体動困難な患者①(市中病院での 無雑医師の記録)
祝日の昼下がり。外は人影もまばらで、病院全体が少し静けさをまとっていた。
そんな中、救急外来の電話が鳴った。休日当直中の私に救急隊からのコールが入る。
「糖尿病で近くの病院に通院中の60代男性、数日前から体が動かなくなってきているとのことです」
救急隊の声は落ち着いていたが、どこか困惑も混じっている。
患者はストレッチャーで搬送されてきた。顔色は悪く、痩せ型で、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「先生…力が入らないんです…」
かすれた声でそう言った。呼吸はやや早く、脈拍は少し速い。血圧は正常範囲内。SpO2は96%と保たれているが、全身にだるさを訴えている。
「どのくらい前からですか?」
「ここ数日…だんだん…」
患者は息を整えながら答えた。
この時点で、私は低カリウム血症を疑っていた。筋力低下、全身倦怠感、そして糖尿病患者が飲んでいるかもしれない薬。
「内服薬、持ってきてます?」
奥様が慌ててバッグを探り、薬袋を取り出す。その中に見覚えのある名前があった。
——芍薬甘草湯。
「これ、よく足がつる時に出されますよね?」
奥様が頷く。「数ヶ月前から飲んでます」
甘草には低カリウム血症を起こすリスクがある。長期内服では特に注意が必要だ。
すぐに採血をオーダーし、処置室のモニターにつなぐ。
ピッ、ピッ、と一定のリズムで鳴るアラーム音が、かえって緊張感を高める。
10分後、検査室からデータが届く。カリウムは——1.9 mEq/L。
「おおっ…」
思わず声が漏れた。正常値の下限3.5を大きく下回っている。これでは体が動かないのも無理はない。
「カリウム、最近測ってました?」
患者と奥様は顔を見合わせ、首を横に振った。
「でも先生、糖尿の検査は毎月してますよ。HbA1cってやつ」
嫌な予感が脳裏をよぎる。私はかかりつけのクリニックに電話した。
「◯◯さんの血液検査データを送っていただけますか?HbA1c以外も全部」
電話口の看護師さんが答える。
「HbA1c以外の採血は…ありませんね」
届いたFAXを確認すると、予想的中。過去3年間、HbA1c一項目だけのデータが並んでいた。
HbA1cだけを見続け、血糖値も電解質も腎機能も完全に無視されていたのだ。
「いやいやいや、怖すぎるだろ!」
心の中で叫びながらも、カリウム補正を開始。点滴をつなぎ、慎重に速度を調整する。
看護師が「これ、飲み薬じゃだめなんですか?」と聞いてくる。
「このレベルだと点滴一択です」
数日後、患者は自力で歩けるまでに回復した。退院前、奥様が言った。
「芍薬甘草湯って、怖い薬なんですね」
「薬は何でも使い方次第です。大事なのは、ちゃんとチェックすること」
この一件は、私にとっても忘れられない教訓となった。
糖尿病治療は血糖だけを見ればいいわけじゃない——そんな当たり前のことを、改めて思い知らされたのだった。
というか、当然すぎることをしていない開業医がいることにびっくりした忘れられない経験です。




