第133話:『福利厚生の枕 ー 01/28 21:00 執行開始』
第5部:福利厚生の枕
一月二十八日 二十一時
執務室から続く長い廊下。銀の絨毯が靴底を吸い込み、一歩ごとに足が重くなる。
防弾硝子の向こう、ルテティアの夜景さえも今はただ、疎ましい光の残滓に過ぎない。
ラウンジへ入るなり、レオンはジャケットを脱ぎ捨てた。軽い衝撃音がフローリングに響き、すぐに元の静寂が押し寄せる。
タイを緩めながら進む。暖房の届かない冬の空気が、解かれた襟元から首筋を刺した。
背後で、衣擦れの音さえ立てずヴァルプスがそれを拾い上げる気配がした。だが、振り返る余裕はなかった。
寝室のドアノブを掴む手が、冷えた金属の質感に僅かに震えた。
「……ちょっと、休む」
照明を点ける気力も残っていない。レオンは歩きながら、黒い革靴を片方脱いだ。次の踏み出しでもう片方の革靴も蹴り出すと、吸い寄せられるように寝台へ仰向けに倒れ込む。腰骨がマットレスの深くまで沈み込み、その衝撃で上体が弓なりに反り返った。
重力から解放された安堵感だけが、泥のような眠りを連れてくる。
ヴァルプスはレオンのジャケットを腕にかけ、寝室に滑り込んだ。扉横の壁際に立ち、寝台の上で両手で顔を覆うレオンを静かに見下ろす。
普段ならば、レオンは靴を放り出すような男ではなかった。
(……浮ついているな)
レオンの制御が、ほんの少しだけ緩んでいる。その事実に、ヴァルプスは微かに目を細めた。
管理者としての苛立ちと、抗いがたい興味がその赤い目に混ざり合う。
ヴァルプスは一分ほど、石像のように佇んだ。それから音もなく床に膝をつき、転がる革靴を拾い上げる。次にレオンが起き上がったとき、迷わず足を通せる位置へ。
ミリ単位の狂いもなく靴を揃えると、彼は再び壁際の闇へと退いた。
レオンは動かない。浅い呼吸が胸元を上下させる様を、ヴァルプスは三分かけて数え上げた。
不意に、室内機の僅かな稼働音が静寂を打つ。その微かな振動に呼応するように、レオンが身動ぎをした。
顔を覆っていた手の隙間から、青い瞳がヴァルプスを射抜く。
ほどかれていく指のあいだからあらわれたのは、歪な、けれど確かな意志を宿した唇の弧だった。
それは笑顔でも、無表情でもない。屈服も、勝利も拒絶した、ヴァルプスだけに見せられたレオンの「顔」。
ヴァルプスはその視線を真っ向から受け止め、一刻たりとも目を逸らさなかった。
「……見た、だろう」
レオンの掠れた声が、冷えた空気を震わせてヴァルプスの耳朶を打つ。
ヴァルプスは一度、彫刻のような唇を引き結んだあと、静かに、けれど断罪するように告げた。
「……あれは、祝辞ではありませんでした」
ヴァルプスは腕の中のジャケットを強く抱き寄せた。主人の脱ぎ捨てた抜け殻を守るかのように。
「あれは、命令文です」
言い切るヴァルプスの声には、冷徹な響きと、僅かな熱が混じっていた。
だが、その宣告を受けてもなお、レオンは表情を変えない。ただ青い瞳で、じっと管理者の赤い目を見つめ返している。
あの八行。情動をバグと呼び、愛を檻と定義したあの言葉は、レオンの心に消えない楔を穿ったはずだ。
長い沈黙が部屋を満たした。十秒。あるいはそれ以上の時間が経ってから、ヴァルプスは喉の奥で声を絞り出した。
「……よく読み切られました。あのような、文字列を」
それは称賛であり、同時に、残酷な役割を演じきったレオンへの、ヴァルプスなりの「敬意」でもあった。
レオンは一度目線を揺らしたあと、ヴァルプスを見直して、小さく、ひどく穏やかに笑ってみせた。
「……あれは、必要なことだから」
ヴァルプスの耳に届いた声音は、驚くほど静かで柔らかい。それは自分を、あるいは目の前の「管理者」を労る慈しみのようにさえ響いた。
――だが。ヴァルプスはそこで、音もなく鮮やかな線を引かれた気がした。
「……承知、いたしました」
