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八章 炎色反応:リチウム -Reprise-(前編)

Trigger warning

〝いじめ〟描写

後ろから小突く、首元を掴むなどの暴力行為

暴言

フラッシュバック等にご注意ください

 燎太郎(りょうたろう)はいきなり背が伸びた。

 中学に上がってすぐは小柄だったが、二年生の夏になると学年で一番高い背丈になった。

 膝が熱を持ったように痛かった。

 

 燎太郎は中学一年生のときの文化祭――「戦う女性たち」の事件――以来、休み時間になるたび、椅子に座っているとふいに、軽く小突かれるようになった。後ろを振り向くが誰もいない。近くで二、三人の男子生徒が肩を寄せ、ケタケタと笑っている。それだけのこと、と言われればおしまいだが、燎太郎にとっては休み時間が嫌いになるほどの出来事だった。

 このころ、手足が冷たくしびれるようになると、息が苦しくなることが続いた。燎太郎はなにか肺の病気ではないかと、悲観した。それは〝ただの過呼吸〟に過ぎなかったが。


 教室の電灯に誰よりも近くなるころ、そういったことは起こらなくなったように燎太郎は記憶している。いまも文化祭のとき、いきなり襟をつかまれたあのときを思い出すと、喉がギュッと締まるようだ。小学生のころ使っていた体操着や、中学生になったとき持たされた弁当箱、その巾着袋の口が自分と重なる。

 燎太郎はあのとき、その巾着袋のなかになにもかも閉じ込めてしまったのだ。





「ちょっと、高嶋(たかしま)。なに燎太郎くんに話しかけてるの? ウケる。燎太郎くんは貴族なんだから気安く話しかけるなっての」

 萌花(もか)がクラス委員の高嶋に笑いながら――敵意を隠したような笑い声で――彼女を指差す。

 燎太郎はクラスに馴染めない自分も悪いと思うが、そうやって見えない「膜や幕」を張られるようなことも、本意ではなかった。身勝手なことはわかっているが……。

放課後に文化祭の準備を始めるようになった。他の教室からも活気のある声が聞こえてくる。

 部活動が休みの生徒、部活動に入っていない生徒などが参加している。燎太郎も後者だから参加していた。教室の机を十一台ほどくっつけ大きなひとつの机を作り、取り囲むように椅子を配置して座っている。最外側の机は椅子を入れた状態で座り、周りでは適当な位置に椅子を置いていた。

 高嶋はほんの一瞬、眉間にシワを寄せ「訊きたいことあるんだけど、いいかな?」と、言ったあとの言葉を彷徨わせた。

「高嶋さん、訊きたいことってなに? おれ別に貴族じゃないんだから、訊いて」

 燎太郎は右斜め前の高嶋に〝貴族じゃないんだから〟という部分を、できるだけ曖昧な感じで剣呑にならないよう、かつ冗談っぽく聞こえるように気をつけて言った。

「ヤバ、燎太郎くんやっぱ天使。下々のものに優しすぎ」

 萌花は笑う。燎太郎はそもそもなんの権利があって、「高嶋さんがおれに話しかけることを制限しようとするのだろう」と思った。

「萌花! 邪魔するならいっそ帰って」

 燎太郎のうしろ、教卓から白詩(しろし)の声が飛んできた。

「は? だる。そもそもなんで当たり前のように六角(ろっかく)が燎太郎くんの横に座ってんの?」

 萌花は鼻白んで、健吾(けんご)に八つ当たりをした。いや、それというよりは溜まっていた不満をぶちまけたような……。

「萌花!」

 白詩の声に苛立ちが混ざってきた。

「……はーいはいはい。大人しくしときまーす」

 萌花は拗ねて大きな声を出しながらも、ちゃっかり燎太郎の隣の席をキープしている。

「高嶋さんごめんね、燎太郎に訊きたいことってなに?」

 白詩がまたワントーン声を上げながら高嶋の方を向き、こう声をかけた。高嶋は手元に置いてあった本を持ち上げこう続ける。

「あっ、えっと、図書室でわかりやすそうなタロット占いの本を借りてきたんだけど、どうかな……。冷泉(れいぜい)くんも当日、ずっといてもらうわけにはいかないから。だって、冷泉くんが他を回れなくなっちゃうし。教えてもらったことをベースにメモして覚える感じで」

 燎太郎は頷き、「ちょっと借りていい?」と高嶋から本を受け取った。

 パラパラとページをめくると、燎太郎は眼球を素早く動かし、ざっと本の内容を確認した。

「うん、これわかりやすいしいいと思う。それに、メモしたものは側に置いて、見ながらでも大丈夫。プロの占い師も資料を見ながら占うことはあるみたいだから。このメモをまとめて冊子にする係を作ってもいいかもね」

