第135話:『翡翠の鑑賞 ー 01/29 4:10 執行開始』
第2部:翡翠の鑑賞
一月二十九日 四時十分
地下第一メンテナンス・ラボ。
SREたちの居住区を兼ねた「情報の城」は、サーバーの駆動音だけが低温の脈動のように響く静寂に包まれていた。
コールが途切れる寸前、漆黒の虚空に、翡翠色の双眸が浮かび上がる。
ホログラムモニターが起動し、青白いログの奔流がマルヴェイの白い肌を冷たく撫でた。
「……おはようレオン。こんな時間から、私の脳内を物理的に殴りつけるなんて、随分と情熱的なモーニングコールだね。
……で?何だい。管理官に抱きしめられながら、そんな怖い顔をして」
マルヴェイは寝台に身を預けたまま、だらしなくはだけた黒紗の長袍をまとっていた。
薄い衣は彼の白い肩から滑り落ち、浮き出た鎖骨に冷気が絡みついている。彼が首をわずかに傾げるたび、天井から下がる赤い垂れ幕の先で、魔除けの鈴が「チリ……」と硬質な音を立てた。それは救いの音色というよりは、奈落へ誘う合図のようにも聞こえた。
「……出たな、マルヴェイ。
……遅い。三十回もコールさせるな」
モニター越しに映るレオンの目は完全に据わっている。
それを見つめ、マルヴェイはあくび混じりに、最高に不機嫌で、最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「三十回。……君が私を求めて鳴らし続けた、絶望の回数だ」
「……マルヴェイ。
……M.O.N.Oだ。叔父上の思考をコピーしたAIエージェント。
あいつが、コンサルという名目で事務所のサーバーに『銀の糸』を這わせている……筈、なんだ。
今この瞬間も、叔父上の代わりに私たちの会話を『学習』しているはずだ。
……今すぐ、隔離してほしい」
レオンの静かな訴えに、マルヴェイはわざとらしく眉を上げ、肩をすくめた。
「おや、やっと気づいたのかい?
M.O.N.Oが君の人生を隅から隅まで『インデックス(目録)』化して、いつでも資産を差し押さえられるようオスカル氏のダッシュボードに表示し始めてから……もう何ヶ月経つと思ってるんだい?」
「……っ、知っていたなら、なぜ言わなかった……!」
レオンの怒り混じりの声と共に、レオンの背後にいるヴァルプスはレオンからの負荷を受け取って僅かに眉根を寄せた。
ヴァルプスの腕のこわばりを感じ、レオンはいちど息を吐いてから、ゆっくりと唇を硬く引き結んだ。
「……ああ、知っていたよ。でも、レオン。君がそれを『自分の意志で認識』する前に、私が勝手に消したりしては意味がない。それは君の『システム』を私が汚すことになるからね。
……君が、バグる可能性もあった。
そして何より――オスカル氏に、私の存在を悟られるわけにはいかなかった」
マルヴェイは気だるそうに前髪を整え、レオンを見つめる。
「君がその存在を認識して、私のところへ駆け込んでくるのを待っていたんだ。
……君自身の意志で、叔父上の定義を拒絶する瞬間をね。」
マルヴェイの黒い爪が、空中のホログラムキーボードを愛撫するように叩き始める。
「……まあ、その様子を見るに自力じゃないみたいだけど。……誰が知らせたんだか。忌々しい」
「……どこまで侵食されてる」
「表面上の帳簿(PL/BS)を見られているのは最低ライン。
基金の運用利回りなど「アドバイスのため」という名目でリアルタイム共有……契約の事前検閲にも食い込んでる」
レオンは告げられた事実に、黙って喉をヒクつかせた。
「君の精神にも、銀の糸がどう入り込もうか試行錯誤していたけど、A.I.D.Aが防いでくれてたよ。
……ああ、ヴァルプスさんにはエルフの『精霊演算の静かな侵食』は見えないんだっけ。お気の毒に」
マルヴェイの嘲笑が響く。
レオンの背後で、ヴァルプスの殺気が物理的な冷気となって室温を下げた。かすかにホログラムモニターが滲む。
レオンとヴァルプス、二人の視線を受け止め、マルヴェイはわずかに口角を上げた。
彼らの精神の揺らぎを、最高級の芳香を楽しむように、ゆっくりと鼻から吸い込む。
静かな興奮を隠しきれず、瞳孔が縦へと割れた。
翡翠の奥で、赤黒い腐食の炎がゆらめく。
「……いい目だ。中から生身の絶望が見えてきたね。
……ねえ、レオン。その怒りの半分、ヴァルプスさんに流して彼を壊すのが忍びないなら、全部、私に投棄しなよ。
今なら、特別レートで引き受けてあげるから」
「……マルヴェイさん。あなたを今すぐ、洗濯機に放り込んで最高出力で脱水してやりましょうか」
ヴァルプスの凄む様子に、マルヴェイは目を細めて口の端を歪める。
「おっと、怖い怖い……」
マルヴェイはモニターの向こう側にいるレオンの頬をなぞるように、黒い爪を画面の縁に添わせた。
その指先からは、過負荷となったシステムが発するような、微かな熱い煙が立ち上っている。
「……レオン。命令してごらんよ。
……君の人生を汚したその『白銀の汚れ』を、私と私の部下たちで、どうやって磨き上げてほしいか」
「……十分だ。十分以内に、動き出せ!」
叩きつけられるようなレオンの声を、マルヴェイは鼓膜に流し込まれる蜜のように受け止めた。
彼は満足げに細めた瞳の奥で、高速で流れる思考回路を明滅させる。
「……十分、ね。いいよ。
本来なら、この絶望はメインディッシュに添える最高の隠し味にするつもりだったのに。
つくづく、惜しいね」
マルヴェイは、まるで愛しい恋人の心変わりを嘆くような、甘く、それでいて冷酷な溜息をついた。
「君が自力で気が付かなかったのは計算違いだったけれど……まあいい。
君は、ちゃんとここへ来た。
前菜がこれだけ上質なら、調理のしがいがあるというものだ」
ふわりと、マルヴェイの指先が宙を舞う。
次の瞬間、気だるげな空気は霧散し、翡翠の瞳にビジネス・ロジックの冷徹な光が宿った。
「全ユニットへ、フェイズ・ゼロを宣言。――さあ、お仕事を始めようか、レオン」




