第10話:『初春の影、聖者の在庫』— 救済(資本注入)
※本作品の悪魔は、基本的に全員「スーツ」を着用しています。
第1部:春嵐の貸借対照表
冬の寒さを越えて、ようやく迎えた初春。しかし、安心したのも束の間、三人の旅に試練が迫っていた。
契約の初めの期間が終わり、いわば「見直し」の時期が来たのだ。
悪魔界とのポータル維持費は、今年の気候と共に急騰し、ヴァルプスの魔法端末には、青年の献身だけでは抗えないほど膨大な数字が並んでいた。
春の四半期(Q1)が始まると、悪魔界本省への『魔力的な上納金』の期限が迫る。これは金銭ではなく、ヴァルプスの魔力そのものであるため、彼に逃れる手段はない。
ヴァルプスの指先が、熱を帯びた端末の上で迷子のように動き、何度も画面を見返していた。その焦燥感を、レオンは少し離れた特等席――木陰の入る揺り椅子に身を預け、凪の顔で眺めていた。
レオンはその気配を感じ取る。最初の四半期を乗り越えたことで生まれたわずかな信頼という荷物が、今やヴァルプスの肩を押し潰しそうになっている。
現世での金銭的な問題は解決済だったが、悪魔界へのシステム料となると話は別だ。
ヴァルプスは、レオンを不自由にさせたくない一心で、理性を失い、数字を超えたところで悩み続けているのだ。数字が延々と積み重なり、彼はその重さに息が詰まりそうになった。
「……ヴァルプス、計算が合わないのは、お前が無能だからじゃない。
それに、バルナザールさんの欲深さは、現世の状況などお構いなしだ」
その声には、かつての監獄の中での絶望は微塵もなかった。ただ静かに、隣を歩む者の荷を半分引き受けようとする、穏やかな意思だけがそこにある。
「……季節の、せいですか」
ヴァルプスが掠れた声で繰り返す。端末のバックライトに照らされた彼の顔は青白く、数字という名の魔物に魂を削られているかのようだった。
レオンは揺り椅子を静かに鳴らし、まるで計算された動作のように立ち上がる。その足取りは、現世の重力さえも拒絶するかのように軽やかで、迷いがない。彼はヴァルプスの背後に音もなく立つと、熱を帯びた青年の肩を冷たい指先で軽く叩いた。
「そうだ。現世の春は、悪魔界のそれよりも不安定で、冷酷だ。
お前一人の魔力でこの不安定な変化を乗り越えようなど、春の嵐にひとりで立ち向かうようなものだ」
レオンはヴァルプスの震える手元を覗き込み、端末に並ぶ絶望的な赤字の羅列を、まるで美しい刺繍でも眺めるように目を細めて見つめた。
宝石姫が両手を盆に添えながら静かに入室してくる。
「……レオンさん、ヴァルプスくん。あまり根を詰めないで」
彼女の瞳は、春の陽光を凝縮したように柔らかく澄み切っていた。
ヴァルプスが端末の数字を隠そうとするよりも早く、彼女は卓上の悲鳴のような赤字を、その無垢な視線で包み込む。
「お力になれるなら……私の髪を一房、あるいは爪の先を一つ、素材として提供すればいいのではありませんか?
