第134話:『負債の覚醒 ー 01/29 4:00 執行開始』
第1部:負債の覚醒
一月二十九日 四時
薄暗い寝室。シーツの擦れる音さえ吸い込むような静寂の中で、執務机に置かれたA.I.D.Aの青い正八面体クリスタルが、音もなく明滅を繰り返した。
レオンは寝台脇の端末を、ほとんど無意識に手に取った。
覚醒しきらない瞳に、液晶の青白い光が、一通の通知とともに突き刺さる。
メールの差出人は知らない名前だ。端末の画面に映し出されたその一文を、レオンは凝視した。
『例の「未計上の棚卸資産」、十四日後の決算に反映させる準備はできてる?
在庫がかなり膨らんでるみたいだけど。
M.O.N.Oが、直接、君の顔が見れるのを楽しみにしてるって』
(……未計上の、棚卸資産……?)
一瞬、CEOとしての事務的な思考が脳をかすめた。だが、その直後。括弧書きの四文字――M.O.N.O――が網膜を焼いた瞬間、全身の血が凍りついた。
(……違う。これは在庫の話じゃない。
……叔父上のAI、Monopolistic Orderだ。
三百六十年前、あの檻の中で私を管理していた、あの演算体が……!)
あの白銀の檻の向こうで、自分を「人間」ではなく「管理すべきモノ(資産)」として演算し続けていた――笑っていた。あの銀色の蜘蛛糸のような演算体。
理解した途端、レオンの指先が目に見えて震えた。
滑り落ちそうになる端末を慌てて両手で握り直し、食い入るように画面を見つめる。
静まり返った部屋に、自分の荒い呼吸の音だけが、異様に大きく響いた。
レオンの精神に刻まれていた、特定の「思考の禁止区域」が破かれた。
無意識に別の思考に逃げるように、脳を調教されていた空白が溢れ出す。
「在庫が膨らんでいる」というのは――
自分がこの数百年で積み上げた努力、その全てが、オスカルの『私有財産』としてインデックス(目録)化され、刈り取りの時を待っているという宣告に他ならない。
(……未計上の負債が、残ったままだった……
……棚卸し不能の、致命的な項目が……)
「……っ、……洗剤……!
洗剤を入れ忘れた……!!」
レオンは小さく叫んだ。
自分の人生という帳簿の隅に、消し忘れた巨大な負債が居座っていたことに、今さら気づいた絶望。
――共依存契約第一条、第三条。それが作動した。
レオンを襲った『落雷』のような驚愕と恐怖は、瞬時にバイパスを通り、その鋭さを伴ったままヴァルプスの核を直撃した。
隣で穏やかな寝息を立てていたヴァルプスの身体が、見えない電撃を浴びたように大きく跳ねた。
「……ッ、ガハッ……!!」
肺から空気を無理やり搾り出されたような、押し殺した悲鳴。
ヴァルプスは脂汗を流し、激痛に顔を歪めながらも、獲物を押さえつける猛禽のような速さでレオンの上に覆いかぶさった。見下ろす瞳は、苦痛に潤みながらも、管理者の冷徹なまでの鋭さを帯びている。
「だ、大丈夫か、ヴァルプス……今の、その……」
「……お気になさらず。
ですが……今の『負荷』、ボクの検閲をすり抜けるほど鋭く、冷たい不純物でした。
レオン……誰が、あなたの凪を汚したのですか」
レオンは震える指で端末を隠そうとしたが、口から出たのはビジネスマンとしての語彙を失った、支離滅裂な比喩だった。
「……お、お洗濯……洗剤、入れ忘れた……!
全部……洗剤なしで回していたんだ……!」
ヴァルプスは、激痛に耐えながら、深く、深く首を傾げた。
「……洗剤? レオン、正気ですか。洗濯は全てこのボクが、寸分の狂いもなく管理しています。
ボクが『忘れる』など、論理的にあり得ない」
「違うんだ! 物理的な洗濯機の話じゃないんだ、ヴァルプス!
