第122話:『監査済みの静寂 ー 01/27 12:50 執行開始』
第7部:監査済みの静寂
診察室の重厚な防音扉が背後で閉じると、そこには病院という概念を拒絶するような、広大な静寂が広がっていた。
天井高十メートル。一面の硝子窓からは、首都ルテティアの街並みがミニチュアのように見下ろせる。
床に敷き詰められた最高級の黒の大理石は、歩く者の足音さえもデータの一部として飲み込んでいくように音を吸った。
その空間の真ん中。
エティエンヌは座ることもなく、彫像のように立っていた。
身体を包み込むような白のラウンジチェアが点在するロビーで、ただ一人、着席を拒む存在として。
「……随分と長く、内側を磨いていたようですね。CEO」
エティエンヌは白手袋の指先を整えながら、冷ややかな声を飛ばす。
そのブルーグリーンの視線は、レオンの横で「DX化コンサル」の機材ケースを抱え直すベルとリンに向けられていた。彼の瞳はすべての事象を疑っている。
レオンは、身体を椅子に深く沈めた。空腹で研ぎ澄まされた感覚が、椅子の革の冷たさを過敏に拾い上げる。
「……ああ。
君の言う通り、規律に背く食事は、私には毒すぎたようだ……」
レオンが投げやりに笑うと、ヴァルプスが音もなくエティエンヌの前に進み出た。
手元の魔導端末から、一筋の青い光がエティエンヌの持つタブレットへと転送される。
「……国家監査官提出用、レオン・ド・ラ・ノワールの最新バイタル・ログです。
一点の曇りもない『健全な資産』であることを、Dr. ゼロスが証明しました。
……ご確認ください」
エティエンヌは無言でデータを開く。
そこには、ベルが過去のデータを元に練り上げた「理想的なCEO」の数値が並んでいた。
適度な疲労、完璧な血圧。
エティエンヌは眉を僅かに動かし、納得のいかない表情でデータをスクロールする。
「……フン。出来過ぎたスコアだ。
……不浄なパケットが」
スクロールを続けていた白い指先が、止まる。
「一滴も混じっていないと?」
「……私の管理下に、不純物は存在しません」
エティエンヌは忌々しげに端末を閉じると、レオンに視線を戻した。
レオンはエティエンヌに笑顔を浮かべてみせる。僅かな疲れを滲ませる笑顔。それを見たエティエンヌは軽く唇を噛み締めた。
責める理由は、もうなかった。
「……いいでしょう。今回はこれで引き下がります。
……その『完璧な数値』を維持し続けられるよう努めてください。
我が国のために」
エティエンヌは真っ白なマントを翻し、大理石の床を一度も鳴らさずに去っていった。
静寂が戻る。
レオンは椅子の背に頭を預け、長い溜息を吐き出した。
遠くで微かに魔導昇降機の到着音が鳴る。
「……やっと行ったか。
……ヴァルプス、今の私に、国家予算よりも価値があるものは何だと思う?」
ヴァルプスは主の耳元に寄せ、慈しむような、しかし事務的なトーンで答えた。
「……十三時を回りました。
……今のあなたには、一切れのパンのほうが、この連邦の全資産よりも価値があるはずです」