……だめ、でしょうか?」
慈愛に満ちた、けれどぞっとするほど「個」としての尊厳を欠いた提案。
ヴァルプスが一瞬、言葉を失う。レオンの指先が、ヴァルプスの肩の上で微かに震え、目線が姫に向けられる。
(……姫、君は優しすぎる)
その瞬間、レオンはゆっくりと立ち上がり、静かな口調で言った。
「姫、その綺麗な爪は自身のために取っておきなさい」
レオンは姫から受け取った冷茶のグラスを卓上に静かに置き、そして、微笑みをヴァルプスに向けた。その微笑みには、優しさだけでなく、冷徹な計算が隠れているように見えた。
「……でも、どうすれば……」
ヴァルプスは、震える手で端末を再度確認した。
計算が合わない、その現実に、絶望と焦燥の色が浮かんでいた。
「それでも、この数字をどうにかしないと……」
レオンはその背中を、わずかに見守るように眺めてから、静かな声で言った。
「……ヴァルプス、お前もだ。自分の身を削る前に、まずは私の『荷物』を確認すべきだったな」
少しの間を置いて、レオンの瞳がわずかに揺れる。
「四世紀半も生きていれば、整理しきれないほど『持ち物』が増えてしまうものだ。
……私がこれを持っていることが、お前にとっての『救い』になるのなら、これ以上の使い道はない。」
第2部:凍土に眠る遺物
薄暗い室内。
円卓の上に広がる冷気を帯びた空気の中でレオンは一歩、箱の前に立った。
数百年もの歴史を感じさせるその箱は、ヴァルプスが闇の渦から静かに引き出したものだ。
重厚な木箱の蓋を開けると、煌めく宝石や古びた金細工、さらには異世界からの品々が姿を現した。かつての記憶が詰まった宝物の数々。
レオンの視線が箱の中をさっと流れる。その目に、何もかもが過去と呼べるものに映る。まるでどれもこれも、手放すにはあまりにも大切すぎて、いまさら見るのも怖いほどだ。
「触れても大丈夫なものばかりだが、必要なら声をかけてくれ」
レオンの声には、どこか冷徹で、遠くの思い出を遮るような響きがあった。
宝石姫が一歩、箱に近づき、好奇心で目を輝かせる。
「あら、綺麗……。レオンさん、これは?」
レオンはその言葉に少しだけ視線を向けるが、すぐにまた目を落とした。
「これは、『霜夜の瞳』。北の氷精霊が宿るとされる宝石だ。
これを持つ者は極寒でも生き延びることができる。しかしその代償として、心が冷え切り、感情が薄れていく」
彼の言葉が冷たい空気を切り裂く。まるで、その宝石を使った結果にどれだけ傷つけられたのかを知っているかのように。
その瞬間、レオンの手が一瞬震えた。箱の中の何かが、彼の心を締め付ける。それでも、彼は何事もないかのように、次のアイテムに目を向ける。
今度は、少し小さな瓶を手に取る。瓶の中には、氷晶石が詰まっていた。それは彼が北の果てで見つけたものだが、今は冷たく感じられただけで、もはや心に響くことはなかった。
「これもまた、過去の遺物」
レオンは声を落とし、言葉を続ける。
「冷たいが、使うことはもうないだろう」
そのまま無言で瓶を元の位置に戻す。
その時、ヴァルプスが少しだけ声を上げた。
「レオン……」
「何もかもが意味を持っていたわけじゃない」
レオンはその言葉を遮るように言った。目を細めて箱の中をじっと見つめながら、
「必要なものだけ……選ばなければ」
宝石姫は箱の中身を見守りつつ、少しだけ口を開いた。
「レオンさん、それらの物に意味はあるのでしょう?」
その問いに、レオンはゆっくりと振り返った。目を合わせることなく、彼は低く呟く。
「意味があった。――だが、もう手に入らない」
その声は冷たく、どこか悲しみを隠すように響く。
ヴァルプスが静かに近づいてきた。レオンの心情を少しでも感じ取ろうとしているのだろうか。その視線を感じるも、レオンはどこかでそれを避けるように手を伸ばし、次のアイテムに目を落とした。
「この箱の中で、今の私に必要なものを」
その言葉には、今の自分が「何」を持つべきかを考える、彼なりの強い決意が込められていた。過去の思い出を、そして手放すべきものを、静かに選別していく。選ぶこと、それが彼にとっての「成長」であり、今の自分にとって最も必要な一歩なのだと、自分に言い聞かせているように。
少しだけ彼の指が震えた。しかし、もう二度と振り返らない決心を固めたように、レオンは箱の中身を一つ一つ丁寧に整理していった。過去と別れ、そして未来に進むために。
