六章 夕日にとける女帝
「だってモカ、ずっと燎太郎くん、推しだし。むかし、めっちゃ髪サラッサラだったんだよ? もうホント天使ってカンジ! いま、なんであんな枯れかけの牧草みたいな地味な色してんだろ? パッサパサじゃん。もったいなくない?」
クラスメイトの朝倉萌花の大きな声が、燎太郎のヘッドホンを貫通する。燎太郎は思わず手で、髪を隠してしまいそうになるのを堪えた。ショーケース越しに商品を見るような目。きっと彼女は今、そんな目をしている。燎太郎にとっては別にはじめてのことではなかった、が。
「萌花、枯れかけの牧草見たことあんの?」
教室前方出入り口すぐの、萌花の机に片手をつき、少したしなめるように白詩がこう返す。
燎太郎はこのセリフを、二日に一度くらいヘッドホン越しに聞いている気がする。ヘッドホンはすべての音を遮断できるわけではなかった。ため息を噛み殺す。
ふたりは付き合っていることを公言していた。白詩のアッシュピンクの髪と、萌花のアッシュブロンドの髪。燎太郎はこの色のコントラストだけは好きだった。
そのまわりを、数人の生徒が取り囲む。白詩のグループと萌花のグループは、なし崩し的に、ひとつになりつつある。
燎太郎は、手にした文庫本に目線を落としながら、そんなところにたむろして、教室に入ってくる生徒の邪魔にならないのか、と思う。――ああ、もう。そんなこと考えている場合ではない、朝の十五分は貴重な読書時間なのに。
そんな思いとは裏腹に、文字がグラグラ揺れる。きっと自分の目線が泳いでいるのだろう。こうなると、文章が頭に入ってこないので燎太郎は困った。
燎太郎は朝のホームルームより、十五分ほど早く学校に着く電車を利用していた。白詩たちも同じ電車を利用しているのだろうか。燎太郎は駅からコンビニに寄ると、それから早足で教室に入り、早々にヘッドホンをつけるのでわからない。わからなくてもよかったが、音楽をかき消すほどの大声で喋るのはやめてほしかった。そう思っているのは、きっと燎太郎だけではないだろう。
「いや、あるよ! 家族で牧場行ったことあるし」
萌花は白詩の質問(と言えるのだろうか)にこう答えると、ギャハハと声を立てた。
燎太郎は、白詩たちとは逆の窓側を見た。厚い雲が空を灰色に染めている。燎太郎は窓際、後ろを見ると、いつもより早く健吾が自分の席に到着し、椅子を引いているところを捉えた。燎太郎は微笑みをこぼし、文庫本とヘッドホンをリュックにしまうと、健吾の席に向かった。
「おはよう、今日は早いね」
燎太郎は、健吾の右前に立つと、挨拶をした。
「おはよう、冷泉くん。いやあ、今日は早朝に目が冴えちゃって。早めに来た」
リュックから出した教科書を整理しながら、健吾も挨拶をする。
「目が冴えた? なにかあったの?」
少し心配になり、燎太郎は尋ねた。
「ふふん、実はね、SNSにドット絵をアップするアカウントを開設したんだ」
声をひそめ、健吾はこう言った。
「え? 大丈夫?」
「ん? なにが?」
「あ、いや」
SNSは危ない、そんな先入観から思わず「大丈夫」かなんて尋ねてしまって、燎太郎は口を濁す。
何も言えずにいると、
「ぼくとコラボしたことのある化学系配信者さんが、ドット絵、見てもらわないともったいないって、言ってくれたから。載せてみたらさ、反応が気になって目が冴えちゃった」
健吾はこう答えた。燎太郎は健吾のドット絵を知っているのが、自分だけではないことに、しくりと胸が痛んだ気がした。
「見てみる?」
健吾が、そわそわしながらこう訊くので、燎太郎はそんな気持ちをおくびにも出さないように努め、
