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七章 「冒険の終わり」

 年々、雨の日が増えているような気がする。

 燎太郎(りょうたろう)は雨の日には" Singin' in the Rain "をつい口ずさんでしまうので、そんな日が増えたように思うからだ。健吾(けんご)に言うと、データ検証を始めそうなので、燎太郎はなんとなく言えないでいた。


 中間テストが終わると、夏服のポロシャツに袖を通す。そうすると期末テストもあっという間に終わり、夏休みに入った気がした。オペラをやめてからは、気を抜くと「気がする」で毎日がせわしなく通り過ぎているようだ。


 コンビニでアイスをふたつ買って、小川の横を歩く。今ではもうすっかり道を覚えてしまった、駅から健吾の家への道。陽炎が街の景色をシェイクする。燎太郎の父が強いウイスキーをお湯割にするが、あのとき、熱いお湯とお酒が混ざり合ってゆらゆら揺蕩う感じを思い出す。

 クスノキとケヤキから蝉のけたたましい鳴き声が、威嚇しているように思えて、やはりあの中には神社があるんだろうと、燎太郎は確信した。熱心に警護する彼らに敬意を表し、石垣の道へと入る。入道雲が追いかけてくるようだ。


 健吾の家に到着すると、燎太郎はインターホンを鳴らす。スマホで連絡をすればいいのだろうが、燎太郎はこの家に入るための断りを、省略する行為のように思えて、あえてこの小さな音符マークに指をかける。ドタドタと階段を駆け下りる音がして、ドアが勢いよく開く。燎太郎はこの間にもう、玄関脇に設置された静電気を除去する黒い丸を触っている。

「いらっしゃい……あれやった?」

 寝癖のついた、空色のTシャツの友人は、そう言うと、その黒い丸へと視線をやる。

「うん、触ったよ」

 燎太郎はそう言いながらも、念のためもう一度それを触った。



 少し溶けたくらいがちょうどいいクリームのカップアイスをふたりで食べる。ゴオゴオ音を立てる、少し古いタイプのエアコンの冷たい風が、束ねた空色のカーテンと、燎太郎の白いポロシャツをかすかに揺らす。

「カビ臭くてごめんね、エアコンをクリーニングしないと……」

 と、健吾は謝るが、燎太郎は本当に、特に匂わなかったので、

「ううん、大丈夫」

 と答えた。健吾がまた眉間を押さえて、顔をくしゃりとした。アイスクリーム頭痛だ。

ふたりはアイスを食べ終える。燎太郎は健吾が入れてくれた麦茶を飲んでいると、健吾がノートパソコンをローテーブルに下ろした。パスワード入力画面で、燎太郎は顔を逸らす。健吾は小さな青い丸がぐるぐる回るのを見ているはずがなんとなく、目線を燎太郎に移しているような気がした。ホーム画面になる。見慣れたアイコンを健吾がクリックしたら、ペイントソフトが立ち上がった。

「立ち上げたはいいけど、なに描こう……」

 珍しかった。健吾がこんなふうに悩むなんて。ゴールデンウィークが終わってすぐ頃に描いていたドット絵は、完成図を見せてもらったが、赤い炎だった。リチウムの炎色反応をイメージしたらしい。燎太郎はそれを、カルメンが抱く情熱の炎のように思えた。

 ふと、健吾を見ると、ソワソワと落ち着かないように感じた。チラチラと燎太郎の方を見ては、またパソコンに向き直る。 

「健吾くん、なにかあったの?」 

 燎太郎がこう尋ねると、健吾の体が跳ねた。ギクッという音が聞こえてきそうだ。

「……ん、いや、あのね。父の会社の保養所でバーベキューが出来るんだけど。お父さん、今年も申し込んだみたい。別にもういいって言ってるんだけど、ぼくが高校生の間くらいはって、親バカだよね」

