第125話:『檻の中の調伏 ー 01/28 16:00 執行開始』
第2部:檻の中の調伏
一月二十八日 十六時
星読神系統・天球図大聖堂。
重厚な扉が開かれた瞬間、レオンを迎え入れたのは、祈りの静寂ではなく、鉄の匂いと乾いた怒号だった。
「遅い。十五分巻け。機材の搬入経路はA一択だ。
ケイト、床の養生を確認しろ。溶剤の匂いを残すなよ。司祭の鼻は敏感だ」
テツヤの声が、高い天井に反響する。 彼は二十年前の「記録屋の息子」ではない。予算とスケジュールを絶対の法として執行する、現場の調停者だった。
インカムに手を触れながらスタッフとやりとりをする様子を、レオンは戸惑いがちに見つめた。
「……サカグチ」
レオンが歩み寄ると、テツヤは手元のタブレットから素早く目を上げた。
眦のきつい栗色の瞳が、値踏みするようにレオンの足元から角の先までを一撫でにする。
衣装係の手で漆黒のスーツを着せられたレオンは、神聖な大聖堂の静謐を侵食するような、濃密な闇の気配をまとっていた。
「ここは戦場だ、主演。
ふらふら歩き回らないでそこに立って。『檻』の中央だ」
テツヤが指で指し示したのは、大聖堂の中央、光の十字が交差する冷たい石床だった。
そこには、撮影用の美術として、あるいはレオンを閉じ込めるための儀式として、幾何学的な紋様を刻んだ鉄の「檻」が、音もなく鎮座していた。
「——ああ、素晴らしい。
この鉄格子の影が、レオン様の肌に『罪』を書き込む」
影から這い出すように現れたのは、バーソロミューだ。彼はレオンの周囲を踊るように徘徊し、指で作ったフレーム越しにその骨格を舐めるようになぞる。
「西日はまだ高い。
だが、あと一時間もすれば、この窓から差し込む光はすべてを欺く『聖性』に変わる。
……さあ、バルトロメ。君の出番だ」
「……言われなくても、壊してやるよ」
重い足音とともに、白い制服を纏ったバルトロメが歩み寄る。
「……開始だ、レオン。
打ち合わせ通りに行くぞ。
……まずは『支配』からだ」
バルトロメは『白き英雄』として、レオンの前に立った。役柄によって色が違って見えるほど、生気を削ぎ落とした瞳。レオンが視線を合わせた瞬間、その瞳の奥には、自分自身の困惑した表情だけが映り込んでいるような錯覚に陥った。
いまのバルトロメは、完璧な英雄の貌をしていた。温和な微笑みと柔らかな物腰。だが、その白手袋の指先だけは、獲物を逃さない蛇のように、レオンの喉元に冷たく居座り続けていた。
「……レオン……そこが君の位置だ」
バルトロメの手が、レオンの肩を強く押し下げた。
硬い石の床に膝が当たる。その衝撃と、バルトロメの優しい声音が、レオンの脳内に古い『エラー』を呼び起こした。
一瞬、視界がノイズに染まり、レオンは反射的に弱々しい光を宿した青い瞳を作り上げる。そして顔を上げ、バルトロメを見上げた。
バルトロメは愛おしむようにレオンの頬を撫で、その慈しみとは裏腹に、白手袋の指を喉元へ深く食い込ませた。
「もっと、壊れそうな目をしろ。
支配され、同時に魂を削られる、あの無様な絶望だ。
……そうだ、その瞳でいい。いいこだね」
バルトロメがレオンを押し倒した。レオンは身を捩らせ、抵抗を見せる。
バルトロメがレオンの耳元で唇を動かすと、レオンは震えながら自身の首元をバルトロメに差し出した。
褐色の首元に、バルトロメの歯が押し当てられる。レオンの喉奥から、小さな声が漏れる。従順な悪魔の演技に、バルトロメはレオンの肩を軽く押し、チェック完了の合図を送った。
――ギィ、と鉄が軋む音がした。
テツヤが見上げれば、そこには赤い瞳があった。