第3部:血色の祝杯、断絶の痛み
レオンは慎重に、壊れ物を扱うような手つきで、箱の中からひときわ重厚な瓶を取り上げた。
瓶の中で静かに波打つ赤い液体は、西日に透けて血のように深紅に輝いている。かつての彼ならば、その輝きに勝利の悦挙を重ねただろう。しかし今のレオンにとって、その色はただ冷徹で、手の届かないほど遠い記憶の残滓にしか見えなかった。
「……ヴァルプス」
レオンの声は、瓶の重みに耐えかねているかのように低く、微かにかすれた。瓶のラベルを見つめるその瞳には、迷いの色が色濃く滲む。
「これは『血色のワイン』。百年ほど前、苛烈な戦を終えた際、その勝利を祝うためだけに詰められたものだ」
ヴァルプスは一瞬息を呑み、言葉を失った。戦の終わり。勝利の祝杯。それが意味する歴史の重みを、悪魔である彼は肌で感じ取ったのだ。
「これを手に入れるために、どれほどの時と血が流れたか。
……かつての私にとって、これは未来を祝うための希望だった。だが――」
レオンは言葉を切り、深く、重い息をついた。瓶の口を封じる蝋に指をかけるが、その指先は止まったままだ。脳裏をよぎるのは、栄光に酔いしれた日々。しかし、今の生活において、その栄光は何の役にも立たない。
「今の私にとって、この輝きは何の意味も持たない。ただの『過去』という名の重荷だ」
静かに言い放ったレオンの声には、自らに言い聞かせるような残酷な響きがあった。背負うべきではないと理解していても、長い旅路の一部を切り捨てる痛みが、彼の内側を静かに削っていく。
ヴァルプスは、そんなレオンの横顔をじっと見守っていた。普段は飄々として、北極星のように揺るがないレオンが、一本のワインを前にして震えている。その痛みを感じ取ろうとするかのように、ヴァルプスは静かに口を開いた。
「レオン。……それを手放すべきか、それともこの場で飲み干してしまうべきか。
あなたは今、それを選ぼうとしているのですね」
レオンは無言で瓶を揺らした。冷たいワインが揺れるたび、かつての自分が鏡のように映り込む。
「……そうだ、ヴァルプス。
決めかねている。これを捨てて数字に変えることが、本当に正しいのかどうか」
その言葉は、冷徹な経営判断を求めているようでいて、どこか縋るような温かさを帯びていた。ヴァルプスは深く息を吸い、相棒として、そして「経営者」の端くれとして答える。
「レオン、それはあなたの決断です。過去を切り捨てることが、未来のあなたにとっての『最善』だと信じるなら……ボクたちはそれを受け入れます」
レオンはしばし目を閉じ、深い沈黙に身を沈めた。やがて、彼は決し、静かに、けれど迷いのない動作で瓶を箱の定位置へと戻した。
「そうだな。過去を抱えすぎれば、この現世の春を越える前に足を取られる」
その言葉に、軽薄な意味は一つもなかった。断絶。それは彼にとって、自らの一部を殺すに等しい行為だった。レオンはふと、隣で静かに佇む宝石姫へ視線を向けた。彼女の澄んだ瞳には、レオンの心の震えがすべて映し出されているようだった。
「姫……。私がこうして、過去の栄光を売り払うことを、あなたはどう思うだろうか」
自分自身の選択を肯定するための、最後のひと押し。宝石姫は穏やかに微笑み、レオンの手に、自らの涼やかな手をそっと重ねた。
「レオン、過去を手放すことは、それを否定することではありません。
……むしろ、あなたが『今』を大切にしようとしている証です。未来へ進むために必要な、とても美しい取捨選択だと思いますわ」
姫の言葉は、春の暖気に晒されたレオンの心に、心地よく染み渡った。迷いが、霧が晴れるように消えていく。
「そうか……。美しい、か」
レオンはゆっくりと瓶の蓋を指先で確認し、箱を閉じる決意を固めた。指先が一瞬だけ震えたが、それは過去への未練ではなく、新しく踏み出す一歩への武者震いのようなものだった。
レオンは瓶を手にしたまま、しばらく動けずにいた。指先が震え、瓶のラベルをじっと見つめていたが、何も言葉を発しなかった。やがて、ゆっくりと瓶を箱に戻すその手が、まるで何かを背負うように重く感じられた。
「……これでいい」
その言葉は、あまりにも淡々としていて、心の中の痛みが溢れることを避けるように響いた。けれど、その指先がほんの一瞬、止まった。箱を閉じかけ、何かを決意しきれないかのように、レオンの瞳に僅かな陰りが差す。その一瞬、彼は過去の栄光を手放すことの痛みを抱え、さらにそれを次の一歩へと昇華させるために、心の中で何度も繰り返し問いかけていた。