 高嶋がホッとした顔を見せると、もう一人のクラス委員、丸山(まるやま)が黒板に「作った方がいい係」と赤いチョークで書く。その横に白いチョークで「メモをまとめて冊子にする係」と加える。

「係はおいおい決めるとして、まず基礎的なこと教えてもらっていい?」

 白詩が教卓から身を乗り出して、燎太郎と無理矢理気味に目を合わせようとする。白詩は今年もやはり文化祭実行委員会と軽音部活動とを兼任したらしい。白詩の視線に燎太郎の喉がチリチリと音を立てるようだ。

 ――あの日、「ごめんシロくん、おれ歌う気ないから」と断ったが、白詩は「気が変わったら言って」と、諦めた様子はなかった。生徒会室を探すと、三セット、タロットデッキが保管されていたので、それを全部借りてきた。今年タロット占いをするのは、燎太郎のクラスだけらしい。

「うん、あくまでこれはおれの持論なんだけど、占いは人生相談なんじゃないかな。質問から相手の悩みを推測して、カードを読んで解決に向かうお手伝いをする。そして、占い相手を破滅に追い込むようなことは絶対に質問しちゃダメ。これは『予言の自己成就』っていう、転びかたによっては悪い心理状態が働くから。具体的には、『人の生死に関わる問題』『同じ質問を何回も繰り返すこと』あとはギャンブルや学業の質問も避けた方がいいかも」

 何人かの生徒がノートを取り始める。萌花はうっとりといった感じで燎太郎を見ているが、話は聞いていないだろう。

「あ、あとね。出し物を決めたとき『あくまでお遊び』って言った方がいいって意見もあったけど、タロットを真面目に研究してる人……勉強して、当たるものとして捉えてる人もいるから、その言い方だと失礼かも。『我々は高校生なのであくまで簡易版で占っています』とか、そんな感じのニュアンスがいいと思うよ。……でもあまりオカルト寄りになるのも良くない。さっき言った自己成就で、結果を良い方に解釈した場合はまあ、いいんだろうけど、お客さんが悪い方に解釈したら本当に良くない。その辺のバランスも考えていこうか。タロット占いの歴史をまとめて、表にして展示する係があってもいいかも。占い詐欺のことも触れたほうがいいかもね」

 燎太郎は一気にまくしたてる、が、何名かの生徒は熱心にノートを取っていた。丸山はまた黒板に「タロット占いの歴史展示係」と書いた。

 そのあと、いくつか質問が上がったが、燎太郎はその都度丁寧に答えた。

「は? 真面目かよ? やってらんねー」

 萌花が話し合いに飽きてしまったのか、いきなり立ち上がり、教室を出て行った。話についていけなかったのだろうか、と燎太郎は考えた。それとも、自分が中心ではない話題は面白くないのだろうか。

「……真面目って、すごくいいことだと思うけど」

 燎太郎は思わず呟いた。クラスメイトたちは、なにも言わない。

「ごめんね、みんな」

 白詩は顔を両手で覆い、本当に申し訳なさそうな声を出す。

「全然大丈夫」「気にしないで」

 クラスからこんな声が飛んだ。人と恋人になるということは、その人の責任も自分が持つことになって大変だなあ、と燎太郎は少し気の毒に思った。

「えっとね、具体例もやっていこうか。いろんなやり方があるけど、簡単にできるやつで。例えば問題を解決する方向に導くケースと仮定して……、その場合……えっと、これいまパッと作った話なんだけど……距離を置きたいクラスメイトがいるって、相談だとすると……」

 燎太郎は、白詩の方に目線を向けないように細心の注意を払った。そして大アルカナだけのカードデッキをシャッフルすると、三つの山にわけ、一つの山に戻した。一枚カードを引く。「吊られた男」だった。燎太郎は苦笑いをすると初めて「占いって結構当たるんじゃないか」と思った。

「えとね、このカードは一説では、ユグドラシルに吊るされた北欧神話のオーディンがモデルだと言われててね。『苦行が終わると努力が報われる』ってことかな。カードの絵に描いてあることを読み取るんだ。だから、まあ……その人が相手と別れたいのか、本当は仲良くなりたいのか、質問に加えて顔色とかで考察して、前者ならいつかギスギスは終わるって言って、後者ならいつか仲良くなれる、って励ますかも」 

