第98話:『蒼銀の断罪 ー 01/26 11:45 行開始』
第7部:蒼銀の断罪
一月二十六日 十一時四十五分
創星連邦からのリモート・ハラスメントをアルトが強制終了させた直後。
ノックもなしに、しかし音もなく執務室の木の扉が開く。
そこに立っていたのは、光を反射するほど純白な制服を着た男、蒼銀連邦 アルジャン・ブルー監察官、エティエンヌ・ル・ブランだった。
彼は入室するなり、レオンの執務机に近づき、白い手袋をはめた人差し指で天板をスッと拭った。
「……CEO。1マイクロメートルの塵も、我ら蒼銀連邦の綻びとなります。
……ですが今、この指先に付着したのは……塵ではありませんな」
エティエンヌは指先を目の前にかざし、ブルーグリーンの瞳で凝視する。
「……脂(不祥事)の気配がします。それも、極めて下俗な……路地裏の、……豚の、……脂だ」
執務室の空気が、これまでのカオスとは違う「死の静寂」へと一変する。
「蒼銀連邦の救世主が、不浄なパケット(ラーメン)を摂取し、バイタルを汚染させたというログが、アメリア指数の暴騰と共鳴している。
……CEO。今すぐその口を開けなさい。
……私の手袋が、貴方の喉の奥に潜む『不潔』を、直接摘出します」
エティエンヌの白手袋が、レオンの頬に触れようとしたその瞬間。
室内に響き続けていた無感動なタイピング音が止まり、メイが眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「エティエンヌ監査官。……その不躾な指を下げてください。それは『油脂』ではありません」
「……何だと? メイ弁護士。
私の感覚が、この下俗な不浄を誤認したとでも?」
「ええ。それはCEOが昨夜、ルテティアの最底辺にある『民衆の業』を、自らの肉体に直接取り込み、高潔に中和された痕跡です」
メイは淡々と、しかし一点の曇りもない確信を持って言い放つ。
「これは“路地裏の民衆との直接接触による、現場主導型の社会・経済動態観察”という政治ストーリーであり、CEOが自ら泥に塗れることで、ルテティアの最底辺にある消費エネルギーを実地調査した──高潔なまでの献身です。
……あなたが行おうとしている『清掃』は、国家の貴重な実地データを破壊する背信行為にあたりますが?」
エティエンヌの指先が、レオンの喉元数センチで止まった。
彼の「潔癖」という正義が、メイの「高潔な献身」という名の巨大な屁理屈に真正面から衝突する。
「……献身、だと?
この……深夜のスラムで、一人、……呪文のような注文を唱えていたという、この醜いバイタル・ログが……?」
「『マシマシ』は、スラムにおける資源分配の最適化を問うための隠語です。……違いますか、CEO?」
メイの冷徹な視線がレオンを貫く。
イエスと言え。さもなくば、その喉に白手袋を突っ込まれて、全てを物理的に引きずり出されるぞ、という無言の圧力が、ニンニクの刺激よりも鋭く胃壁を刺した。
「……そうだ。
……私は……ただ、……ルテティアの……底を……覗きに行っただけだ……」
レオンはエティエンヌを見つめ、一度ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……エティエンヌ。……君には……この泥の……熱が……分からないのか……」
「…………」
エティエンヌは、白手袋の指先とレオンの顔を交互に見つめ、最後には忌々しげに手を引いた。
「……よろしい。ならばその『民衆の業』とやらを、蒼銀連邦全土に周知させましょう。
……メイ弁護士、今すぐプレスリリースを。
『救世主、スラムの困窮をその身に刻む』――ただし、レオン。もし明日の健康診断で、君の血液から『民衆の業』が基準値を超えて検出されたら、その時は我が国の医療ユニットが君の全身を完全洗浄します。
……覚悟しておくように」
エティエンヌは最後に一度だけ執務机を睨みつけると、音もなく去っていった。
執務室に、ようやく「地獄」のような静寂が戻る。
「……メイさん。プレスリリースの……タイトル……変えてくれ……」
レオンは、指先だけで執務机を掴み、小刻みに震えながら声を絞り出した。
窓の外からは、プレスを待たずして情報の断片を掴んだルテティアの民衆が、バゲットを掲げて「救世主万歳!」「俺たちのスープの王!」と、熱狂的な合唱を巻き起こしているのが聞こえてくる。
「変更ですか? どのようなものに」
「……『救世主、……深淵に……敗北』……。
……いや、……『不渡り(デフォルト)……確定』……」
レオンはついに膝をついた。エティエンヌの「白手袋」という脅威が去った瞬間に、鉄の意志でせき止めていた「マシマシ」の奔流が、一気に胃壁を突き破ったのだ。
淡い青い光を放つA.I.D.A.が、ゆっくりとしたトーンで報告をする。
『……マスター・レオン。
胃粘膜の……崩壊係数、……レッドゾーン。
……ネットの掲示板には、……「出し切るまでが……遠足」と……書いてありました。
……聖域への……最短ルート、……デプロイしますか……?』
「……あぁ……マルヴェイ、……お前も……」
「……分かっているよ、レオン。……君のその『脂ぎった苦悩』、……同期ノードとして、……一滴残らず……啜らせてもらうよ……」
マルヴェイの歪んだ愛の囁きも、もはやレオンの耳には届かない。
レオンはヴァルプスの影に支えられ、史上最高の「嘘」をルテティアの空に置き去りにしたまま、転がるようにしてプライベート・レストルームへと消えた。
扉のロックが、ガチャンと「断絶(Connection Terminated)」の音を立てる。
月曜日の市場が開くその瞬間、世界は「聖なるサンプリング」の嘘を熱狂的に買い支えるだろう。
だが、その救世主は今、一魔貨の価値もない個室の中で、たった一人の自分自身と……そして「ニンニク」という名の不変の真実と、孤独な戦いを続けていた。
「……う、……うう……ッ……」
救世主の悲痛な呻きだけが、消臭魔法の効かない個室に、虚しく響き渡った。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