「でも、まだ…少しだけ痛いな」
その言葉は、まるで心の奥底から絞り出されたようだった。
宝石姫はその言葉に、静かに応じる。
「それでも、あなたは前に進もうとしている。それでいいんです」
レオンはしばらく無言で、箱の蓋をじっと見つめた後、静かに閉じた。重厚な音が室内に響き、過去の一章が静かに仕舞われた。過去を捨て、利益を取り、そして未来の道を守る決意を胸に。
「でもこれで本当に足りるかな……」
ヴァルプスがその不安を漏らすと、レオンは冷静に顔を上げ、口元にわずかな微笑みを浮かべた。
「足りなくても、私がなんとかする」
その言葉には、迷いも躊躇も感じられなかった。あくまで理性的に、そして確固たる自信をもって放たれた一言。
こうしてヴァルプスは、静かに確信を持ちながらも、未だに消えぬ危機感を胸に、魔王本社という戦場へ向かう準備を整えたのだった。
第4部:魔王本社、傲慢なる決算報告
悪魔界、魔王本社、バルナザール執務室。
重厚な黒檀の机を挟んで向かい合うバルナザールは、傲慢な微笑みを浮かべながら、ヴァルプスが提出した魔法端末の「真っ赤な数字」を見つめていた。
「……で、ヴァルプス。この目も当てられん赤字の羅列、どう説明するつもりだ?」
バルナザールの指先が、端末上の『ポータル維持費:前月比140%増』という項目を叩く。
「現世の魔力インフレに伴うライセンス料の未払い。
これは我が社の債権回収規定に抵触する。支払い能力がないと言うなら、即刻、不良債権と化したレオン・ド・ラ・ノワールを悪魔界の底に回収し、その霊魂を解体して資産を補填するが?」
ヴァルプスは深く頭を下げ、冷や汗を拭うこともせず、静かに自身の影から「あの瓶」を取り出した。
「……滅相もございません、父上。数字の件は、すべて計算通りです。
現世の過酷な環境を逆手に取り、レオンの『固定資産』を流動化させ、ついに『これ』を吐き出させました」
バルナザールの眉がピクリと動く。ヴァルプスが恭しく掲げたのは、深い闇を湛えた『血色のワイン』だった。バルナザールは椅子を鳴らして身を乗り出し、瓶をひったくるように奪い取った。
「ほう……。奴が肌身離さず持っていた勝利の証か」
バルナザールの目に一瞬の興奮が走る。その目つきは冷徹ながらも、どこかに熱を帯びていた。彼の過去、彼がまだ若き悪魔だった頃の記憶が脳裏に蘇る。その時、かつての支配者たちは「過去の栄光」を手に入れることが、支配力の象徴だった。バルナザールもまた、その価値を知っていた。
「レオン・ド・ラ・ノワール。あの英雄が保持していた『勝利の証』。
私も若い頃、かつて数多の悪魔界の支配者たちが、熱きディベートで『過去』を引き裂き、求め合った。
これこそが、悪魔界における真の支配の証だ。過去の栄光を制する者が、未来を制す。
だが、レオンはそれを切り売りしてしまったか…」
バルナザールは瓶を見つめながら、再び冷ややかな笑みを浮かべた。
「……あの頃を思い出すな。
私もかつては、この血色のワインを手に入れたくて、どんな手段でも使った。そして、あの時、私はその『勝利の証』を手にして、次の時代の支配者となった。
だが、レオンは違う。彼は自らの過去を捨て、そしてそれを現世に持ち込んでしまった。
それこそが、弱体化の証であり、今の私にとっては、あれが彼の終焉の兆しに見える。」
ヴァルプスはその間も言葉を続けた。
「はい。四世紀半の執着、騎士の誇りそのものです。
父上、これ一本の魔力的市場価値は、悪魔界オークション『ヘルスカー』の昨年度落札相場に照らせば、現行の未払いライセンス料の三倍、数四半期分の予算を優に上回ります。
これはボクのQ1上納金の3.2倍相当となります。
さらに、これは単なる液体ではありません。
かつての英雄の『勝利の記憶』が封じられた唯一無二の触媒です。
競合他社の幹部連中が喉から手が出るほど欲しがる、
極めて政治的価値の高い戦略的資産……
もしこれを他社に流せば、父上の支配領域に大きな影響が出る可能性もあります」
バルナザールは封蝋を舐めるように見つめ、鼻で笑った。
ヴァルプスは冷静に、かつ狡猾に言葉を重ねる。
「レオンは今、現世での平穏を繋ぎ止めるために、自らの過去という『資本』を削り始めました。
これは奴の弱体化、すなわち支配の完成を意味します。