 燎太郎はオーディンならスマホゲームにもよく「出演」するので、通じるかな、と思いこう説明した。周りの生徒を見ると、ピンときていた様子の生徒も幾人かいたようだ。

視線の端の白詩は穏やかに微笑みを湛えている。

「じゃあさ、雰囲気掴むために実践形式も見せて。おれ『お客さん役』するから」

 教卓から立ち上がると、白詩はさっきまで萌花が座っていた椅子――燎太郎の隣に座った。燎太郎は体を捻って白詩の方を向くと、「いいよ」と了承した。「吊られた男」をデッキに戻すとカードを切り、また机に広げてシャッフルをする。カードをひとまとめにしたあと山札に手をかざしながら、

「これを三つの束に分けるんだけど、ここからの作業はお客さんにやってもらってもいいかも。『占ってもらってる感』も出るし、自分で切ったカードっていう思い入れもできる。この『3』という数字はタロットの世界では大切な要素、ってことだけいまは言っておくね。じゃあ、シロくん。早速この山札を三つに分けてもらっていいかな? 好きなところで分けていいから」

 燎太郎はこう言った。山札を白詩の机に移動させ、彼にまた向き直る。

 白詩は、口の端を持ち上げて返事をすると、おそるおそるといったていでカードを分ける。

「うん、いい感じ。その次はその三つの束をまたひとつに戻してくれるかな。どれからどう重ねるかは自由だよ」

 その白詩の動作を見届けると、燎太郎はこう続けた。白詩は緊張した様子だったが、

「子どもの頃、カードゲームでこうやって、友達とカード切りあってたわ。懐かし」

 という快活な声で、それを隠そうとしていた。燎太郎は気づかないフリをしながら、またひとつになったそのタロットカードデッキを白詩から受け取る。体を正面に向き直すと、自身の前で弧を描くように広げた。その上で指を泳がせながら、

「こういった動作の演出も〝らしさ〟を出せると思うよ」

 と、くすりと笑った。つられて何人か笑う。燎太郎は少し空気が緩んだので安心した。

「あ、おれ肝心の……なにを占いたいか聞き忘れてた。なんについて占いますか?」

 燎太郎は少し芝居がかった声でこう白詩に尋ねる。

「そうね、おれの運勢的な? もっと具体的な方がいいかな……。じゃあ、おれ、文化祭成功させられるか占ってもらえますか。文実としてもさ」

 顎に指を当て少し考えながら白詩が答えると、いつものニッとした笑いを浮かべた。顔だけを白詩の方へ向けると、燎太郎は微笑み首肯した。

 緩やかな弧を描くカード群から、つまみやすそうなカードを引く。燎太郎は案外こういった、一見ささいなことで引っかかりを覚えるカードになにか理由があると、本で読んだ気がした。手首を捻ってカードを裏から表へとめくり、その図柄を燎太郎と白詩のちょうど真ん中あたりの机上へ置いた。「悪魔」のカードだった。

「わあ、これまた明らか悪そうなカードじゃん」

 白詩が乾いた笑いをあげる。燎太郎は苦笑いを浮かべる。

「うん、このカードは正位置だとあまりよくない。でも、逆位置だとその意味も反転するんだよ。ほら見て、この男女。頭が下にきてる。このアルファベットも逆さまだよね」

燎太郎はそう言うと、カードの端のほうに書いてある文字を指した。

「例えば、タロットの右側が未来を左側が過去を表すといわれてるんだけど、カードが逆だと左右も変わるでしょ?」

 視覚的にわかりやすいように数回、燎太郎はカードの上下を入れ替えてみせた。生徒たちが前のめりになってその様子を見守った。

「陰陽五行なんかでもいわれてることなんだけど、男女は対なんだ。そうだね……いまのこの時代ではあくまでも、〝タロット占いでは〟という注意は必要だけど。異なる性質を表してる」

 ざわめきを敏感に感知して、燎太郎は注釈を入れた。

「そしてこの五芒星」

 燎太郎は、カードの中でヤギのような立派な二本の角を生やし、コウモリの羽を持つ大きな悪魔の頭を指差した。まるで冠を戴いているかのように星が描かれていた。

「えっと、ややこしいんだけど。逆向きの五芒星は邪悪なものを呼び覚ますと言われてるんだ。でも、カードが逆向きだとこの星も正五芒星……普通の向きの五芒星に戻るよね? 脅威は避けられたといえる。こんな感じでカードを読み取っていくんだ。相手の話と照らし合わせてね。自分の中にあるインスピレーションとの戦いだよ」