ヴァルプス。
彼は高所のキャットウォークの手すりに身を乗り出し、下界の光景を凝視している。
バルトロメの指がレオンの肌に触れるたび、ヴァルプスの周囲の空気が物理的に歪み、結露が氷の針へと変わっていく。
大聖堂の温度が、一気に数度下がった。
「……サカグチさん、気温が急降下しています。機材の結露に注意を」
スタッフのケイトが淡々と報告する。テツヤはキャットウォークの「影」を忌々しげに睨みつけ、それから手元の時計を苛立たしく叩いた。
絡み合うレオンとバルトロメの前に立つと、丸めた台本で二人を指し示し、冷ややかに見下ろす。
「……バルトロメさん、ちょっといいですか。
今回は『悪魔役のレオン』と『英雄役のバルトロメ』の絡みですが、直接的な身体接触は最小限に。
押し倒すシーンも、実際には触れず『影』で表現してください」
テツヤは、上空から降り注ぐ冷気を肌に感じながら、低い声で付け加えた。
「……これ以上の物理的な接触は、文字通り死を招くぞ」
「……仕方あるまい」
バルトロメは、レオンの耳朶を噛む寸前で小さく笑い、その身を離した。
テツヤは立ち上がったレオンの衣装を直しながら、インカムのスイッチを入れ、頭上の「影」へと声を飛ばす。
「悪いがヴァルプスさん。魔圧を下げてください。
今練習が止まると、ワンテイクにつき三分のロスだ。その三分で、俺の寿命ならともかく、大聖堂のレンタル代が数万飛ぶ。その差額、あんたのポケットマネーで補填してくれるのか?
……出せないなら、撮影が終わるまでその赤い眼を閉じててくれ。こっちの機材が凍りつく前にね」
耳元に手をあてたヴァルプスはテツヤを一瞥で射抜き、そのままどろりと黒い塊へ溶け、キャットウォークの影に消えていく。
ヴァルプスが気配を断ってから、テツヤはようやく肺の底から息を吐き出した。そして、隣で所在なげに自分を見下ろしてくるレオンに対し、苛立ちを隠さず短く舌打ちをする。
バルトロメは床を乱暴に指差し、レオンを睨みあげた。
「……レオン、時間がない。次は『露出』だ。
……死にぞこないの面をするな! 世界を騙す『聖者』になりきれ」
「……わかった」
レオンの声が、大聖堂の静寂に低く響いた。言われるままにレオンは表情を律し、薄い微笑みを湛えてバルトロメに抱きついた。
一度は離れたレオンの顎を、バルトロメの指が逃がさぬよう強引に上向かせる。
「レオン……安心しなさい。
君のいる場所は、変わらない」
「……ありがとう、ございます」
バルトロメの声が耳朶を震わせ、レオンの視界は白く弾けた。
胸の奥で、プログラムにはない計算外の熱が疼く。演技なのだと脳が警告を発しているのに、その甘い言葉に心がどうしようもなく震えてしまう。
合理化された『CEO』としての仮面が音を立ててひび割れ、その隙間から、かつてのレオンが抱えていた「誰かに縋りたかった孤独」が、潤んだ青い瞳となって溢れ出した。
「……撮れてるね、サカグチ」
バーソロミューが、モニターを凝視したまま、うわ言のように呟く。
「光が嘘をつく必要さえない。
彼自身が、この大聖堂で最も純度の高い『真実』になっている。
……バルトロメのやつ、相当うまく彼を『躾けて』おいたんだね」
「……マジックアワーまで、あと三十分です」
テツヤは一度時計を確認し、ファインダーの向こう側のレオンへと視線を投げた。
バルトロメに心まで委ねるように演技を続けるレオンの姿は、テツヤの記憶にある彼とはあまりに乖離していて、知らない男の横顔を覗き見ているような錯覚に陥る。
無意識に、台本を握る指先に白くなるほどの力がこもった。




