第100話:『監査ユニット ー 01/26 14:00 執行開始』
第2部:監査ユニット
一月二十六日 十四時
レオンは執務机の前で深く目を閉じ、自身の輪郭を「CEO」という型に押し込めていた。
右手の小指には、ヴァルプスの影が冷たい糸のように巻き付いている。
「バイタルを直接監視させろ」――それが、オスカルとの致命的な契約を隠し通すために、ヴァルプスに差し出した唯一の妥協点だった。ドクン、と小指を通じて脈動が共有されるたび、隠し事が皮膚の下で疼く。
頭上では、A.I.D.Aの青い正八面体が無機質な光を放ち、背後ではメイが巨大なホログラムの六法全書を、まるで後光のように展開している。
準備は整った。
法と演算、そして「死者の祈り」の香りを纏い、レオンは目を開く。
「……十四時だ。通してくれ」
その一言を合図に、重厚なオークの扉が、獲物を飲み込む顎のように音もなく左右へと割れた。
入ってきたのは、死神のような静謐を纏ったヴァレリアンと、その影から獲物を狙うナイフのようにしなやかな体つきのカイウスだった。
胸元には、銀の円の中に白の茨が沈む、「オプス・ニグレド・ストラテジック・デフィニション(ONSD)株式会社」の社章が鈍く光っている。
彼らはレオンの執務室の前で一糸乱れぬ一礼を捧げた。
二人が纏うのは、世界を定義するONSDの「監査官スーツ」。
ヴァレリアンのチャコールグレーは、一切の光を吸い込む深淵のように重く、彼の灰色の瞳を冷徹に際立たせている。対してカイウスのミッドナイトブルーは、動くたびに裏地のネオンエメラルドが毒々しく明滅し、彼の不敬な性質を隠そうともせずにぶちまけていた。
――完璧な規律と、それを嘲笑うような色彩の暴力。
レオンの前に立つ直前、カイウスが当然のような顔で手を伸ばし、ヴァレリアンのネクタイの結び目をわずかに直した。指先がチャコールグレーの布地を愛おしげに掠める。
「……少し、緩んでいるよ。ヴァレリアン」
「……助かる。カイウス」
事務的な、それでいて密度の高い沈黙。
昨年十一月の「上場」を共に乗り越えたはずの旧知の仲でありながら、今のレオンにとってその「親密さ」は、新生したばかりの肌を逆なでする不快なノイズでしかない。
「……ONSDの監査官ともあろう者が、随分と弛んだ私用を職場に持ち込むものだな」
レオンが喉元の「鉄の結び目」を指でなぞり、冷たく言い放つ。
ヴァレリアンは表情ひとつ変えず、深淵のような瞳でレオンを見据えた。
「私用ではありません。CEO。
……我々は常に『二人で一つ』の監査ユニットとして定義されている。
……そうでしょう?」
ヴァレリアンの重厚な声が、執務室の空気を「オプス・ニグレド」の色に染め上げていく。
その隣で、カイウスが耳元のピアスをジャラリと鳴らし、挑発的な笑みを浮かべた。
「そういうこと。さあ、始めようか」
カイウスが指をパチンと鳴らすと、そのイヤーカフが飢えた獣の眼のように明滅した。
「……P.A.N.D.O.R.A。
今のレオンのバイタル、どう? ラーメンの油、全部抜けたかな?」
空間を削り取るように現れたネオンエメラルドの六面体が、物理法則を嘲笑う軌道でレオンの執務室を蹂躙する。
A.I.D.Aの青い光幹にガチリと、電子の火花を散らして衝突した。
『――認証完了。禁忌へのアクセスを開始。
……チッ。つまんねえ。心拍数60固定。呼吸も完璧な一定周期。
……って、何これ!?』
カイウスの掌に戻ったP.A.N.D.O.R.Aが、苛立たしげにノイズを吐き出す。
『小指のところにドロドロの「黒いノイズ」が居座ってて、心臓へのアクセスを物理的にブロックしてるんだけど!
趣味悪ィ……何食ったらこんな粘度の高い呪い(ガード)が創れんの!』
ヴァレリアンの灰色の瞳が、レオンの小指に絡みつくヴァルプスの影を捉えた。彼はすべてを「資産価値」として計上するかのように、残酷で美しい微笑を浮かべる。
「……レオン。加護で心音を隠すとは、随分と情緒的なセキュリティを導入されたようだ。
……だが、安心しました。それだけの『足掻き』があるなら、監査のし甲斐がある。
では、叔父上からの『祝辞』の確認、ならびに二月の決算スケジュールの最終調整に入らせていただきます」
ヴァレリアンの発言に一瞬だけ間を開けて、レオンは立ち上がった。
レオンは執務机を離れ、部屋の隅にある黒壇のローテーブルへと彼らを促した。
「……メイさん。法務の準備を」
メイはティーカップを運ぶ代わりに、テーブルの中央に巨大なホログラムの法典を再展開する。
温かな湯気など立ちのぼらない。そこにあるのは、青白く発光する無機質な「ルールの壁」だけだ。
レオンは一人用のソファに深く腰を下ろし、小指のヴァルプスを隠すように拳を握り込んだ。
「……もてなす茶は用意していない。この部屋で許されているのは、『契約』と『執行』の言葉だけだ」
カイウスがその言葉を嘲笑うように、テーブルの端にP.A.N.D.O.R.Aの毒々しい光を投げ出す。
ヴァレリアンは表情を変えず、チャコールグレーの裾を整えて対面のソファに鎮座した。