ヴァルプスは視線を外さず、ただ僅かに、恭しく頭を垂れた。
レオンはその言葉を合図にするように小さく息を吐き、ようやく重い瞼を閉じた。
再び、重い沈黙が室内を満たしていく。
じりじりとした視線を浴び続けているのを、レオンは感じていた。
そっと、瞼を上げる。
ヴァルプスには、動く理由がなかった。
闇の中でヴァルプスの赤い目だけが、消えない残り火のような輝きを湛え、無防備な主をじっと見下ろしていた。
―― ああ、まだ立っているのか。
いつまでも、ヴァルプスは立ち続けている。微動だにせず、ずっと。
そのことを観察した。
奇妙な高揚感が、胸を詰まらせる。
レオンの肩が、微かに震え始めた。
嗚咽か、あるいは堪えきれない感情の奔流か。ヴァルプスがその変化を測りかね、僅かに身を乗り出した瞬間――。
湿った沈黙を破り捨てて、吹き出すような笑い声が室内に弾けた。
「……ふ、は。……なんで、まだ立ってるの、君は」
「え……。いや、それは……」
不意打ちを食らったヴァルプスは、一瞬だけ、言葉を詰まらせた。ほんの微かな負荷が、ヴァルプスの身体を締め付ける。
レオンは上半身を起こし、寝台横のナイトランプを灯す。
暖色系の柔らかな光が、オレンジ色の輪となって寝台の周囲を切り取る。先ほどまでの、闇と残り火のような視線が支配していた重苦しい静寂は、スイッチひとつであっけなく霧散した。
ランプシェード越しに透ける光が、レオンの顔に穏やかな陰影を落としていた。
「……主さまの寝顔を見守るのも、従者の務めかと」
ヴァルプスは、光に目を細めることもなく、掠れた声でそう応じた。
レオンは、そのあまりに「らしい」答えに、シーツの上で指先を遊ばせながら小さく鼻で笑う。
「……殊勝だね。だが、私の眠りは泥のように重い。
君がそこで彫像のように固まっていても、夢見が悪くなるだけだ」
レオンはヴァルプスを見上げながら、シャツの襟もとを広げてみせた。ゆるやかに照らされた褐色の首筋が顕になる。
レオンは首筋を見せつけるように身体を反らす。光の当たる角度が変わり、レオンの側頭部に生えた黒い角が存在を主張した。
「……質疑応答は会場で片付けた。おかげで朝まで、たっぷり八時間も『純利益』が出た計算だ。
……どうだい、この劇的な上方修正。これだけの時間を手に入れた私を、ただの彫像で見張るなんて、あまりに贅沢が過ぎると思わないか?
……今夜は福利厚生を充実させよう。
ヴァルプス、君にもこの『余剰時間』を分けてあげる。
私の隣で、ただの枕になる権利をね」
レオンの声音は静かで穏やかで、しかしとても饒舌だった。
ヴァルプスは手早くレオンのジャケットを片付ける。それから自身のジャケットを脱ぎ、タイを緩めると大股で寝台に一歩近づいた。
床に片膝をつき、レオンを見つめる。
ランプの灯りは、彼の赤い瞳の奥に宿る、忠誠とも執着ともつかない複雑な色をより鮮明に浮かび上がらせていた。
「……触れても、いいのですか?」
「うん」
短く、熱を孕んだ肯定。
それを合図に、ヴァルプスは影を這わせるようにして寝台へと身を寄せた。
レオンの褐色の首筋へ、白い指が、壊れ物を確かめるようにゆっくりと沈んでいく。
……冷えた指先が肌に触れた瞬間、レオンは僅かに肩を跳ねさせたが、逃げることはしなかった。
ヴァルプスは、レオンが自ら計算し尽くしたはずの「純利益」の八時間を、一秒たりとも零さないよう、その体温を確かめるように抱き寄せた。
「……承知いたしました。
……強欲な主さまに、最高の安眠を」
レオンはヴァルプスの胸元でそっと息を吸い込み、安堵のため息を漏らす。
これこそが、彼が今夜、唯一自分の意志で手に入れた「利益」だった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。
※2026年04月04日 バルナザール顧問のビジュアルイメージを『活動報告』に置きました。