 燎太郎はその話を微笑ましく聞いていたら、

「……で、よかったら冷泉くんも行かない?」

 ノーガード状態を攻められた。

「ええっ、悪いよそんな。家族水入らずにお邪魔するわけには……もう今年と来年で終わっちゃうじゃん」

 燎太郎は遠慮して、手をぶんぶんと振る。

「いや、毎年行ってるから今さら水入らずとかは……。いや、ぼくが冷泉くんと……友達と、旅行に行ってみたいって言ったもんだから」

 健吾は、意を決したような顔をしている。相変わらずソワソワと落ち着かない。

「あ、ごめん、こんな小学生みたいな頼み……忘れて忘れて、うん」

 ふーっと一気に息を吐くと健吾は、額の汗をぬぐった。少しホッとしたように感じるのは、タスクを無事に完了できたからだろうか。

 画面の向こうの幼い自分たちの面影――大人のために泣いていた――が、走馬灯のように燎太郎の目の前をよぎる。

「……いいじゃんそれ、おれたち、小学生を取り戻そうよ」

 燎太郎は健吾の方に向き直り、悪戯っ子の声を出した。健吾は、目を見開いて燎太郎を見ると、くつくつ笑いはじめる。

 ふたりは拳を合わせると、冒険に出かける約束をした。失ったものを取り返すための冒険だ。

 約束の日は、夏休み最後の水曜日。登紀子と功一のふたりは休みを取ったらしい。渋滞に巻き込まれて燎太郎の帰りが遅くならないようにだろう。

 健吾はそれまでに「ぼくも約束を果たさねば」と神妙な顔で言うので、燎太郎はなんだろうと思ったら、エスカミーリョの散歩の話だった。


 今度は健吾が燎太郎の家を訪れた。エスカミーリョがすぐさま駆けよる。

空色のTシャツで、金色の体を受けとめると、

「よし、散歩に行こうかエスカミーリョくん」

 と、健吾は弾んだ声を出した。

「あ、ちょっと待ってね。ゴールデンレトリバーは紫外線に弱いから、散歩は日が落ちてから、ね」

 健吾の後ろから声をかける燎太郎。駅まで、健吾を迎えに行ったので。そう考えると、自分はどれだけ健吾の家に入り浸っているのかと、また恥ずかしくなる。それこそ、道順を覚えるほどに。

 駅からこの家までの道。夏の日差しが、地面を照らしていた。四角い街並みが一層白く感じられる。

「んん、ああそうか」

 と少し、勢いを削がれたような健吾を家にあげ、防音ルームへ通した。

「すごいね、ウチのなんちゃって防音とは程遠い。完璧な防音室だ」

 リビングの横、ガラスで遮られたその部屋は十二帖ほどの広さ。きょろきょろと見渡すと健吾は少しはしゃいだような声を出した。ガラスの向こうでは拗ねたような、恨めしそうな顔のエスカミーリョが伏せてこちらを見ている。

 グランドピアノの横には譜面台が置かれ、本棚にはヴォーカルスコアが並べられていた。カルメン、椿姫、トゥーランドット、魔笛にセビリアの理髪師……たくさんあるその中で、ハバネラの楽譜だけがぽっかりと、黒い小さな穴のようにここにはない。燎太郎が小さく折り畳み、タロットカードの箱に入れて持ち歩いているからだ。彼はしかし、自分がなぜそんなことをするのかはわからなかった。

 ふと見ると、健吾が白い壁の側に立てかけてあるクラシックギターを凝視していることに気づく。

「弾いてみる? しばらく誰も触ってないから、チューニング要ると思うけど……ピアノで音出そうか?」

 燎太郎は、グランドピアノの前に腰掛けると、鍵盤蓋を上げた。

「いいの、触って? え、コードとかエレキと一緒かな……チューニングも」

 健吾はおそるおそる持ち上げると、戸惑いながらストラップを体に通す。燎太郎は「裏側に通して、首にかける」と指示を出し、ふふと笑うと、

「じゃ、6弦からね」

 と、ミの音を出した。以前健吾の家で、彼のチューニングを見たとき、チューナーを使っていないようだったので。

「うわ、なんか音違って感じる」

 最初は健吾も戸惑っていたようだが、チューニングを終えると、指先で弦をはじいて適当にコードを並べる。燎太郎はそのコードに合わせ即興でピアノを鳴らした。ジャズのようだ。



 しばらく夢中で楽器を奏でていると、水の一杯も飲んでいないことに気づき、ふたりは慌てて防音室を出る。エスカミーリョが燎太郎の脚に絡みつくが、軽くいなして燎太郎はキッチンへ向かう。健吾をリビングのソファに座らせると、麦茶を用意した。

「いや、おれたち。こういうところは本当に気をつけなきゃね……」

 健吾の斜め前に座り、燎太郎は麦茶をごくごくと音を鳴らしながら飲むと、しみじみとこう言ったので、健吾は噴き出した。

「うん、ごめん本当だよね。笑ってる場合じゃない」

 笑ったあとで、すぐに健吾がフォローを入れるので、燎太郎もつい噴き出してしまう。

 エスカミーリョが「クウン」と抗議の声を上げる。窓を見ると、レースカーテンがオレンジに染まっている。格子がギンガムチェックのような黒い影を、白い生地に落としていた。

