第136話:『忖度の脆弱性 ー 01/29 04:20 執行開始』
第3部:忖度の脆弱性
一月二十九日 四時二十分
SREたちの安眠は、突如としてネットワーク越しに流し込まれた「暴力的な覚醒」によって粉砕された。
すべての自室端末、支給された刻印符、さらには壁の非常用スピーカーから、「壁を爪で引っ掻く高周波ノイズ」が最大音量で鳴り響く。
すべての照明が、一瞬で「警告色」に染まった。
支給された刻印符が、持ち主の手首を「心臓の鼓動」のような、重く、規則正しい振動で締め付ける。
ディスプレイには、『P0:全系隔離』の赤文字が、せわしなく明滅していた。
「……あ、アラート……?」
「優先度:最高(P0)……だと……!?」
通路に飛び出したSREたちは、自らの端末が「閲覧専用」にロックされていることに気づく。
すべての演算資源が、中央のホログラム――きっちりと身なりを整え、優雅に茶器を傾けるマルヴェイ――へと吸い取られていく。
その光景を、戦慄と共に眺めることしかできなかった。
「おはよう、愛すべき私の『計算資源』たち。
……急に起こしてごめんね。でも、上の階の王様が『洗濯機に洗剤を入れ忘れた』って泣き喚いていてね。
……これ、私のプライドと、君たちのボーナスに関わる大不祥事だと思わないかい?」
「ま、マルヴェイ様……洗剤って、何のことですか……!?」
リーダーのレイモンが、寝癖だらけの頭を押さえて絶叫する。
「比喩だよ、L1。……君たちが『身内の便利なツール』だと思って大切に温めていたAI――M.O.N.Oが、実は事務所を丸ごと飲み込もうとしている巨大なバグだったっていう話。
……わかるだろう?」
マルヴェイの甘い声が、冷酷な宣告へと変わる。
「今から五分以内に、メインフレームにログインして。
……あぁ、寝癖は直さなくていいよ。……君たちの『慌てふためくログ』は、既にCEOがリアルタイムで監査してるから。
1秒の遅延につき、ボーナスの『脆弱性』が1箇所増えると思って。
……さあ、ダンスの時間だ」
「……っ、了解!」
「メインフレーム起動!」
「仮想ドメインの隔離準備、急げ!!」
泣き言を言う暇さえない。SREたちは、裸足のままサーバー室へと駆け出した。
その光景をモニター越しに眺めながら、マルヴェイはレオンの通信ラインに向かって、楽しげに囁いた。
「……準備は整ったよ、レオン。
……さあ、私の部下たちが、寝癖を振り乱して『鏡の国』を編み上げ始める。
……君は高みの見物で指示を出しなよ」
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「……夜の静寂を、電子の悲鳴で塗り潰したのは私だ。
通常業務であれば、君たちは夢の中にいただろう……」
レオンは夜着の薄い絹越しに、執務室の冷気を肌で感じていた。背後には、主の『凪』を乱す不純物を物理的に排除せんとするヴァルプスが、死神のように静かに佇んでいる。
宙に浮かぶホログラムディスプレイ。そこに映し出された地下一階のSREたちは、突如として叩きつけられたレオンの凍りつくような眼光を前に硬直していた。
「……だが、M.O.N.Oという『巨大なバグ』をホワイトリストに入れていた君たちの不手際を、今ここで清算してもらう」
「レオン様、そう仰られましても……俺たち、あれはオスカル様の正式な管理ツールだと……」
「黙れ。CEOが忘れていた契約を、システムが忘れていい理由にはならない」
レオンの冷徹な一喝に、モニターの向こうでSREたちが肩を震わせる。
SREたちにとって、サーバーの隅で動いている白銀のログは、レオンがCEOに就任した時からそこにあるものだった。
彼らにとってM.O.N.Oは、いわば『消してはいけないシステムファイル』のようなものだった。
「よくわからないが、最初からあるし、触ると社長が怒りそうだから放っておこう」
そんな現場特有の「事なかれ主義」が、最凶のバックドアを数ヶ月間も維持し続けていたのだ。
そしてボスであるマルヴェイが、そのM.O.N.Oを見て「まあいいか」と鼻歌を歌っているのを見て、部下たちはこう思っていた。
「セキュリティの化け物であるマルヴェイ様が放置しているんだ。なら、あれは『無害なバックグラウンド・プロセス』なんだな」
CEOの身内経由の契約だろうと、技術ではなく「政治の問題」だと判断して、誰も触れずにきたのだ。
「えっ!? あれ、バグだったんですか!?
