第116話:『黄金の鼓動 ー 01/27 6:10 執行開始』
第1部:黄金の鼓動
「……A.I.D.A、タイマーをセットして」
『了解、マスター・レオン。
空腹による集中力低下を考慮し、最短の負荷を設定します』
一月二十七日、午前六時十分。
世界経済の心臓部を動かす男は、夜着のまま薄いマットレスの上で静かに、そして厳かに伏せた。
腕に力を込め、一度だけ、ゆっくりとマットレスを押し返す。
『完了。
……目標達成を確認。心拍数の安定、および自己肯定感の微増を検知しました。
いいかんじです、マスター・レオン』
青い正八面体クリスタルの横に、ホログラムの親指がぽんと表示される。
それが消えると同時に、クリスタルがくるりと宙を舞った。
レオンは顎に手をあて、満足げに頷いた。
「……フッ。今日という日は、この一歩から始まるのだ」
その背中に、クローゼットから最高級のスーツを取り出したヴァルプスが、凍てつくような声を浴びせる。
(……一回やるだけなのに、なぜこれほど物々しい……)
ヴァルプスは誇らしげな視線を向けるレオンにスーツをあてがい色合いを確かめながら目を細めた。
深夜三時過ぎ、演技訓練を終えて寝室に滑り込んできたレオンに宥められ、流されるまま添い寝をして朝を迎えた。
その納得しきれない思いが、レオンの笑みに難癖をつけたくなる。
「一歩ではなく一回ですね。
レオン、その無意味な儀式が終わりましたら、その栄養ゼリーを胃に収めてください」
レオンは超高効率ゼリーを、最高級のワインでも味わうかのような優雅さで喉に流し込んだ。
「……ふむ。効率的だね。
……余韻が全くないのが、このゼリーの美徳だ」
実際には、味覚の受容体が「無」を検知して抗議の声を上げているが、彼はそれを無視した。
「本日の予定は十一時よりLVAにて健康診断。終了は十三時予定。
担当はDr. ゼロスです」
ヴァルプスが淡々とスケジュールを読み上げる。
「検診データは、テーラー・バベルへの生体データ転送……。
……そして、国家監査官に『鋼の意志を持つ健全なCEO』という虚像に加工して渡します」
ヴァルプスは、レオンの喉元で完璧なノットを作り上げると、満足げにその襟元を叩いた。
「おめでとうございます。あなたの鼓動一つが、今朝も数千万の経費に化けましたよ」
レオンは空になったゼリーのパウチを指先で弄び、静かに笑った。
「……私の心臓は、随分と金食い虫だな。
上場審査(IPO)の際は多忙を理由に「後日受診」として押し通したから……正確に測られるのは久しぶりだな。
……で、ヴァルプス。今日、この高価な鼓動を『不測の事態』から守るのは誰だ?」
ヴァルプスは視線を端末から外さず、淀みなく答える。
「本日の随伴は四名。部隊より、K、L、B、そしてGを選出しました。
既にLVAの地下駐車場、および六十階の緊急脱出口を完全掌握させてあります。
施設の基幹ネットワークは、すでにCISOマルヴェイが掌握していると連絡を受けています」
レオンの眉が僅かに動く。ヴァルプス部隊の中で、「逃がす」ことに関しては右に出る者のいない者たちだ。
「……彼らか。久しぶりに顔が見れるね」
「そうですね。
あなたが空腹のあまり情けない声を上げる前に、彼らがあなたを物理的に『隔離』し、事態を収束させるでしょう」
ヴァルプスが冷たく微笑む。その言葉と同時に、部屋の影が僅かに揺れた気がした。
※健康診断回です。