「そうだね、そろそろ散歩だエスカミーリョ」

 ふたりはキッチンでコップを洗うと、愛犬を玄関まで連れてゆく。

 靴を履くと、赤いリードと首輪をエスカミーリョに取り付ける燎太郎の横で、

「本当についていくだけでいいの?」

 と健吾が言った。エスカミーリョはじっと、開くのを待っているような眼差しを玄関扉に向ける。

「うん、そのまま駅まで送っていくから」

 燎太郎はシューズボックスの隅から小さなバッグを取り出すと中味を確認した。「エチケット袋ヨシ」と扉を開けると、エスカミーリョの口の端がにいっと上がった。


 住宅街の上にシロップのようなオレンジが重く沈む。その上にソーダそのもののような白が注がれ、やがて薄紫になり、紺色へと色が深くなってゆく。眼鏡をかけない燎太郎には星が見えなかった。

 濡れたようにまとわりつく暑さが、燎太郎の白いシャツにこもるようだ。エスカミーリョはハッハと舌を出しながらも、地面の匂いをしきりに嗅ぐ。タイルが敷き詰められ、ポツポツと街路樹が並ぶ道を歩く。その間ですっかりしおれた紫陽花が顔を出す。

「日に焼けちゃってる。でも、このへんの土壌は酸性か……いや、培養土でpHを調節してるのかも」

 醤油で炒めたように茶色くなってはいるが、その前は青かった顔色を見ながら、健吾は紫陽花に話しかけているようだった。燎太郎は愛犬の進路を確保しながらも、この花は酸性かアルカリ性かで色が変わる、理科の授業で聞いたな、とぼんやり思い出した。

 道ゆく人は同じ高校の制服を着ている生徒もいた。部活や塾帰りの生徒のようだ。足早に駅へと急ぐ人もいるが、そんなに人数は多くないことを願う。駅舎の上には夜空を爪で引っ掻いたように、月がぽかりと浮かんでいた。


 燎太郎が立ち止まるとエスカミーリョも座る。その大きな犬は「もう健吾帰っちゃうの」というような顔で、燎太郎と健吾の顔を交互に見る。

「なんか、ほんとうについて来ただけだったけど。よかった?」

 駅前のロータリー、その横の広場で、健吾も燎太郎とエスカミーリョの顔を交互に見る。

「全然大丈夫。本当についてきてくれるだけでよかったから。エスカミーリョも人数が増えて楽しそうだよ。……いまは寂しそうだけど」

 燎太郎は小さく笑うと、エスカミーリョの頭に手を置く。彼は眉を下げていた。

「はは。犬って誰かが帰る気配に敏感なんだね。じゃ、ぼくはもう帰るよ。来週はよろしくね」

健吾はエスカミーリョに手を振ると、背中を向けて駅舎へと向かっていった。エスカミーリョが「クウン」と鼻を鳴らす。エスカレーターのある壁の向こうへ、健吾が入ってゆくのを見届けると、燎太郎はエスカミーリョのリードを引いていつもの散歩コースに引き返す。

 燎太郎はバーベキューへ行くにはどんな服がいいのか、家に帰ったら調べようと思った。お招きされるのが初めてだったので。



☁☀☁



 燎太郎はカーキ色のTシャツに黒い薄手のシャツを羽織ってきた。火から肌を守るためと、ネットの記事には書いてあった。

 いつもの健吾の家の庭に、どっしりとたたずむ黒いクロカン四駆。心なしかドヤ顔に見える。

 朝もやもまだ残っているんじゃないかという白い空気の中〝本日のミッションの機軸〟となるその車に、ドカドカと荷物が積み込まれている。

「おはようございます」

 慌ただしさをかき分けるように燎太郎は大きな声を出す。登紀子(ときこ)功一(こういち)が燎太郎の方を向き、手を動かしながら、にこやかな笑顔で口々に「おはよう」と返した。