 ここまで説明すると、燎太郎はひとつ頷く。すると、白詩がまるで意地悪を言うような声色でこう続けた。

「脅威は去った。つまり〝おれの文化祭〟は成功するってこと?」

 目を細める白詩。イタリアの包丁メッザルーナを思わせる。半月の名を冠するそのナイフはヒヤリとした金属の質感と、鉄の匂いを連想させる。燎太郎は思わず、親指で人差し指の爪をなぞった。指先をかばう行為だ。少し冷たく感じられる。

「うん、『悪魔』のカードの逆位置は『解放されて出口が見つかる』状態を表しているんだ。悩みはきっと消えるよ。自信を持って、成功への道を進んで」

 燎太郎は親指を止め、白詩に向かって笑顔を向けた。 

 続けてクラスメイトと、悪いカード(逆位置で悪くなるものも含め)を引いたときの会話の持ってゆき方。全部で七十八枚のうちから、なぜ二十二枚だけを使うのか、などを話し合った。

 

 そのあと、数名で3グループに分かれ、三つのタロットデッキを実際に触ってもらい、絵の中にどんなことが描かれているか、ノートにリストアップしてもらった。その際に気づきがあれば一緒に書き出してもらう。燎太郎はその様子を観察しながら、適性がありそうな生徒を探した。考察が好きな人にはそれがあるだろう、と燎太郎は考える。人の話に耳を傾けるのが巧い人もそうだろう。そうやって今日の準備は終わった。


 燎太郎はふーっと一息つくと、健吾がずっと静かだったことに気づく。帰り支度の喧騒の中、燎太郎は隣に座る健吾に声をひそめそっと話しかけた。彼は腕を組んで目を伏せている。

「健吾くん、ひょっとして……眠い?」

 健吾は「あっ」と声をあげると、慌てて姿勢をピンと伸ばし、

「……ごめん。もしかしてもう終わっちゃった。ごめん、半分くらい……いやそれ以下かも。その、話がわからなくて……。オーディンのとこだけは、はっきり覚えてるんだけど」

同じく声をひそめこう返す。

「……大丈夫かな、ぼくはなにか役に立てるんだろうか」

 ため息を小さく吐き、健吾の背中はまた丸まってくる。

「いっぱいあるよ、健吾くんの役割。……例えばさ、クラシックギターでムードのある曲を弾く。バッグクラウンドでさ。占いの館の雰囲気がグッと上がるよ」

「あ、いいなそれ。生演奏のお店なんて贅沢じゃないか」

 燎太郎はちょっとしたジョークのつもりだった。なのに健吾がパッと顔を明るくし、案外ノリ気になったので驚いた。

 しかし、すぐにそれもそうだと、燎太郎は納得した。

「健吾くんが館にいるときに入ってきたお客さんは、ラッキーだね」

 ふたりで小さく笑うと、燎太郎はやっと息ができたような気になった。肺にあたたかい空気が満ちてゆく。しかし、熱は柔らかく丸みを帯び始め、長かった夏がそろりと過ぎ去ってゆく足音が聞こえる。



 家に帰ると、燎太郎は私物のタロットカードをスマホのカメラで撮った。

「魔術師」「運命の輪」「節制」「世界」……。

 その画像をスマホのメッセージ機能で健吾に送ると、「四大元素」「錬金術」の要素が含まれていることを説明した。すぐに健吾から返信が届く。『そういうことは早く言ってよー俄然興味が出てきた』という言葉と共に、目をくの字にして悲しむ絵文字や、ムンクの『叫び』のように青ざめて、手を頬に置いてある絵文字が踊る。

 燎太郎は空笑いを浮かべつつ、これにも、それはそうだと思い『ごめんね』と送り、汗かき笑う絵文字を添えた。明日は健吾から質問責めにあうかもしれないと思ったが、燎太郎にとってそれは楽しみなことだった。 



♠♠♠



 放課後、第一音楽室(兼軽音部の部室)の近くを通ると白詩のボーカルが聞こえてくる。

以前彼は「声量が欲しい」と言っていたが、しっかり声が出ていた。燎太郎は白詩の「ホーム」に引きずり込まれないように、素早く図書室に寄ったら職員室へ、目的地へと向かう。


 文化祭当日、教室でギターを弾いても大丈夫か職員室で尋ねたら、あっさりとOKが出た。占いの館自体が厳かな雰囲気で行われる上、他のクラスの体験型にはお化け屋敷や手作りジェットコースター、脱出ゲームなどもあり、騒音はお互い様だから、ということらしい。燎太郎はほっと胸を撫でおろすと、健吾の他にもギター演奏希望者がいたら参加者を募ろうと思った。