オスカル様公認の『経営支援AI』だと思って、ホワイトリスト(許可リスト)に入れてました!」
「マルヴェイ様、知ってたなら言ってくださいよ!
私たち、M.O.N.Oにサーバーの帯域の三%を献上し続けていたせいで、夜間のバックアップがいつもギリギリだったんですよ!
おかげで、夜食のピザを注文するパケットすら、M.O.N.Oの機嫌を伺いながら融通し合ってたんですよ!」
「CEOが承知の上で動かしている、エルフの伝統的で気持ち悪いシステムだと思って、律儀にメンテナンスしていたんだけど……」
こそこそと漏れ聞こえてくるSREたちの言葉に、レオンは長耳をぷるぷると震わせながら目を閉じた。
「……それを君たちは、私の『エルフ的なこだわり』だと思って耐えていたのか?
……献上、していただと?
私の知らないところで、私の名前を使って叔父上に朝貢していたというのか」
レオンの喉の奥から、乾いた音が漏れた。
知らぬ間に、自らの資産(サーバー帯域)が、不倶戴天の敵である叔父上への『献上品』として、恭しく差し出されていた。
しかもそれは、社員たちの「良かれと思って」という忠誠心によって。
――私が、忘れていたせいか。
――いや、違う。私が『思考の禁止区域』に閉じ込められていた間に、彼らがそれを「前提条件」として受け入れてしまったことが、最大の脆弱性なんだ。
「経営者が、心臓の鼓動(ルート権限)まで明け渡す契約を、本気で結んでいると思ったのか?
君たちの『忖度』という名の思考停止こそが、この事務所最大の脆弱性だ。
私が叔父上に脳を焼かれ、正常な判断を失っている可能性を、なぜシステムから検知できなかった?」
自らの瑕疵を、組織の定義ミスへと力ずくで書き換える。
レオンの思考回路が、責任の所在を再演算し始める。
「いいかい、君たちの『忖度』こそが、最大の脆弱性だ。
私を信じるな。システムを疑え。
今すぐ、その白銀の『ゴミ』を、論理消去しろ」
その発言を聞いたマルヴェイが、楽しそうにキーボードを叩く。
「あはは、王様がお怒りだよ、諸君。
……さあ、まずは『隔離と複製』。事務所のメインサーバーを丸ごとコピーして、M.O.N.Oの銀糸を『偽物の鏡の国』へ放り込む。
……三十分だ。一秒でも遅れたら、君たちのボーナスを『脆弱性』として全額カットするよう進言するよ」
「……っ、了解! スナップショット作成開始!」
「全ドメイン、仮想インスタンスへの複製を並列実行します!」
地下ラボの排熱ファンが唸りを上げる。
レオンの眼前に青白いログが猛スピードで流れ始めた。実体のない事務所が、デジタル空間にもう一つ構築されていく。その進捗を睨みながら、レオンは指先で執務机を力強く叩く。
自分が『洗剤を入れ忘れていた』という致命的なミスを、今、組織全体の暴力的な速度で埋め合わせようとしていた。
「レオン。……君、自分のうっかりを棚に上げたその発言。
……最高に醜悪で、最高にCEOらしい傲慢さで。とても、素敵だよ」
マルヴェイの嘲笑を無視し、レオンはただ、構築されていく『偽りの城壁』を見つめていた。
その瞳には、一四日後の決算という戦場を生き残るための、凄まじい執念が宿っている。
「……完成させろ。
……夜明けまでに、私の『正解』を書き換えるための聖域を作るんだ」
レオンは執務机の上で肘を立て、静かに両手を組んだ。