エルフには自律型精霊演算回路っていうのがあってね、叔父上の『M.O.N.O』が……!」
ヴァルプスに縋り付いて説明しようとするレオンの肩を、ヴァルプスはゆっくりと抱きすくめる。
「……レオン、落ち着いて。
回路? 道具の話ですか。
そんな箱の中の計算、ボクが力ずくで壊せば済む話ではありませんか?」
「離して、ヴァルプス。お前には分からないんだ、M.O.N.Oの演算が……!
どうして思い当たらなかったんだ!どうして、私は、忘れて……」
レオンはなりふり構わず、自分を組み伏せるヴァルプスの胸を突き飛ばし、シーツを蹴散らしてベッドの端へ逃げようとする。
乱れた髪、潤んだ目。いつも「凪」を装っている姿と違うレオンの様子に、ヴァルプスは荒い息をつきながら追従する。
「……っ、ハァ……レオン、逃げないでください。
……ぐっ、今の衝撃、なかなか……心臓に響きますね」
ヴァルプスはレオンの「拒絶」をまともに受け、苦痛を散らすように胸元に手を当てる。それから、逃げようとするレオンの足首を片手で掴んだ。
「……洗剤だ、洗剤を入れ忘れて三百六十年、回しっぱなしなんだ、この人生は……!」
暴れるレオンの肩を掴み、ヴァルプスが岩のような質量でベッドに押し戻した。その瞳は驚愕を通り越し、深刻なバグを検知した監査官の冷徹さに染まっている。
「……言語野の深刻な汚染を確認しました。
……今すぐ、再起動(調律)が必要ですね」
管理者のプライドと、主を脅かす『演算』への嫉妬が、薄暗い部屋の空気をじりじりと焼き始めていた。
ヴァルプスの長い指が、レオンの項を逃がさぬよう深く沈み込む。そこから流れ込む氷のような魔力は、パニックを起こした脳を強制的に静止させる「調律」の予兆だ。
「……あの不愉快な掃除機を呼ぶ前に、ボクだけに全てを吐き出しなさい」
「いやだ!やめろ……ッ、意識を飛ばすな!」
レオンが目を見開いて唸る様を、ヴァルプスは咳き込みながら見下ろす。
「静かに。……悪い夢は、ボクが全て除去して差し上げます」
レオンの視界がぐにゃりと歪む。脳の芯が静けさに侵食され始める。
意識が混濁し、言葉が霧散しかけ、レオンは視界に入ったヘッドボードを拳で殴った。
ヴァルプスの冷ややかな視線を打ち返すように睨み上げ、レオンは力を振り絞って叫ぶ。
「三秒だ。三秒、私の『論理』を聴け……ッ! 落とすのは、その後でいい!」
その必死な、だが紛れもない決断を孕んだ声に、ヴァルプスの指が止まった。
「……三秒です。どうぞ」
「『洗剤』と言ったのは……比喩だ。
M.O.N.Oによる不可逆的なデータ汚染を指している。お前の『物理的な檻』では届かない深層の汚れを、私は今、見落としていたことに気づいた。
……これはパニックじゃない。生存のための、正確な『棚卸し』だ!」
レオンは荒い息を吐きながら、据わった目でヴァルプスを睨みつけた。
「……私を寝かせるより先に、やることがある。
マルヴェイに連絡を取る。それが今の、最優先の管理事項だ」
静寂が、部屋を支配した。
ヴァルプスは首を深く傾げ、主の瞳に宿る狂気的なまでの「合理性」を凝視する。
レオンの瞳に残る理性を見定めたあと、やがて彼は満足げに喉を鳴らした。
「……なるほど。管理権限の防衛、ですか。
……わかりました」
項から指が離れ、冷たい沈黙が戻る。
レオンは震える手で端末を掴む。
一瞬だけ、その指が止まった。
脳裏にちらつく白銀の糸に、一度ぶるりと肩を震わせる。
ヴァルプスが気遣うようにレオンの肩に手を添える。
そのリアルな感触に、レオンはためらいを切り捨てた。
レオンは地獄の共犯者――マルヴェイへの連絡を開始した。