 二階に上がると、教室に入る前に廊下の窓から空を見上げた。空の色は紺に近いくらい青が深かった。ひつじ雲が列をなしてどこかへ向かっている。牧羊犬に追い立てられているのだろうか。このポロシャツもどこかヒツジに似ているかもしれない。燎太郎はため息を吐くと、笑顔を作り教室に入った。

「図書室からわかりやすい本借りてきた。高嶋さんが前に用意してくれたものも含めて、一番自分が読みやすい本を探すといいかも」

 準備中の生徒に声をかけ、燎太郎は三、四冊の本を教卓に置いた。

「もちろん、全部読んでも大丈夫。内容に大きな違いはないから混乱することもないと思うよ。自分が一番しっくりくる文体やレイアウトの本を読んだらいいかもしれない。あと、タロット占いじゃなくてタロットの歴史に焦点を当てたやつも一冊」

 燎太郎がこう補足をし、表紙を立ててみんなに見せたあと、教卓に加えた。すると、作業の手を止め、何名かの生徒が教卓に置かれた本を読み始めた。

 歴史展示班は、ノートにラフ画を書いていた。冊子班も、どこをピックアップして載せるか検討していた。そのほとんどは志望者だった。

 十一台の机、その広い机のスペースを遺憾なく発揮し、大きな紙が何枚か広がっていた。

 内装の雰囲気作りのための、ブースを区切るテントのような天蓋は、紫のサテン生地でクラス予算から買ったものだ。手芸部や裁縫が得意な生徒に制作を任せている。時折、タタタと、規則的なミシンの音があがる。縫製班たちは別のテーブルをいくつか塊にしてその作業をしていた。

 燎太郎はふたたび注目を集めるために大きな声をあげ、

「そして『生演奏って雰囲気出るじゃない?』って件。六角くんのクラシックギター演奏、いま職員室で許可もらえたよ。他にも希望者がいたら是非一緒にやりましょう」

と呼びかけた。何名かの生徒の目が輝く。


 教卓にぽつぽつと生徒たちが集まりはじめた、そのとき、教室のドアが乱暴に開き、

「おつかれー」

 と大きな声が一緒に飛び込んできた。手にはコンビニの袋を持っている。

「はーい、アイス差し入れー。モカに感謝してねー」

 とそのビニール製の袋の持ち主は言った。萌花は表面上はにこにこしている。そして、彼女の側に立っていたものから袋の中身を配り始めた。

 生徒たちは笑顔を引きつらせながら「ありがとう」と、受け取る。急に手元が冷えたもので、クラスメイトたちは戸惑っている。

 ――萌花が、ちゃんと真面目に文化祭準備に参加していたなら、あるいは嬉しかったのかもしれない。しかし、萌花は、最初の話し合いの日に出て行ってから、なん日も過ぎてやっと再びこの文化祭の準備に顔を出した。

 ひょっとして、と燎太郎は考える。白詩が軽音部の練習に時間を割くようになって、教室内の「後ろ盾」がなくなったから、差し入れでご機嫌を取ろうとしているのだろうか。そんな物がないと教室になじめないと思うなら、放課後の教室になんか、いっそ来なければ良いのに。……白詩が言ったとおりに。

 むしろ燎太郎には彼女がなにかに怖がっているように思えてならない。


 萌花は「どーぞ」と甘ったるい声で、燎太郎の手を包み込みながらアイスを渡すと、近くにいた健吾には「はい」と低い声でほとんど投げてアイスを寄越した。燎太郎は、すぐにそれに反応し、怒りを抑えながら苦言を呈そうと萌花の方に体を転換した。健吾は「冷泉くんいいんだよ……慣れてる」と燎太郎に耳打ちした。

 燎太郎はうなだれ、その言葉に下唇を噛む。健吾は、そそくさとアイス配りを完遂しようとする萌花に歩み寄ると、申し訳なさそうにこう言った。

「朝倉さんありがとう。せっかく買ってくれたのに、ごめんね。でも、ぼくはアイスの棒のフィトン……えっと木の匂いが苦手だから、棒アイスは食べられないんだ」

 燎太郎はそれを初めて聞いた。萌花を見ると、マスカラのたっぷり塗られた目をみるみる開く、と、わなわな震えた。

「モカが買ってきたモンに文句あんの?」

 萌花はキンキンと大きな金切り声をあげた。燎太郎と健吾は思わず耳を塞ぐ。

 燎太郎は健吾に小走りで駆け寄ると「パーカーのフード被せるね」と言い、健吾が羽織っている薄手でカナリア色のパーカーのフードをそっと被せた。「ありがとう」健吾はこう答えると、遠い目をした。クールダウンのルーティンに入っているのだろうか。