「見たい」
と笑った。健吾はスマホを取り出すと、燎太郎の方に向けて、器用に操作する。スマートフォンに閉じ込められた健吾のピクセルアート。色彩は相変わらず美しかった。ただ、小さな画面の中でじっとしている姿は、少し窮屈そうに感じられた。
その中に、自分に見せてくれた初めてのピクセルアート「ハイドロマギサ三姉妹」がなかったことに少し、ホッとしてしまった。おれの心の方がよっぽど窮屈だ、と燎太郎は思った。
「あ、少しだけ『いいね』のハートマーク増えてる! 嬉しい」
健吾は声を弾ませる。
燎太郎は、胸に潜んだ自分勝手な寂しさ、のようなものを追い出すために、息をフーッと吐くと、このことが健吾の夢へ一歩近づけたらいいな、と願った。
「いま、カルメンのなにかかな、冷泉くんはなんだかんだで、やっぱりそれが多い」
えっと声をあげ、戸惑ってしまったが、すぐに「今朝の音楽」のことを言っていると燎太郎は気づく。
「あ……。なんか、いまショパンの『葬送』かも、ピアノソナタ……」
「ええっ! オペラもまだ把握しきれてないのに、ツリー、枝わかれしないで!」
燎太郎が言いにくそうに告げると、案の定、健吾は頭を抱えてしまった。「ごめん、ごめん」と笑っていると、白詩が近づいてくる気配がした。石鹸の香りが強くなったので。燎太郎は、これ健吾大丈夫なんだろうか、と思う。そんなにキツくないとはいえ。
「おはよー、おふたりさん。ねえ、中間テスト大丈夫そ?」
白詩が、燎太郎の肩に手を置きこう言うと、さっきまで騒音を上げていた生徒たちが、急にしんと静かになる。見るまでもなかった。白詩と自分たちを観察しているんだ。燎太郎はそう思った。頭の中の音楽が、ハバネラに切り替わる。鼓動のようなあのリズム――。
ハバネラには様々な視線がざわめいている。
カルメンの魅惑に対する好奇の目。
からかい。冷やかし。軽蔑。
それらが音に乗ると、和音の乱れとなってほつれを生む。
ふいに« Prends garde à toi »と、かけ声が上がった気がした。しかし、それはクラスメイトがどっと笑った声だった。
「ああ、理系なら大丈夫だと思う。国語もいまは冷泉くんが教えてくれるからな」
健吾が白詩にこう答える。白詩は「へえ」と笑うと、
「燎太郎は?」
笑顔のまま燎太郎の顔を見た。
「うん、同じく。健吾くんが教えてくれるから大丈夫」
構わなくて、大丈夫だから、と、燎太郎は心の中で繰り返した。
「そっかー、我がクラスが誇る、理系と文系の星で勉強したら最強じゃん。ね、おれも理数壊滅的なんだけど、一日だけでいいからさ、健吾、教えてもらえないかな? 放課後、三人で勉強会しない?」
すらすらと、つっかえもせず、白詩はこう言い放った。
どうする? という風な顔で健吾は燎太郎の顔を見る。――ずるい。おれだけだったら断れるのに。燎太郎は精一杯の笑顔を浮かべ、
「うん、いいよ。健吾くんがよければだけど」
と、答えた。
「えっ、いいなーモカも一緒に行きたい」
萌花が小走りで、窓際まで来る。白詩の腕に絡みついてこう言った。
「遊びじゃなくて勉強だよ、萌花できる? 一緒に来たらちゃんと勉強しなきゃダメだよ。つか、健吾いい? 大丈夫そ」
健吾は白詩に「構わないよ」と言った。気のせいかもしれないが、少し笑顔が引きつっているようだ。
「ええー? 勉強はしない。いるだけじゃダメ?」
「勉強しないならダメ、萌花すぐ喋って邪魔するから」
言い聞かせるように白詩は萌香の腕を離す。
「うざ。シロさ妹いるからって、モカのことまで妹あつかい? ね、ひどくない?」