ですから今回の上納金は、この『現物支給』をもって相殺とさせていただきたく。
……さらに、経営合理化の提案がございます、父上」
「まだコストを削るつもりか」
「奴はもはや過去を切り売りする抜け殻。
現状の『特級監視体制』はオーバースペックです。
監視ランクを一つ下げ、浮いた管理コストを現世での『新規開拓(魔力ロンダリング)』の初期投資に回す許可を。そうすれば、Q2の報告書では魔力に依存しない純利益をお見せできるでしょう。
これは、完全なる勝者となるためのポートフォリオの再編なのです」
沈黙が執務室を支配する。バルナザールはワインの瓶を机に戻すと、冷ややかな笑みを宿らせた。
「……口の減らんガキだ。だがいいだろう。
この資産の市場価値と、お前の言う『政治的リターン』の可能性に免じて、今期の赤字は不問にしてやる。監視体制のダウングレードも承認しよう」
バルナザールは目を細め、獲物を定めるような視線をヴァルプスに突き刺した。
「だがヴァルプス。これは『融資』だ。Q2で期待以上のROIを示せなければ、次はワインでは済まん。
……お前の影という名の『担保』、そのものを没収(差押え)してやる」
ヴァルプスは深く息を吸い、その冷徹な宣告を真っ向から受け止めた。その目に一瞬の躊躇もなければ、言葉に一切の感情もない。
「……御意。期待以上の『地獄(成果)』をお見せしましょう」
第5部:琥珀の熱、嘘と奇跡のロンダリング
現世の邸宅では、午後の日差しを遮る厚いカーテンが、室内を深い影で満たしていた。
レオンは独り、ソファの奥に深く身を預けていた。
直射日光を避けたその場所は、まるで彼のためだけに用意された揺り籠のようだ。
彼の指先には、一つの琥珀が握られていた。太古の記憶を閉じ込めたかのような、透き通った黄金の玉石。
レオンはそれを柔らかな絹の布で、恐ろしいほど丁寧に、そして慈しむように磨き上げていた。
その唇から零れたのは、ヴァルプスや姫に向ける微笑みよりももうすこし昏く淡い微笑みだった。
磨き上げられた琥珀が、薄暗い部屋でわずかな光を拾い、レオンの瞳に金色の光を投げる。
彼はその滑らかな表面に、愛しい者の肌に触れるかのように、そっと自身の唇を寄せた。
触れるだけの、羽毛よりも軽い口づけ。
その時、空間が歪み、室内の影が激しく波打った。
「ただいま、戻りました」
ポータルから這い出すようにして現れたのは、すこし疲れた表情を滲ませたヴァルプスだった。
悪魔界の冷徹な査定に晒され、精神的にも魔力的にも摩耗しきった彼は、そっと前髪を撫でつける。
レオンは、琥珀から唇をゆっくりと離した。 ただ、視線だけをヴァルプスへと向ける。その青い瞳には、先ほどの甘美な熱の残滓がまだ揺らめいている。
「おかえり、ヴァルプス。……影が少し、薄くなっているな」
レオンの声は優しく、そして残酷なほどに穏やかだった。
そのレオンの表情——見たこともないほど甘く、満たされた顔を見て、ヴァルプスは胸の奥を小さな棘で刺されたような感覚を覚えた。
自分には決して向けられることのない、その「純粋な愛」の眼差し。
ヴァルプスは、レオンが手にする琥珀に、ほんの少しだけ……言葉にできない羨望を感じずにはいられなかった。
「……父上とは、話をつけてきました。Q2まで、時間は稼ぎましたよ」
「そうか。よくやったね」
レオンは満足げに頷くと、ようやく琥珀を懐に仕舞い、立ち上がった。
ヴァルプスに歩み寄るその足取りは、先ほど琥珀に口づけを捧げた男と同一人物とは思えないほど、背筋を伸ばした誠実な青年に戻っていた。
「……冷えている。悪魔界の冷気は、お前の影を芯から凍らせてしまったようだね」
その声音には、先ほどの琥珀に見せた昏い熱など微塵も感じられない。あるのは、ただ純粋な、家族を案じるような「誠実な青年」の響きだけだった。
「待っていなさい。今、君を温めるお茶を淹れてあげよう」
レオンは軽やかな足取りでキッチンへと向かった。 やがて室内には、悪魔界の淀んだ空気とは無縁の、現世の豊かな茶葉の香りが広がり始める。 運ばれてきたのは、琥珀色に輝く最高級の紅茶だ。それは奇しくも、先ほどレオンが唇を寄せた石の色と同じ色をしていた。
「……ありがとうございます。レオン」
ヴァルプスは差し出されたカップを両手で包み、その熱で凍りついた影を溶かしていく。
一口含み、一息つくと、彼は表情を引き締め、手元の魔法端末を起動させた。