そのとき、いつのまにか教室に入ってきていた白詩が、

「萌花、本当に……いい加減にしなさい。人がいらないっていうものは無理やり押し付けない」

 トーンを落とし、穏やかにしかし萌花を叱る声でこう言った。

〝人がいらないっていうものは無理やり押し付けない〟燎太郎は健吾の呼吸のサポートをしながら、白詩がそれを言うのかと、少し悲しくなった。

「だからシロさあ、モカのこと妹あつかいするなっての」

 萌花は白詩を睨むと、わざと白詩にぶつかりながら教室から出て行った。

「健吾、大丈夫?」

 白詩が駆けよるが、燎太郎は白詩の方を見ずに「保健室、連れて行くから」と言った。

「うん、おれが言うのもなんだけど……お大事に」

 燎太郎は白詩に微笑むと、健吾を連れ保健室へと向かった。


 健吾の背中に手を当て、声かけをしながら、進路を確保して保健室に入る。長谷川先生はすぐに駆けつけ、何も言わずに燎太郎に向かって頷くと、健吾をパーテーションの向こうへ連れて行った。

「冷泉くん、ありがとう、教室、戻って」

 ぜえぜえと荒い息遣いで健吾はついたて越しに声を上げる。

「でも……」

 燎太郎は心配だった。

「連れてきてくれた、お礼に、ぼくのクールダウン、教えてあげる、特別だよ。頭の中で、元素の周期表、読み上げてるんだ。最近じゃ、ドットを打ってる」

 健吾は唇を振るわせながらも、心配をかけまいと、精一杯明るい声を出しおどけた。燎太郎は眉間にシワを寄せ、せわしなく瞬きをする。

 長谷川先生を見ると、眉を下げ静かに頷いた。自分がいても何もできないのが悔しかったが、燎太郎は一礼をして(きびす)を返す。後ろから「ありがとう、冷泉さん」と、先生の声がした。


 教室に戻ると、白詩が心配そうな顔で燎太郎を見た。大きくひとかたまりになった机の端に座り、

「健吾、大丈夫?」

 と、声をあげた。燎太郎が言葉もなく頷くと、

「……萌花がごめんね」

 と、重くるしい声を出す。

「……シロくんが悪いんじゃないよ。庇ってくれたし」

 燎太郎はこう返したが、声のトーンは平坦だった。

 ゴミ箱の中には、さっき萌花によって配られたアイスの残骸が積まれていた。パッケージと木の棒が、互い違いのように重なっている。あんな空気の中、アイスに当たったりしないこのクラスメイトたちを、燎太郎はほんとうに嫌いじゃなかった。

「じゃあさ、希望者のみんなで実践方式の占いやってみよ。おれ、お客さん役するから。想定されるやりとりをいろんなパターン出していくね」

 燎太郎は目を細め、控えめな笑顔を浮かべると、机のかたまりに入ってゆく。



♭♭♭



 九月だというのに蝉が元気に鳴いていた。サワサワというカエデの葉のざわめき。鳩の鳴き声。近所の工場から聞こえる「カタカタカタ」という音。いつも通りの昼のベンチ。

 今日もハーモニーを奏でていたが、心なしかそれらが短調風に聞こえる。

「昨日は送ってもらってごめんね」

 健吾がピーナッツバターサンドを手にこう切り出した。

 きのう、文化祭の準備が終わるころ、健吾は教室に帰ってきた。ギター担当のメンバーに合流すると、よろしくね、と声かけを交わしていた。健吾はみんなと一緒に文化祭を作り上げようとしている。……それなのに何が気に入らないのだろうか。

「ううん大丈夫、気にしないで」

 燎太郎はそう答えると、視線を泳がせる。目の前のカエデの葉に目をとめると、ツクツクボーシという鳴き声が降ってくるようだ。

「……ミスター・ポイズン、みんないなくなっちゃったんだよね」

 思わず口をついて出た。

「あっ、ごめん。嫌な言いかただったよね。健吾くんが駆除に動いてくれたのに、こんな……」

 燎太郎は健吾の方に顔を向けると、彼は意に介した様子はなく、ピーナッツバターサンドを黙々と食べていた。

「害虫と割り切るしかないだろうな」

 健吾はごくりと飲み込むと、燎太郎を諭すようにこう言った。燎太郎は頷きながらもどこかで割り切れない思いがあった。燎太郎も、タマゴサンドを咀嚼するとごくりと飲み込んだ。