燎太郎の頭を見上げ、萌花は同意を求めた。
「そうだね」
さっき作った笑顔を崩さないように、燎太郎は頷いた。
白詩は両手を上げるとヒラヒラさせ、萌花の手を引いて通路側の彼女の席へと帰っていった。
「やば、聞いた? 『そうだね』だって、燎太郎くんと喋っちゃった。寿命伸びそう」
萌花はグループに戻ると、仲間たちとキャーキャー黄色い声を上げた。
燎太郎は不思議だった。彼女たちはなぜ、燎太郎が聞いていないことを前提で言うであろう言葉を、こんなに近くで喋るのか。グループの中で話したことは、まるで、グループの中でしか聞こえていないかのような、ふるまいをする。
燎太郎は教室の時計を見ると、予鈴がなる時間を指そうとしていたので、健吾に「じゃ」と告げると席に戻ろうとした。
「冷泉くん、今日のぼくは『勇者に捧げる戦闘曲』だ」
健吾が後ろから、燎太郎にこう声をかけると親指を突き上げた。燎太郎は、そういえば健吾の「今朝の音楽」を聞いていなかった、と思いながら親指を突き上げ返した。
聡信学院の図書室の横にある、談話室では勉強を教えあう生徒であふれかえる。燎太郎は初めて入った。
放課後のざわついた空気。ただし、部活動の音は聞こえてこない。テスト期間前なので。
白詩は慣れた様子で、奥の席を体と両手で確保すると、燎太郎と健吾に向かってニッと笑った。紙のすえたような匂いがする。燎太郎は健吾の顔を見るが、特に辛そうな様子はないので安心した。教室の半分ほどのスペースに、白い長テーブルが四つ。アップルグリーンの椅子が乱雑に並び、いま白詩が確保した以外の席は、ほとんどが埋まっていた。
「さてさて、何からしようかね」
白詩がノートと教科書をリュックから取り出しながら言った。曇り空の下では、白色灯は人工的でわざとらしく光るようだ。いつも人のいい笑顔を着ける、まるで、白詩のコロンのように。
「シロが苦手なところでいいだろ、理系の。と言ってもぼくはバケ学が一番得意だから、教えられるほどのはそれだけ、だけど」
健吾が椅子を微調整しながら白詩に提案した。彼が真ん中に座ったのは、白詩と燎太郎、ふたりの文系をカバーできるように、だろう。
燎太郎は落ち着かない思いで、教科書とノートを用意した。聡信の方針では、タブレット学習を用いない。(その代わり、タブレットの扱いを学ぶ別途授業がある)
「ええっ、苦手なトコつって、全部苦手だよ。んー……じゃあ有機化学、せっかくだし基礎からさらい直しとこうかな」
白詩はシャーペンをくるくる回しながら、片手で教科書をめくる。
「アルカン、アルキン、アルケン、芳香族炭化水素、この分類はちゃんとできるか? これができると後々まで役立つ」
健吾がこう切り出すと、白詩はシャーペンをポトリと落とし、
「やば、わかんないかも……」
と答える。
「そうか、じゃあアルカンからいくぞ。身近なものだとガスコンロの燃料……プロパンガスや都市ガスだな、あとは車のガソリンなんかに使われてる」
健吾が落ち着いてこう返すと、燎太郎も慌ててノートを開く。白詩と燎太郎で健吾を挟むようにして飽和炭化水素の説明を聞いた。組体操の「扇」の反対みたいだ。
健吾はベンゼン環の説明になると、少し脱線して「いかに六角形が調和の取れた完璧な図形か」を熱く語っていた。ベンゼン環と同じく、六角形の形を持つハニカム構造や、雪の結晶にまで話題が及ぶ。白詩が燎太郎の方にアイコンタクトというか、困惑の目を向けたが、さすがに燎太郎は苦笑いを返してあげた。
「健吾くん、ちょっと話逸れてるかも」
燎太郎はたしなめるように健吾に声をかける。
