第106話:『聖典の領受 ー 01/26 15:50 執行開始』
第3部:聖典の領受
バルナザールは、手渡された封筒を、まるで壊れやすい魂を扱うように両手で包み込んだ。
指先に残る思い出の香油。その冷たくも懐かしい香りが、大悪魔の論理回路を音を立てて焼き切っていく。
金曜日にレオンから事務的なメールをもらった不満も、レオンが破天荒な承認を繰り返したことも、夜中にどこかに姿を消したことも。
もはやバルナザールにはどうでも良くなっていた。
「……私を、これほどまでに“縛る”とは……っ!」
(……ちがう。感謝の気持ちだ。会場の手配、本当に助かったんだ……!)
レオンは、バルナザールの黄金の瞳が、歓喜と執着でドロドロに溶け出していくのを間近で見て、本能的な危険察知に総毛立った。
魔圧によって酸素が焦げ、肺が熱い。助けを求めるように視線を泳がせていると、それを見たメイが冷徹に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「顧問。CEOはこれにて、本日の『概念の登記(お気持ちの表明)』を終了いたします。
……その書状の開封は、お一人で、静かな場所で行うことを強く推奨します。
……法理的な『独占権』は、その紙面に宿っておりますので。
第三者の介入は、権利侵害に該当します」
メイの、もっともらしい「法理的嘘」が、バルナザールの背中を無慈悲に押し出す。
バルナザールは、致命的な過負荷に思考を焼き切られたように、ふらりと立ち上がった。
手の中の封筒を、生涯にわたる独占契約書を慈しむように、慎重に胸元へと収める。
「……あぁ。……分かっている。
……レオンくん。……次は、直接。その喉から、私への『追記(追加発注)』を聞かせてもらうぞ……。
私のポートフォリオ(支配下)において、君は最も代替不可能な資産なのだから……」
バルナザールは、煤を撒き散らすことも忘れ、過大な利得に思考回路をショートさせた足取りで執務室を後にした。
廊下に出た瞬間、彼は封筒に深く鼻を寄せ、過去の残香を肺の奥まで吸い込み――そのまま、自らの執務室という名の深淵へと消えていった。
重厚な扉が閉まり、電子錠がガチリと噛み合う。
静寂。
「……助かった……」
「……CEO。お疲れ様でした。
……これで、当面の間、顧問はあの『決算会場手配の謝礼及び案内状』を至高の聖典として読み解くことに没頭するでしょう。
……二月の決算における、顧問派閥への『配当』の交渉などは、リモートで十分です」
メイが、勝利の微笑を浮かべて、眼鏡をクイと押し上げる。
ヴァルプスが、影の中から、結露した冷たいリンゴジュースを差し出した。
「レオン。きっと顧問は、あの手紙の『筆跡の震え』すらも、自分への葛藤の証だと定義しますよ。
……お見事でした。……さあ、少し休みましょう。バイタルが乱れています」
レオンは、差し出されたヴァルプスの手を握り、息をついた。手を握っているはずなのに、温度を認識するまで一拍かかる。
薄荷の冷気が消えた口内には、もう、恐怖の味は残っていなかった。
――代わりに、何もなかった。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