 ――泣き虫燎太郎くん。燎太郎がテレビの密着取材を受けているときはこう呼ばれていた。キャッチコピーのようなもので、この特集が流れるときのアイキャッチにも「目指せカルメン 泣き虫燎太郎くんの奮闘記」という文字が踊っていた。

 燎太郎はこの呼び名に、最初は愛着を持っていた。泣くことが悪いとは思っていなかったから。

 オペラやミュージカルを観劇するときは、自分だけではなく誰もが涙していたし、自分の世界ではそれが当たり前だった。

 教室でも、学級文庫の本の世界に出かけたとき、音楽の時間にクラシックを聴いて、その曲の主人公に語りかけられたとき、涙腺に従い涙を流していた。それがある日――。

 クラスの特別学習で、映画を観ていたときにそれは起こった。

 生まれたときから抑圧されて生きていた女性が、自身のアイデンティティを取り戻すシーンだった。カッチリと結い上げていた髪をふりほどき、両の拳を高々と突き上げた。〝自分を生きる〟という決意表明だった。小学生のときはそこまで読み取れてはいなかったと思うものの、その圧倒的な充実感と胸を突き上げるカタルシスに涙が溢れ出して止まらなかった。

「もう、また! 燎太郎が泣いてる。いい加減うっとうしいって。しかも男子なのにさー」

いきなり、隣の席の児童が立ち上がり、こう叫んだ。それに呼応するかのように何人かパラパラと立ち上がり、

「泣き虫燎太郎くんが出た!」

「泣ーき虫! 泣ーき虫!」

 と囃し立てる。合唱のように教室に響き渡っているように感じた。しかし、燎太郎にはなにが起こったかわからなかった。きょろきょろとあたりを見渡し、

「え、でも。木崎(きざき)さんも、梶原(かじわら)(かじわら)さんだって泣いてるし……」

 咄嗟にこう言った。幼いなりに自分の正当性を主張したつもりだった。頬がまだ濡れているが、急にそれが汚れのように思えてきた。

「こいつらは女子だからいいの。映画みて泣くのは女子だけですー」

 さもそれが当たり前のように、小さなクラスメイトは胸を張って主張する。先生はずっと「やめなさい」と、言ってくれているが、彼らの耳には入っていないようだ。燎太郎は名前を出してしまった木崎や梶原に対し、申し訳なく思った。

 

 うええ、と声を上げ、誇張した燎太郎の真似をはじめるものが現れた。クラスメイトの笑い声が教室を震わせる。そのとき燎太郎は自分の涙がどのように見られているか、ほんのりと理解し始めた。

 それと同時に身体が熱くなってくる。下を向いてその熱に耐えていると手足が震えだす。 先生が立ち上がった児童を一人ひとり座らせ、そこでようやく事態は収束を迎えた。まだクスクスと小さな笑い声は聞こえてくるが。

 燎太郎は、自分のせいで映画を楽しむクラスメイトを邪魔してしまったことが、本当に申し訳なく、恥ずかしかった。

 その映画の主人公は「あなたのこうあるべき姿」という周囲の目に苦しんでいた――。



♪♪♪



 教室にギターの音が響く。教壇の上で文化祭のギター担当班が練習をしていたからだ。クラシックギターは第二音楽室から何台か借りることができた。初心者でも参加できる

ように、こうやって経験者が教えあっていた。

 アラビアン・テイストやボサノバ風など、どの雰囲気でいくか試行錯誤しているようだ。

「占いの館」といえば、こういったメロディーを思い浮かべる。ジャンルの出自は考慮せず、雰囲気重視で音楽が選ばれているようだった。しかし、かれらロマは本当に「こういったメロディー」を奏でたのだろうか。

 カルメンすら、誰かの思い浮かべるイメージが作り上げた虚像かもしれない。歴史の幕間で、うっすらかすんでゆくカルメンを思う。



 夏服のポロシャツと、冬服のブレザーが入り乱れるこの教室には、入り口の看板や、室内の案内図などが並び始める。絵の具やアルコールマーカーの匂いが鼻を掠め、窓にはオパールグリーンのカーテンがはためく。

 燎太郎はギターの音色に頬を緩め、当日の「シフト」を組んでいた。十一台の机で構成された拠点には占い手候補が座っている。

 タロットは三セット全部を使い、サテンの天蓋で飾りつけられた三つのブースに分かれることになった。占いはやはり定番で人気がある。こうやって占い手の負担を減らしてゆく方向だ。占いの適性がある生徒もだんだんわかってきた。


