「満たされない点滴ライン」(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)
それは、Y先生が研修医2年目の冬の当直帯のことでした。
夜の病棟は、いつもより慌ただしい空気に包まれていました。
救急搬送で入院になった急患が、到着早々から呼吸苦を訴え、血圧も低下してきたのです。酸素投与中にも関わらず、SpO2はじわじわと下がっていく——嫌な予感しかしない状況でした。
「Y先生、ルート確保お願いします!」
上級医の声が飛びます。周囲では看護師が心電図モニターをセットし、別の医師が呼吸状態を観察しながら酸素流量を上げています。患者は不安そうな表情を浮かべ、胸を上下させて必死に呼吸していました。
Y先生は
「はい!」
と力強く返事をし、処置室から点滴セットを抱えて戻ってきました。
サーフロー針、点滴ボトル、延長チューブ、三方活栓……必要なものはすべて揃っています。
ただ、焦りからか、彼は一つ大事な工程をすっかり飛ばしていました。
素早く針を刺し、固定テープで止めたY先生。
「よし、点滴開始!」
とクレンメを開いた瞬間——。
反応なし
透明なチューブの中には……薬液ではなく空気。
「あれ……?」
Y先生は手を止め、眉をひそめます。
その様子を見ていたベテラン看護師が、すかさず声を上げました。
「Y先生! ライン満たしてません! 空気しか入ってません!」
「あっ……!」
そう、点滴ラインは薬液で満たしておかないと、空気が入ってしまい使用できません。
もし大量の空気が血管に入れば、空気塞栓という重大な合併症を引き起こしかねませんし、普通は静脈の圧の方が気圧より高いので入りません。
「急変時はスピード命ですが、空気は命取りですよ〜」
看護師は慣れた手つきでチューブ内の空気を抜き、点滴ボトルから薬液を流し込みます。
Y先生は顔を真っ赤にして、手元をじっと見つめていました。
「……点滴って、つなぐだけじゃだめなんですね」
「そうです! 満たす! 満たしてからが本番!」
無事に点滴が開始され、患者の血圧は少しずつ上昇。
現場の緊迫した空気が少し和らいだころ、上級医がY先生の肩を軽く叩きながら言いました。
「Y先生、今日でひとつ学びましたね」
「はい……『満たされぬラインは使えない』、肝に銘じます」
その日以来、Y先生は処置のたびに小声で「満たしてから…満たしてから…」と唱えるようになりました。
数ヶ月後——その癖が板につきすぎて、採血の時にも同じように唱えているのを同僚に見られ、「それは別に満たさなくていいです」と突っ込まれたのは、また別の話。
ちょっとできないけど、頑張っている研修医の先生はなんとなく、みんなで応援しております。