「あの、出発前に荷物増やしちゃうのあれなんですけど、うちの両親に持たされて……」

 燎太郎は紙袋からお菓子の箱を取り出した。炭の段ボールや、バーベキューコンロと一緒の視界に入ると、ひどく場違いに思えた。

「ああ、ありがとう。気を遣わなくてよかったのに……おやつで食べよっか。これ常温?」

 登紀子が本当にありがたそうに受け取ってこう尋ねるので、燎太郎はホッとして「はい」と答えた。

「おれも、積み込み手伝います」

 ボディバッグに紙袋を畳んで仕舞いながら、見習い冒険者として、燎太郎はできることからやろうと思った。

「冷泉くん、こっち!」

 いつに間にか健吾が庭に出ていたので、燎太郎は吸い寄せられるように彼とクラスターになる。

「玄関に置いてある荷物持ってきて、ぼくが受け取って車に積むから」

 燎太郎は健吾の言葉に頷くと、玄関に走った。今日の健吾は先輩だ。



 運転席に登紀子、助手席に功一が座っていた。帰りは交代するらしい。見慣れた県道から遠ざかるとインターチェンジに入る。ダンジョンの入り口のようだ。

「健吾、酔い止め飲んだか?」

 助手席の功一が振り返って健吾に尋ねた。

「飲んだよ、もお。冷泉くんの前で子ども扱いしないでったら」

 健吾が恥ずかしそうに抗議した。

「おれも飲んだから、大丈夫だよ健吾くん」

 言ったあとに、それってフォローになるのだろうか、と燎太郎は思ったが、

「そっか、そうだよ。冷泉くんだって飲んでるんだから」

 と、納得していたのでよかった、と思った。

「長丁場になるから燎太郎くん、ボディバッグ外したほうがいいかも。シートベルトに重なって危ないし、なにより疲れちゃうよ」

 功一が今度は燎太郎に声をかけてくれたので、燎太郎は頷いてその言葉に従った。

 積荷がカチャカチャと金属音を上げていた。燎太郎は健吾がパズルのように荷物を積み上げるので感心してしまった。思えば健吾と友達になってから、彼には感心させられっぱなしだと思う。

 湿気からか眼鏡がすぐ曇るので、健吾は何回も磨いていた。彼はいつもの空色のTシャツに、細かくて間隔の広い青ストライプの生成りシャツを羽織っていた。燎太郎は、結構カジュアルな服でよかったんだと思う。

 同じような道路を走っていると眠くなってくる。燎太郎は興味本位で読んだ運転教本に「高速道路催眠現象」と書いてあったことを思い出す。運転の邪魔にならない程度に、登紀子に声をかけた。健吾はまたうとうとしている。燎太郎はだんだんわかってきた気がした。健吾は一度に入ってくる情報量が多く、その処理にエネルギーを使うから、常に眠いんだ。酔い止めの副作用も相まったら尚更だろう。

「ありがとう」

 功一がふいに声を上げる。

「うん、ありがとね、燎太郎くん」

 登紀子も続く。健吾を起こしたりしないことだろうか。

「燎太郎くんも寝てていいんだよ」

 優しく功一が声をかけてくれた。

「いえ、ご迷惑じゃなければ、おしゃべりしたいです」

 嘘ではなかった。遠足のときのような高揚感が確かにあったから。


 いわゆる下道に入り、しばらく走ると、早めの昼食をとろうとお蕎麦屋さんに入った。

 信楽焼のたぬきの横、暖簾をくぐると畳の小上がりのある、昔ながらのたたずまいだった。

 健吾はざる蕎麦、登紀子は山菜そば、功一は親子丼を食べたので、燎太郎はカツ煮定食を食べた。そして、カツ煮ってこんなに美味しかったっけ、と思った。もとから好きなメニューだったというのに。健吾はぼーっとした様子で蕎麦を啜っていた。

 燎太郎はお店から出たら財布を出して、自分の分を払おうとするが、健吾の両親が「今日はお金のこと、心配しなくていいから」と、優しく諭してくれる。



 東京湾アクアラインのゲートは、塔の入り口みたいだった。頂点が切り離された白いピラミッドのようなシンボル。でも、実際には登るのではなく潜ってゆく。さっきまでぼーっとしていた健吾も、トンネルに入る瞬間は跳ね上がってキョロキョロと風景を見た。

 車の窓越しに潮風が薫った気がした。

 海ほたるでトイレ休憩をする。このときは本格的に潮のにおいが鼻腔をくすぐった。

海に浮かぶ要塞だ。立体駐車場から出ると、ショッピングモールのようなテナントが並んでいるので、燎太郎はここもじっくり探索してみたいと思うが、ミッションはまだまだ続くので我慢する。