「おれもギターやりたい。軽音部がなければなー。でも、ちゃんと顔出すから。そんときはこきつかってね。輩とか追い出すよ」

 軽音部の練習から抜け出した白詩が、教卓に手をついてこう言う。作業中の生徒たちがどっと笑う。

「シロ、じゃあいま手伝って、こっち。色塗ってよ」

 内装班が親し気な笑顔を向け手招きすると、白詩は「はーい」とはつらつと返事をしながら、その和に加わった。妙にカン高いギターのメロディが流れ、燎太郎は再び頬を緩める。


「おつかれー」

 一瞬で教室内に緊張が走る。「またなにか起こるってしまうのか」と、いった空気の中に、泣き出してしまいそうな生徒さえ包みこんでいる。

 それが準備期間にトラブルしか起こしていないクラスメイトの声だったからだ。一度も顔を出したことのない萌花のグループも一緒だった。

 しかし、彼女たちは教室に入りはしたものの、他の生徒には一瞥もくれず、教室の隅で喋るだけだった。

「萌花、こっち。一緒に色塗りしよ」

 白詩が見かねて、穏やかに声をかけた。

「は、ヤダよ。制服汚れるじゃん」

 萌花はそう言うと、仲間たちと手を叩き笑った。

「朝倉さん、よかったらエプロンあるよ」

 高嶋が萌花にこう声をかけると、普段は使われていないロッカーに手をかけた。準備期間中はここに、文化祭用の衣類を保管してある。

「は、エプロンだって。ウケる」

 萌花がまた手を叩き笑うが、燎太郎にはなにがそんなに可笑しいのかわからなかった。

「萌花……」

 白詩はたしなめようとするが、その声にはどこか諦めも滲んでいるようだった。

「はいはい、どうせまたモカが怒られるんでしょ? てか、ギターうるさい! なんでモカが喋ってんのにやめないの?」

 萌花は教室の前方入り口付近から、教壇の上の健吾の方に顔を向け、また八つ当たりをした。ギター班がびっくりして演奏を止める。

「朝倉さん、ギター弾いてるときって集中してるから。それに、準備期間中はずっとギターが鳴ってたんだよ。朝倉さんの声に被せているわけじゃないの」

 燎太郎は立ち上がり、萌花の方を向いた。彼女は燎太郎に顔を向けると健吾を睨みつけていた目がデレっと緩む。

「え? 知らないし。てか、燎太郎くんさ『健吾くん係』ホント大変そう」

 萌花はケラケラ笑うが、周りの仲間たちは青ざめた顔を見合わせ「ヤバいよ」と、口々にささやく。そこで初めて萌花は「あっ」と声を上げる。

 その様子を見ると、「健吾くん係」という言葉が適切に使われていないことが、燎太郎にはよくわかった。


「取り消せよ!!」

 自分でも信じられないくらい大きな声が出た。燎太郎は「係」だから健吾の側にいるわけではない。これまで慎重に積み重ねてきたふたりの関係を攻撃的に踏みつけられたようだった。

 でも、それ以上に自分のなかにもこんな暴力性があったこと。そのことに……膝を折ってしまいたいほどの絶望が覆う。

 ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。はらりはらと丸い水が頬をかすめて落ちてゆく感触が伝わる。カーディガンに雫が落ち、やがてゆっくりと染み込んでゆく。身体の中でマグマが沸騰しているようだ。そのことに屈辱を感じる自分も恥ずかしかった。こんなの、あいつらと同じだ。自分が大嫌いなあいつらと――。胸を締め付けるリズムがどんどん速くなる。

「冷泉くん大丈夫。ぼくの係なら過去にもいたよ。気にしてないから。ていうか、面倒かけて悪いと思ってる。みんなにも冷泉くんにも」

 班の仲間にギターを預け、健吾が燎太郎の隣に来ると、彼は穏やかなトーンでこう言い切った。涙で歪んだ視界の先に心配そうな親友の顔が浮かんだ。燎太郎は彼のその言葉にまた、抑えきれずに涙がこぼれ落ちる。

 クラスメイトはしんと静まり返り、息を飲んだように凍りついていた。空調の音だけが響く。燎太郎は嗚咽を漏らしそうになりながらも、

「大きな声を出してごめんなさい。朝倉さんも、クラスのみんなも」

 と、どうにか絞り出した。指先が冷たい。影に潜んでいた伏兵がいきなり飛び出し、指先の血を全て抜いていったようだ。呼吸が乱れ始めるのを感じたら燎太郎は、ゆらゆらと教室を出る。

 ――泣き虫燎太郎くん。

 引き戸のレールを跨ぐとき、そんな声が聞こえた気がした。

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