『完璧な業務:降伏点への同調』④
第4部:帰還
次元境界での濃密な二週間を終え、戦闘訓練、寝技の研修と同僚親睦会で頭が飽和したまま、ヴァルプスは現世の「今」に着地する。
猛烈な浮遊感と共に、ヴァルプスは現世へと滑り込んだ。
悪魔界とは違う、水気を含んだ冬の空気が肺に流れ込み、ヴァルプスは小さく咳き込む。バルナザール宮殿の熱気は、もう遠くにある。
「……っ、……帰ってきた……」
重い瞼を持ち上げると、窓の外は薄く白み始めている。
室内は静かだった。
暖炉の火は消えたばかりのようで、燃えた薪の煙が微かに漂っていた。
ふと横を見ると、椅子に座った影。膝に置かれた古びた魔導書、毛布を頭から被ってなお、微かに震える肩。レオンだった。
ヴァルプスが足を動かすと、レオンの瞳に鋭い光が宿り、安堵の吐息が漏れる。
「……戻ってきたのか」
レオンはくん、と鼻を鳴らした。ヴァルプスの胸元に顔を寄せる。それから、まるで猫が臭いものを嗅いだときのような顔をした。
「なんだか、臭い」
ヴァルプスはスーツの肩口に鼻を寄せる。
自分の衣服から漂う微かな他人の気配。果実酒の香りと、知らぬ悪魔たちの微かな魔力の残滓。
「すみません、不快にさせましたか。……あとで着替えて、風呂に入っておきます」
レオンは毛布を頭からかぶったまま立ち上がり、青い瞳でヴァルプスを射抜いた。
「……遅い」
ヴァルプスは真顔で返す。
「寝る前に、朝方には戻るとお伝えしていたと思います。手紙も、テーブルに置いてあったかと」
「……そうだったな」
レオンは前髪を片手でかきあげたあと、足早に寝台に近づき、そのまま羽毛布団を頭から被って丸まった。
「寝る」
「あ……レオン」
「……なに」
名前を呼ぶとレオンはすぐに布団から顔を出す。
「悪魔界で研修を受けてきたのですが。――ここで実行に移させていただいても?」
「……わかった」
布団から褐色の手がにょきりと出てくる。
「手に触りますね」
ヴァルプスは寝台の脇で床に膝をつき、差し出された手を壊れ物を扱うように掴んだ。頭の中に、研修で学んだ手順が浮かんでくる。
「魔力操作の手順を、行います」
指先からレオンの血流を微細に感じ取り、0.5Hz刻みで心拍を微調整する。触れた瞬間、温かさが徐々に内側から広がり、体の緊張が薄皮のように剥がれていく感覚。
魔力の波紋伝達――指先に蓄えた微量魔力を、触れた皮膚に点として落とす。すると、触れた場所から小さな光の波紋が広がるように、筋肉と神経を伝い、レオンの全身に微振動と温かさが伝播していく。そのまま手のひらから腕へ、肩甲骨、胸郭に波紋は広がっていく。
「……ん」
レオンの喉が鳴る。いつもならヴァルプスの指が手に触れるたび、反射的に硬直する男が、好奇心を浮かべた瞳でヴァルプスを見上げた。
「……君の指。今日はいつもより……あたたかい……気がする。これを学んできたの?」
「如何ですか。不快な気分でしたら仰ってください」
「いや。問題ない……不快では、ない」
ヴァルプスはレオンの手首に親指をあて、彼の脈拍を測りながら魔力波紋を微調整した。
「……ヴァルプス」
「はい」
「君も、悪魔界まで行ってきて疲れただろう。……一緒に寝よう」
「ボクは臭うようですので、後ほどご一緒しますね」
「いや、いい。もう気にならない」
レオンは手を動かし、ヴァルプスの指をゆるく握り直した。何かを言いかけるように口を開いて、そのまま重い瞼を閉じた。
ラウンジでの悪魔たちの言葉を思い出しながら、ヴァルプスはレオンの顔を見て、淡く微笑んだ。
窓の外、現世のしんしんと降り積もる雪は、あの止まった次元境界の結晶のように、静かに、そして冷酷に二人の朝を支配し続けていた。
※本作は、noteにて先行公開していた記録のアーカイブ版です。
※2026/05/21 大幅修正をしました。
※2026/09/25 大幅修正をしました。