 燎太郎はちらりと健吾のほうを見ると、その視線に気づいた彼が、

「ああ、大丈夫。海のにおいは嫌いじゃないよ」

 と、ニカッと笑う。

「あっちに、シールドマシンのカッターがあるんだ、見に行こう!」

 健吾が人混みの中で、遠慮がちにぴょこりと腕を上げ方向を示す。

「シールドマシン?」

「うん、海底トンネルの掘削に使ったやつ。本物らしいよ」

 燎太郎は聞いたことがなかったので聞き返すと、健吾はどんどん階下へと進んでゆく。平日とはいえ、夏休みだったので、ざわざわと家族連れで賑わっていた。

「健吾! 人酔いに気をつけてね」

 後ろで登紀子の声がした。

 美味しそうな香りのする(さっき食べたばかりなのに)テナント群を抜けると、視界が開ける。

 巨大な歯車みたいな金属が、上弦型にたたずんでいた。燎太郎は月が降りてきたのかと思った。はるか向こうでは空と海を切りはなしたような水平線が、その大きなカッターを紹介しているようだ。

「……ロマンだよね。科学を使って人間はどこまで行けるんだろ」

 遠巻きにふたりで突っ立って見ていると、健吾がポツリと呟く。覚悟のようにも聞こえるし、どこか他人事のようにも感じた。

「ふたりとも、よかったら写真撮るよー」

 潮騒のようなざわめきの中に、功一の朗らかな声が響いた。燎太郎はお言葉に甘えて撮ってもらうことにした。シールドマシンを遠景にした記念撮影。功一が燎太郎のスマホを、登紀子が健吾のスマホを構えた。それをお互い、メッセージ機能でシェアしたので、二枚の記念写真が出来上がった。燎太郎はこういった写真を撮るのが久しぶりだったので、緊張して鼻の下がみょんと伸びた、河童みたいな顔になってしまった。ウミネコがキャアキャアと鳴いている。

 海ほたるを越えてからは、一面の青。燎太郎の日常には海の風景がない。

 健吾も体を捻って窓の外、空と海の二階調のような青を見ていた。

「海ってさ、この中に凄まじい数の生命体がいると思うと落ち着かないんだよね。でも見ちゃうのなんでだろ」

 健吾がはしゃいだ様子でこう言った。

「わかる。エビとかさ海から見るとあんなに小さいのに、どうやって捕るんだろうって思うもん」

 燎太郎の燎は「篝火」だった。篝火は漁のときに海を照らす火でもある。燎太郎は今日このとき、自分はちゃんと海を照らせているだろうかと思う。エビを引き揚げるための、役割のひとつになりたかった。



 内房総に入ると目的地に到着する。細かい石をガタガタと車輪で踏んでゆくと、窓の外には木々しかいない。やがて、ぽっかりと視界が開けると芝が広がり、白くて大きな建物が目に入る。リゾートホテルのような外観の、保養所の周りには他に建物がなかった。  

森に囲まれ、遠くに山が霞んでいる。4WDから降りると、八月の日差しが容赦なく降り注ぐが、それ以上に木々の吐き出す空気が心地よかった。鳥のさえずりやケーッという高い声が聞こえてくる。空や海の青、目の前の松の木を生やした芝や遠い緑、こんなに大きな色を見たのは本当に久しぶりだと思う。

 功一が建物の方へ向かった、事務手続きをしてくれるそうだ。

「あの建物でね、宿泊もできるんだよ」

 健吾が指差し教えてくれるので、燎太郎はへえと頷いた。功一が戻ってくるともう一度車に乗り込み、バーベキューエリアに向かう。駐車場の横には細かい砂利が敷いてあり、赤いタープがところどころに張ってある。何組かはもうそのタープの下で作業を始めていた。

 功一と登紀子は案内図を見て、自分たちのエリアを確認すると、燎太郎と健吾に「こっち」と言って手招きした。最低限の荷物を持つ各々が、タープの下によいしょと降ろす。

 車に引き返すと、リヤカーに荷物を積み込んでなん往復かした。その度にタープにいる誰かに「水分を取れ」と、水筒の冷たいお茶を渡された。

 荷物の搬入が終わると、燎太郎と功一は塩アメを舐めながら折りたたみテーブルを広げ、タープの下で串打ちを始めた。赤パプリカやとうもろこし、ピーマンや赤玉ねぎなどの野菜、そしてお肉はあらかじめ一口大に切ってあるようだ。