「……さて。感傷に浸っている暇はありません。
父上に『影』を担保にした以上、Q2の数字を確実に作らなければ。
ライセンス料の減免は勝ち取りましたが、それでも魔界ポータルの安定化には……」
ヴァルプスがビジネスモードの早口で今後の戦略を語り始める。 だが、レオンはそれを手製のクッキーを添えることで遮った。
「落ち着きなさい、ヴァルプス。……数字を作る方法は、もう決まっている。
お前がバルナザールさんを騙して稼いだ『3ヶ月』という自由を、私は無駄にはしないよ」
レオンはソファに戻り、優雅に足を組んだ。その眼差しは、先ほどの琥珀の熱を完全に封じ込め、ヴァルプスの「野心」を焚きつけるような、静かな光を宿している。
「バルナザールさんは、私が『過去』を売ったことで、私を『牙を抜かれた抜け殻』だと思い込んだ。
……なら、その思い込みを最大限に利用しよう。
Q2では、私が四世紀半かけて培った『いらないガラクタ』を、現世の連中に『奇跡』として売り飛ばす。
魔力ではなく、現世の莫大な『富』と『信用』を積み上げ、それを悪魔界のレートで逆流させるんだ」
ヴァルプスはソファに座り直し、クッキーを口に運ぼうとしていた手を止め、呆然とレオンを見つめた。
「……つまり、現世での『聖者としてのブランド価値』を、悪魔界への『貢ぎ物』にロンダリングすると?」
「言い方が悪いな。私はただ、お前を消させないために、少しだけ現世に私の名声を還元するだけだよ」
レオンは微笑む。その微笑みは、完璧に「まっとう」で、非の打ち所がないほど美しい。 ヴァルプスは、その完璧な「猫」の下に潜む、琥珀を愛でる時の「本性」を思い出し、喉の奥を熱くした。
「さあ、ヴァルプス。
お前のその優秀な頭脳で、どうすれば君の上司が『これは価値がある』と腰を抜かす報告書を書けるか。一緒に練るとしよう。
……お茶は、まだお代わりがあるからね」
ヴァルプスは目の前の端末を見つめながらも、次第にその手が動く速度が遅くなっていった。
レオンの言葉が、心の中で何度も反響している。どこかで、彼の言う「奇跡」とやらが、現世と悪魔界をどうつなげるのか、まだ完全には掴みきれていない。
「……本当に、それでいいんですか?」
ヴァルプスはふと、レオンに視線を投げた。
静かな疑問と、ある種の憂いを込めたその問いに、レオンはしばらく黙った後、ふっと微笑んだ。
「本当に、どうでもいいことさ」
レオンはそう言って、くつろぐようにソファに身を預けた。
「でも、君の考えた報告書でバルナザールさんが腰を抜かした瞬間は、きっと見逃せない」
ヴァルプスは再び、その穏やかな微笑みに目を奪われた。まるでこれまでの厳しさや冷徹さが、全てその一瞬に溶け込んでいくようだった。
「その『腰を抜かす瞬間』、期待してもいいんですか?」
Q2の数字が……」
僅かな逡巡がヴァルプスの瞳を揺らす。
「私がいる。お前は休め」
レオンは、まるで不意にふと思い出したように、手に持っていたカップを少し傾けた。その沈黙が、ヴァルプスには長く感じられた。
「……それとも、君のために『温めるお茶』を、もっと淹れてあげたほうが良かったかな」
ヴァルプスは僅かに目を見開き、クッキーを咀嚼していた口の動きを止める。じっとりとした甘みが舌にへばりついた。
静かに、そして静かに、室内には二人だけの空気が流れていた。
「……いいえ。十分すぎるほど、温まりました」
ヴァルプスはそう答えると、カップに残った紅茶を飲み干す。気合を入れるかのように決然と端末のキーを叩き始めた。
画面の光に照らされた彼の横顔には、もはや悪魔界から戻った時の悲壮感はない。あるのは、自分を救うために「奇跡」さえも安売りしようとする主への、狂信に近い情熱だった。
レオンはそれを見届け、満足げに目を閉じる。
窓の外では、初春の夜の帳が下りようとしていた。
Q2。それは聖者が現世を欺き、悪魔が数字を弄ぶ、嘘と奇跡の萌芽の季節。
懐の中で、体温を吸って熱を帯びた琥珀が、静かに鼓動しているような気がした。
(ヒュームの教えが、今も私を縛っている……いつ手放せるかな)
過去のすべてを手放したわけじゃない。
ただ、一番大切なものは、
今も自分の胸にしまっておくことにした。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。