「あ、すまない。どこまでいったっけ?」
健吾はあっと驚いたような顔をして、ノートに目をやる。白詩が健吾のノートを指差し、
「えっと、ここまで」
と言った。健吾のノートには「炭化水素のみで構成された」と彼の字で書かれてあった。右上がりでクセのある字。
「ああ、これか。あのね、芳香族化合物でも、ベンゼン環を持たないものもあるから注意ね」
燎太郎と白詩は「ええっ」と声を上げる。
「あ、ごめん混乱させちゃったよね。これ大学の範囲かも……芳香族化合物の中でも、『炭化水素のみで構成された』ものが芳香族炭化水素だから。これが高校の範囲か。冷泉くんとシロは、アルカンとかも含め、試験によく出るものから覚えたらいいかも。ノートに書いていくから写して。それもあとから説明するから」
健吾がノートに、アルカンと書くと四角で囲み、その下にメタンCH4、エタンC2H6、プロパンC3H8、とスラスラ書いた。
燎太郎と白詩は健吾のノートを囲み、必死で書き写した。健吾のシャーペンの動きを、少し遅れて追いかける文系ふたり。このときはざわざわとした声も遮断されたように、燎太郎は思う。
ひと通り説明を受けると、
「冷泉くんもシロも、基本が抜け落ちてるから、それからさらい直すというのはすごくよかったと思う。基本ができたら、色々応用が効くからね」
健吾がうんうんと頷く。
「健吾って意外に教えるの上手いよね」
白詩がこう言うと燎太郎は眉をひそめ、意外には余計だよと思う。と同時に、
「ああ、意外にとか言ったらあれだけどさ」
白詩がフォローを入れた。
「いや、構わないよ。いちど小学生のときにそれで友達……うん、友達を泣かせたことがあってね」
なんてことはないような声と顔で健吾がこう言うので、白詩と燎太郎は健吾の方を見てしまった。
「友達が中学受験するっていうんで、理科と数学を教えるためにウチに来てた。そのとき『なんでわからないの?』って繰り返し訊いてたら、泣かせてしまった。ウチの親から叱られたよ。……それからぼくは『自分がわかること』が『当然相手もわかるはずだ』という認識を改めた、ま、黒歴史だよ」
健吾がフッと笑って、しんとした空気を変えようとした。燎太郎は、
「すごいね、自分を省みるなんて、そしてちゃんと改善するなんて、なかなかできることじゃないよ」
心の底から感心して頷く。
「……強いんだな、健吾」
白詩まで神妙な顔をするので、健吾は「どうしたの、ふたりとも」と少し照れくさそうにした。
「うん、健吾くんは強いんだよ。カルメンみたいに」
燎太郎は思わずこう呟いてしまった。
「ええっ。ぼくってそんなに悪女みたい? カルメンって『ファム・ファタル』って呼ばれてるんだろ?」
すぐさま健吾から素っ頓狂な声が上がった。白詩が目を丸くして健吾を見ている。燎太郎は健吾に向かってシーっと人差し指を立てると、微笑みこう答えた。
「でもさ、おれはカルメンがそんなに悪女とは思えないんだよ」
健吾と白詩が、燎太郎の方をじっと見て言葉の続きを促す。息を呑む音が聞こえた気がした。
「同じ恋多き男でも、ドン・ジョバンニやファルスタッフは『愛すべきプレイボーイ』みたいなとらわれ方をするでしょ? ドン・ジョバンニなんかは地獄に堕ちちゃうんだけど、それすら潔い結末みたいに賞賛される」
「いや、『とらわれ方をするでしょ?』って言われても、おれオペラわかんないよ」
白詩が唇を尖らせ、こうこぼすと、今度は健吾が白詩に向かって「シッ」と、人差し指を立てた。
「誘惑して略奪、なんてもちろん悪いんだけど。カルメンはドン・ホセに『もうあなたに愛はない』とはっきり断ったんだよ……ある意味誠実だと思う」