「燎太郎くん、どう? 楽しめてる?」

 功一が作業をしながら燎太郎に尋ねた。

「はい、かなり。おれ、バーベキューの串打ちずっとやってみたかったんです。この串がショートソードみたいにカッコいいから」

 燎太郎は笑い、こう答える。功一も目を丸くしたあと同じく笑い、

「うん、いいね。冒険心をくすぐるよ」

 と言った。

 燎太郎はぷすぷすといった、ときには肉の筋の重い手ごたえを、ポリ手袋越しに感じながら、野菜とお肉を交互に刺してゆく。見栄えも良く、さらには食べやすく、焼いているときに串から外れないように。燎太郎は想像力を働かせ、食材の芯を捉えるような感覚でショートソードに獲物を仕留めてゆく。

「うまいね、初めてとは思えないよ。色彩センスも良い」

 功一が心底感心したようにこういうので、燎太郎は照れながらお礼を言った。

 ふと、健吾の方を見ると、登紀子と一緒にコンロを組み立て、炭をおこしていた。だいぶ手慣れた雰囲気だ。

「健吾くん、だいぶ慣れてるカンジですね」

「ああ、健吾ね。火おこしうまいんだよ。いつどのくらい風を送ればいいか感覚でわかるんだって。学校行事のキャンプのとき、ありがたがられるって言ってた。健吾のおこした火のついた薪を、先生がうまくいかないグループに配ってまわるんだって」

 ふふふと功一が笑う。どこか誇らしげだ。その様子を微笑ましく見ながらも、聡信(そうしん)のキャンプ行事はなぜ一年生のときだったのだろう、と歯痒くなる。去年は違うクラスだった。

 出席番号で班を組むならほぼ同じになれただろう。そうだったら、学校のキャンプの方にも行ったのに。

「お母さん……登紀子さんもね、火おこしうまいのよ。そんで、ちょっと生肉の匂い苦手なの。健吾ほどじゃないけどね。だからあのふたりが火おこし担当」

 笑いながら功一が続ける、と、ふいに空気のトーンが落ちた気がした。

「健吾の視力、燎太郎くんが気づいてくれたんだよね、ありがとう。あの子、興味あるものを眉間にシワ寄せてじっと凝視するクセがあるからね、それと混同してた。親の限界を感じるよ」

 燎太郎はハッと顔を上げる。功一の、串を見つめる目はどこか寂しそうだ。燎太郎はずっと気になっていたことが、思わず口からこぼれ落ちる。

「健吾くん、むかし……テレビに出てたのって」

 出来るだけ責めないように努めたつもりだった、けれど、どこか功一の裾を引っ張るようなニュアンスになる。ここでもあし鴨だ。

「……うん、健吾が食べていけるならって。浅はかだったよね。視野が狭くなってた。言い訳じゃないけど、親も学びながらなんだ。情けないよね」

 功一はまた、ふふふと笑うとしんみりとした空気を払拭しようとした。

「あの、ちょっとだけ……相談してもいいですか?」

 燎太郎はその空気を拾い集める、もう少ししんみりしていてほしい。汗が一筋、こめかみから顎に走り抜ける。燎太郎は生まれて始めてかもしれない「あえて空気を読まない」行動をした。

 功一はびっくりした様子で燎太郎の方を見る。

「親が……。親の努めはちゃんと文句なくしてくれて、なにか嫌なことも絶対にしないんですけど……。それでも、寂しいって言うのは……わがままですか?」

 絞り出すように燎太郎はこう言った。いままで弱みを見せることが怖かった。親にさえ。あんなに泣き虫でしょっちゅう泣いていたのに、よくそんなことが言えるよね、と方々から声が聞こえてくるような気がする。

「それは、絶対に親御さんに伝えたほうがいい。今日、帰ってすぐにでも」

 力強く頷いて、功一が燎太郎の目を見た。その視線を受け取って何度も燎太郎は頷く。煙が目に染みてきた。このせいにしてしまおう。瞳が湿るのは。

「火、おきたよー!」

 健吾の大きな声が聞こえてきた。


 お肉から肉汁が垂れ落ち、炭がジュウと音を立てる。煙が巻き上がり肉汁が燻され襲いかかる。燎太郎はコンコンと咳をした。

「冷泉くんこっち、そっちは風下だよ」

 健吾に促され、燎太郎は立ち位置を変えた。太陽が真上から、赤い炭の火が下からカンカンに熱を放つ。燎太郎は涙目になりながら焼けたお肉に食らいつく。クラクラになりそうだが、舌の上に乗る旨みの絡みついた塩気は、血潮をたぎらせるようだ。続いて繊維を噛み切る歯応えを堪能する。

