか伝わらない。
床の一枚下、十一・五階の暗がりに潜む外注社員――シリアル・V・アルトが、反応しない。
レオンは無表情を崩さぬまま、今度は少し膝を高く上げ、『十一・五階』のポッドの天蓋を、より強く踏みつけた。
ボフッ。
虚しい消音材の音が執務室に響く。レオンの眉間に、かつてないほど深いシワが刻まれた。
「……レオン。その足元のふかふかが、下の彼への合図を遮っています」
ヴァルプスが静かに指摘する。レオンは一瞬だけ動きを止め、自分の足元の「耳のついたスリッパ」を冷ややかに見下ろした。
レオンは迷うことなくスリッパを脱ぎ捨て、足元の魔導硝子越しに、アルトの睡眠ポッドを、裸足で思い切り蹴飛ばした。
直後、床下の魔導硝子が怒涛の勢いで青白く発光し、床をすり抜けてアルトが静かに現れる。
「CEO、申し訳ありません。
上層階に『巨大な雲』が落下したと演算結果が出ており――」
「……忘れるな、アルト。今の事象すべてだ」
薄暗い空間の中で、アルトの黒のバイザーに青い線が走る。
アルトはレオンの素足から角の先までを青い光で撫であげたあと、右手の親指を立ててみせた。
「……最短距離での同期、完了。
状況は把握しておりますよ……CEOの生体データは保存済です。
先程の床ドンの足首の角度と筋肉の弛緩率、および『屈辱による体温上昇』の0.2度分も、偽装パケットにパディングしておきました。
[Update Required]」
レオンの視界の端で、床に崩れ落ちて笑っているマルヴェイが映る。レオンが憮然とした顔で足を投げ出すなか、ヴァルプスが跪いてスリッパを履かせた。
「……アルトくん、準備はいいかい?
君の持っている『レオンの恥部』を、全部、偽物のレオンに流し込んで。
叔父上が朝の定期スキャンをかけた時、『昨夜の洗剤の入れ忘れを悔やんで、少しだけ寝汗をかいている、実に人間臭いレオン』を演出するんだ。
ああ、あと。『スリッパを蹴り飛ばすレオン』もね」
涙を浮かべながらマルヴェイは指示した。
伸ばした指先からは、過負荷となったシステムが発するような、微かな熱い煙が立ち上っていた。