燎太郎は白詩の顔をちらりと見て、ツインボーカルの申し出をキッパリ断れなかった自分を思い出す。白詩はポカンとした顔をしているが、きちんと聞いているようだった。
「それなのにカルメンは悪女、彼らは、ことさら『悪い男』だとは語られない」
カルメンは自分の思うままに生きただけ。なのに時代という価値観に縛られ「悪女」という檻に窮屈に囚われて、そして、ラベルを貼られている。それは自分と同じ。
「天才少年」というラベルを貼られ、好奇の目に晒されてきた。自分の涙も髪も、燎太郎が持つ宝石のごとく、娯楽に変換され消費される。それは、見えないナイフで痛みもなく、少しずつ身を削られる思いだった。
「もちろん、時代背景がそうさせてるのはわかってる。でもさ、いまの時代にせっかく目線が変われたなら、せめておれだけでもカルメンはそんなに悪女じゃないよ、って声かけてあげたいの」
健吾と白詩は言葉もなく燎太郎を見ている。燎太郎は彼らの視線に気づくとハッとして、
「あ、ごめん。一番脱線してるのおれだ」
慌てて謝ると、茫然自失といったていでうなだれた。
「いや、ふたりとも、羨ましいよ。いつもこんな感じで話してるんだなあ……」
すると、目を伏せて、白詩が呟く。少しおどけた調子を出しているが、本音に感じた。
燎太郎は、つい、自分たちの和の中に白詩を入れてあげられないことを、申し訳なく思ってしまった。
「じゃ、基本は抑えたし、次は試験範囲のとこ教えてもらっていい?」
気持ちを切り替えるように、明るい声で白詩が仕切り直す。燎太郎と健吾は弾かれたように教科書をつかみ直す。
つかの間、冗談みたいなオレンジが空を染めていた。快晴日前日特有の大きな夕日が通学路を染める。白いワイシャツも今だけはオレンジ色。
昇降口を出たところで、
「ごめん、コンビニ寄っていい?」
と白詩が言うので、裏門から歩いてすぐ、タウンハウス横のコンビニに入った。白詩はアイスのショーケースまでふたりを連れてゆくと、
「好きなの、選んでいいよ。今日のお礼」
と、笑った。
「えっ、悪いよそんな。気にしなくていいのに」
健吾がぶんぶんと手を振って固辞する。眉が少し下がって困り顔だ。
「いいって、いいって。本当はこんなもんじゃ足りないんだし。なんなら、アイスじゃなくても、お菓子とかチキンとかでもいい」
いつもの人のいい笑顔で白詩はこう答えた。警戒という盾を溶かすような笑顔。健吾が「じゃあ……」と言うと、白詩はニッと笑ってショーケースのドアを開けた。
健吾がソフトクリームをつかむ横で、燎太郎が固まっていると、
「ホラ、燎太郎も」
白詩が肘でつついて促す。
「えっ、おれは本当になにもしてないし……」
それもあるが、燎太郎はこれを受け取るのが、なんとなく……シャクだった。
「いいから、いいから早く選ばないとアイス溶ける」
悪戯っぽく急かされて、燎太郎は思わず青いソーダのアイスを取り出した。パタンと小気味のよい音がして、ショーケースの冷気が途絶えた。
白詩は、ふたりからいったんアイスを預かると、スマホで会計をした。自分は飲み物だけを買っていたようだ。
「今日は本当にありがとね、ベンゼン環覚えたから。つか夢にまで出てきそう」
白詩は笑うと、アイスを差し出した。
「ありがとう」
燎太郎と健吾が声を揃え、お礼を言うと。
「じゃ、おつかれ。ふたりとも気をつけて帰ってね」
と、手を挙げながら自動ドアの向こうに消えていった。白詩なりに気を遣ったのだろう。