「燎太郎くん、串熱くなってるから気をつけてね」

 登紀子の声に頷きながら、燎太郎はいま一度手元の串をじっと見て確認した。

 ときどき、オレンジジュースを流し込むと喉が涼しい。クーラーボックスに入れていたのでよく冷えている。

 大人たちはせわしなく串をひっくり返しながら、「どんどん食べて」と声をかける。燎太郎も焼いてみたいと思うものの、目の前でこんがり焼かれた美味しそうなものと、優しい声の誘惑に負けてついつい食べてしまう。焼きおにぎりもたいらげて、燎太郎は気がついたらマシュマロを炭にかざしてクルクル回していた。炭がぱちりと爆ぜるとドットのような細かい赤が光って散る。本当にあっという間だったと思う。

 まだ口の中が甘く香ばしいようだ。そんな中、ざっと片付けられた折りたたみテーブルの上に、シングルバーナーがやかんを乗せている。ふたり分の紙コップにはドリップ式のインスタントコーヒーがセットされていた。さっきとは違った香ばしさが漂う。

「燎太郎くんはコーヒーとハーブティーどっちにする?」

 火の番をしていた登紀子がこう尋ねた。

「コーヒー、いただきます」

 口の中に残ったマシュマロの風味に合いそうだったので。登紀子は微笑んで頷くと、もうひとつコーヒーをセットした。お湯が沸くと、残りひとつの紙コップにお湯が張られる。

 健吾は荷物の中からティーバッグを取り出し、ゆっくり沈めてゆく。

 子どもが遠くで笑う、その声にびっくりしたように、小鳥の群れが飛び立って行った。

 

 テーブルに椅子を並べて四人で座ると、お茶菓子に燎太郎が持ってきた饅頭を食べた。

 白あんの中にバターの風味が立つ。登紀子はその空箱に、残ったお箸やフォーク、紙食器類などをまとめ、

「あら、これ便利。ねえ、来年もこうしましょ、お父さん」

と言った。「来年も」という響きに少しの寂寥感(せきりょうかん)が滲んでいる。

 炭とコンロが冷めるまで、炊事場で串を洗ったり、おしゃべりなどをしたら帰る時間になった。燎太郎は火ばさみで炭をつかんで、火消し壺に入れる作業をさせてもらった。灰の中から消し炭を拾い上げるその行為を、どうしても体験してみたかった。


 オレンジのシロップを少しずつ垂らし始めた空を横切る。健吾は隣ですっかり眠っていた。燎太郎も申し訳ないと思いつつも、うつらうつらと船を漕ぐ。エンジンの音に、ときどき響く功一のテノールボイス。それに答える登紀子の声はもはやASMRだ。ふたつ並んだシートが幕のように、フロントガラスの景色を切り取る。車の振動に身を任せながら、冒険の終わりにはこうやって、安心する誰かがベッドに運んでくれたなと、そう思った。


 見慣れた街の景色になると、健吾もしゃっきりと目が覚め、今日最後のおしゃべりを楽しんだ。もうすっかりあたりは暗くなっていた。四角い街並みが黒く反転し、看板を照らすために並んだ小さなライトは、星座のようだ。

 家のすぐそばまで送ってもらうと、

「こんな遅くまで付き合わせちゃって、ご両親に挨拶しようか?」

と、運転席から功一が言った。

「いいえ、大丈夫です。両親は喜んでましたから。おれが友達と旅行に行くって」

 手を振りながら、燎太郎は微笑んだ。

「そう? 近いからって油断しないで、気をつけて帰ってね……がんばるんだよ」

 ……がんばるんだよ。燎太郎はその言葉に力強く頷く。健吾が後部座席できょとんとした顔をしていた。

「健吾くん、新学期もよろしくね。今日は誘ってくれてありがとう」

「ああ、こちらこそありがとう、気をつけてね」

 健吾が別れの挨拶をすると、燎太郎は微笑みを返し、車のドアを閉めた。


 すぐそば、もう見えている我が家に向かいながら、燎太郎は最初にどう切り出そうか、ぐるぐる言葉を並べていた。



★★★



 白いポロシャツとグレーのボトムスが並ぶ教室。新学期になってもまだまだ外は暑かった。クーラーは設置されているものの、それ以上に生徒たちの熱気が……熱い。

 今日は一時限目の時間を使って文化祭の予定を立てることになっていた。白詩(しろし)が中心になってクラスの出し物を決めてゆく。クラス委員が教壇に立ってはいるものの、仕切っているのは実質、白詩だ。

「カフェ系とかだと、他のクラスと被りそう。なんかウチのクラスならではの出し物にしたくない? 終わったときに2ーAダイスキって思えるようなー」

 金色の巻き毛をくるくる指で絡みとりながら、萌花(もか)がこう提案した。机から半身を放り出し、顔は白詩を見ている。

「展示にする? それとも体験型とかー」

 白詩がこう続けると、「体験型」の部分で、燎太郎は萌花とパチリと目が合った。彼女はみるみると目を見開き「思いついた」というような顔をする。

「ハイハーイ。占いの館ってどうですか? 燎太郎くんがタロットの本読んでたから」

 勢いよくピンと手をあげ、クラス委員たちと白詩へ交互に向き直る。燎太郎は自分が読んでいた本まで見られているのか、と苦々しく思いながらも、それについては構わなかった。

 燎太郎はクラスに馴染まない分、クラス行事や日々の作業には積極的に参加した。クラスで特別授業があるとき、机を動かすようなことがあると進んで動いたし、大掃除も高いところは任された。この恵まれた体を活かせるならば、それはむしろ喜ばしいことに思えた。

「うん、構わないよ。なんだったらみんなにも教えるし……」

 燎太郎がこう言うと、クラスメイト達が口々に「え、いいの?」だとか「本当に?」と顔を合わせたかと思ったら、一呼吸置いてわっと沸いた。

 クラス委員は黒板に「タロット占い」とチョークで書きつける。すると、もうほぼ決定したかのように話が進んでいった。

「あくまでお遊びだってことは言っといたほうがいいと思う。気にする人は気にしちゃうから」

「質問に対して、個人情報を入れて答えないようにって。ちゃんと目立つところに警告出したほうがいいと思う」

 などと提案が飛び、教壇のふたりがそのたび意見を拾って、黒板に書いてゆく。

「じゃあさ、タロットカードって燎太郎くんから借りればいいのかな?」

 萌花のこの言葉で、クラスメイトの期待した眼差しが燎太郎に集まる。燎太郎は言葉に詰まった。

「それは、燎太郎ひとりに負担をかけすぎ。クラスの予算から買おうよ。そしたら、終わったあと生徒会に寄贈(キフ)できるから。つか、おんなじような理由でもうあるかもしれないから、ちょっと覗いてくる」

 白詩の声だった。クラスの視線が白詩に移る。萌花もあっさりその意見を認め「やるじゃんシロ」と、自分のカレシを指差した。

 燎太郎は正直に言うと、ほっとした。白詩の方に目をやると彼はもうクラスメイトの和の中に紛れていた。

 クラス委員が赤いチョークで「占いの館」という文字の横に「決定」と書いた。


 放課後、燎太郎は白詩に付き合って生徒会室に行くことになった。

 自分一人でだと、タロットカードを見ても、それとわかるかは不安だからと。燎太郎は了承した。

 全ての授業が終わると、白詩がリュックを背負って燎太郎の席まで来た。彼は人懐っこい笑顔で「行こっか」と、それだけを言った。燎太郎は頷くと慌ててリュックに荷物を詰める。

 白詩と燎太郎は黙ったまま、生徒会室のある三階へ、階段を上ってたどり着く。同じ学校なのかと思うくらい、さっきまでの熱気がしんと静まる。燎太郎はなんとなくその静けさが気まずく思え、白詩に切り出した。

「シロくん、あのときはありがとう。助かったよ」

 斜め後ろ、燎太郎の顔をみて白詩は小さく笑うと、

「いいって。こっちこそ燎太郎に協力してもらえて、嬉しいからさ」

 こう答えた。ふと彼の笑い声が途切れると、白詩の顔がだんだんと下を向く。


 ふいにぴたりと白詩は足を止める。燎太郎もつられて立ち止まる。少しつんのめってしまった。窓にはジリジリとまだ衰えない日差しが照りつける。

 誰もいない廊下に静寂が突き刺すようだった。白詩の表情を読むことができない。燎太郎は沈黙からあがくように口を開こうとすると、白詩が先にこう言った。

「なあ、燎太郎。やっぱ一緒に歌わない? 燎太郎は歌うべきだって」

キーンと耳鳴りが走り抜ける。その話は終わったと思っていた。白詩のその言葉も、耳の奥に去来する、ピアノの右端、C8より高い音も、燎太郎にとっては絶望の調べに近かった。

 燎太郎は窓越しの熱にうかされているが、身体を伝う汗は信じられないくらい冷たかった。

 白詩の目に炎が宿る。それは自分の中の消し炭に、無理矢理火をつけられるような恐怖だった。

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