残されたふたりは、顔を見合わせたのち、イートインスペースに座る。陽気なBGMと一緒にペリペリと包装を剥ぐ音が響いた。窓越しのオレンジはもう消え、薄暗い紫の幕が空全体を覆った。
白詩は、燎太郎と健吾のふたりに……ヘタをすると萌花にも、話しかけるとき、地声よりワントーン上がる。本人は気づいていなさそうだが、子どもをあやすような声だ。
燎太郎は剥き出しになったソーダアイスを舐める気にもならず、じっと眺めていると、となりで健吾が、
「アイス助かる。糖分補給もできるし、物理的なクールダウンもできる」
と言いながら、ソフトクリームにかじりついていた。ふと、彼はアイスを持っていない方の人差し指で眉間を抑えると、
「……アイスクリーム頭痛にだけは気をつけないと」
呻くように言うので、燎太郎はフッと笑った。
武田信玄も上杉謙信から塩を受け取ったんだ。このくらいはいいか。
燎太郎は薄水色のアイスキャンディーをかじり始めた。
冷たさと甘さ、そしてほんの少しの酸味が同時に口の中に広がると、燎太郎は自分が思っていたより疲れていたことに気づく。白詩の夢中でノートを取る姿、健吾を「強い」と感心した表情に嘘はなかったように思うが……。それでも、燎太郎は白詩の魂胆はわかっていた。
グラデーションの心。矛盾を抱える心は誰しも持っている、と改めて思いながらも、燎太郎は警戒の盾を構え直した。窓の外の夕日がビルの間にどんどん飲み込まれてゆく。
燎太郎は、アイスを食べ終わると立ち上がってゴミをゴミ箱に入れ、まだコーン部分をかじる健吾の横に座りなおす。
なんとなく手持ち無沙汰なので、リュックからタロットカードを取り出した。カルメンの影響で興味を持った。燎太郎はどれだけ自分はカルメンに振り回されているんだ、と自嘲気味に小さく笑う。
カードを軽く切って、適当なところから一枚取り出すと「恋人」のカードだった。
「タロット占いか? 占いは非科学的だと言いたいところだけど、占星術は統計学的な側面もあるからね」
その様子に気づいた健吾が、興味深そうに話を切り出す。燎太郎も「へえ」と小さく言いながら健吾の顔を見た。
「ぼくの運命数は『3』だ」
意外な言葉が健吾から飛び出してきた。
「運命数って、カバラ数秘術の?」
燎太郎はこう尋ねたあと、レトロゲームに使われがちなモチーフでもある、と思い当たる。
「そう、前に流行ったでしょ。計算できるものがあると、計算せずにはいられないからね。アルカナは『女帝』らしい」
燎太郎は耳を傾けながら、確かに運命数を自分の生年月日から導き出す占い方法、話題になっていたな、と考えた。
「女帝が表すのは『社交性』だって。ぼくみたいな人間が統計を濁らせるんだろうね」
健吾はこう言うと、カラになった手をじっと見つめた。すぐ目の前の手のひらなのに、遠いところを見ているようだ。燎太郎にはそう感じる。
「……こんなものいじっててなんだけど、おれ占いはあまり信じてないから」
申し訳なさそうな声色で燎太郎が打ち明けると、
「ええっ、そうなの?」
と、健吾が驚く。自分の手のひらから燎太郎に目線を移した。
「うん、オペラのカルメンに出てくるから、モチーフとして興味を持ってるだけで……。でもさ、それとは別に、健吾くんは社交性のことを気にする必要ないと思う、今日シロくんもわかりやすかったと思うから。もちろんおれもね、すっごくわかりやすかった」
燎太郎は微笑むと、カードの束を健吾に差し出す。
「引いてみる? もちろんお遊びだよ」
悪戯っぽい声を上げると、それに応えるように健吾は指を伸ばす。
夕暮れのコンビニにふたりの笑い声が溶けていった。




