五章 視線の先
クリムゾンレッド、真っ赤な点の横にグレーの点が打たれる。燎太郎は、なぜそうなるのかわからなかった。
でも、健吾はいつも迷わず点を打つ。ゴールがわかっているかのように。燎太郎は形が整うまで、それがなにかわからない。
この頃燎太郎は、放課後になると健吾の家にお邪魔して、ドット絵作成の作業風景を見せてもらっていた。ゴールデンウィークは、健吾に借りた設定資料集を読んで、筋トレをしていたらいつの間にか終わってしまった。
コチコチとマウスをクリックする音が、健吾の部屋にひたすら響く。燎太郎がパソコンの画面を見やすいように、健吾は部屋の真ん中、ローテーブルにノートパソコンをおろしてくれている。燎太郎は空色のクッションに寄りかかってその画面をじっと見ていた。開け放たれた窓の横で、同じく空色のカーテンが風と遊び、ほんのりとアルコールの匂いがする。
「これ、見てて楽しい?」
健吾がふと、こう尋ねる。イヤミではなく本当に疑問に思っているような声色だった。 視線はずっと、自分が打ったカラフルな点を捉えている。
「うん、楽しいよ。ねえ、下書きとかしないの?」
燎太郎はいつも不思議だった。自分が持っているなんとなくの知識では、絵というものは下書きで大体の形を取ってから、仕上げるイメージがあったので。(授業の水彩画もそうした)
「うん、頭の中に完成図は入ってるから、それを再現させるだけ」
返ってきた答えの意味は、言葉としては理解できる。しかし、それを頭の中でどうやっているのかは、燎太郎にはさっぱり理解できなかった。
「色とか、どうやって決めるの? それも頭の中で?」
「うん、頭の中をそのまま出力する感じ。補色とか、トライアドとか、んーあとはアナロジーとか、配色はひと通り勉強したけども……独学だけどね。あとはセンスだよ」
センス……。また、健吾の口から出るとは思わなかった言葉だが、それは曖昧なものではなく、これまでの積み重ねに裏打ちされた言葉なのだと思った。ペイントソフトのタブに書かれた「イラスト」という初期名の横、三桁の数字は、おそらく通し番号だろう。
点で構成された世界。健吾は目いっぱい画面をズームして点を打つが、時々ぐいんと画面を引く。そのとき、ちょっとだけその世界が浮かび上がる。燎太郎はその瞬間こそが楽しくて仕方がなかった。
「これって炎?」
輪郭を捉え、嬉しくなった燎太郎は思わず質問した。
「うん、このあいだ炎色反応の話してたら、ふと、炎の質感を極めたくなって」
喋りながらも、健吾の手は止まらない。ドットでその質感を表現することこそに意味があると、燎太郎にもわかった。
ゲームはいまや、写真のようなグラフィックを映し出す。燎太郎はそれも好きだった。絵画のスーパーリアリズムと楽しみ方が似ている。
ドット絵は、その進化の過程の置き土産。いや、遺物とも言えるかもしれない。燎太郎はそう考えていた。表現の手段として確立してしまった、と。点と点を並べると、どうしても滑らかさが間引きされた世界になる。だけど、いま、目の前に広がる炎はどうだろう。ぬるりとした質感がある。
炎の赤を光らせるために、うんと明るい黄色でコントラストを入れる。それだけで光って見えるのが燎太郎には不思議だった。いいや、正確にはそれだけではないのだろう。ピクセルアートは取捨選択の連続でできていた。健吾はひとつの絵を描き上げるためにいったい、どれほどの色を選んでいるのだろう。途方もない作業のように、燎太郎は思ってしまう。
次第に立体感を増す炎を眺めていたら、パチパチと音を立ててゆらめいているように見える。それは、息をするたびに胸でふくらむ、自分の肺のように感じた。
燎太郎は、腹筋や喉あたりを鍛える筋トレを、なんとなくやめられなかった。
歌っていない自分は、エラ呼吸をする魚のように思えて。
燎太郎にとってそれは退化だった。
それなのになぜ、歩みを止めたのだろう。声変わりはただの言い訳で、なにか他に置き忘れがあるのではないだろうか。なぜ、こんなに、なんとなく毎日が落ち着かないのだろう。
ふいに、授業で聞いた詩が頭をよぎる。
をしと思ふ人やとまるとあし鴨のうち群れてこそ我はきにけれ
――自分はあし鴨だ。いろいろな自分が自分の裾を引っ張る。行かないでと言っているのだろうか。それは失った小さな、なにかなのだろうか、それともだれか……?
気持ちの重さを預けるようにクッションに沈み込むと、ドンドンとノックの音がした。
「健吾」
呼ぶ声と同時に、ドアが開く。
「お母さん! ノックと同時にドア開けないでって何度も言ってる」
健吾が大きな声を出す。燎太郎が慌てて体勢を整えると、健吾に似た女性がドアの近くに立っていた。ぺたりとした黒いねこ毛が特に似ていた。
「あ、お邪魔してました。すみません、えっと……」
その女性の目が自分を捉えるので、燎太郎は挨拶をした。
「登紀子、健吾の母です。よろしくね」
登紀子は燎太郎の方を向くと、微笑みを浮かべてこう言った。
「はじめまして。燎太郎といいます。トキコさんのトキは時間のトキですか?」
咄嗟にこう質問して、燎太郎は口をつぐむ。それを訊いてどうしようというのだろう。書類を作成するわけでもなしに。
「ううん、登山の登に、紀州犬の紀よ。話には聞いてたけど、本当に国語が好きなんだね」
登紀子が特に気分を害した様子もなくこう答えた。
健吾が普段、自分の話をしていたんだと驚きつつも「きっちり順序よく整理して登る、かっこいい名前だ」と思った。
ちらりと健吾を見ると、不満げな表情を浮かべていた。遠慮のない視線。燎太郎は初めて見た。扉の木目とコントラストする青いチュニックをにらみながら、健吾は言う。
「もう、なに?」
「暗くなってきてるじゃない、燎太郎くん大丈夫なの?」
心配そうな登紀子のその声に、燎太郎と健吾は同時に窓を見た。ふたりは同時に「あ」と言う。空色のカーテンが夕陽を反射して黄色がかっている。
今日は父が、リモートワークだったので、エスカミーリョのことは大丈夫だと燎太郎は改めて思うが、後ほど念のためにスマホでメッセージを送ろうと思う。父は、
「パパが家にいるあいだは、エスカミーリョの面倒は大丈夫だから、高校生らしく遊んでおいで」
と、いつも言っていた。
中学生らしく、高校生らしく。そう言って父も母も燎太郎を家から遠ざけようとする。自分を追い出したいわけでは決してないだろう、と思う。自立への一歩を促しているのかもしれない。しかし、燎太郎は〝高校生らしく〟というものが、どういう状態を指すのかわからなかった。
「ただいまー」
遠くから、声がする。朗らかそうな男性の声だ。
「お父さん、今日早くない?」
こんど、健吾はこの声の主を父と呼んだ。
「今日ずっとウチのラボにいたんだよ。わたしが今日はもう家に帰るって連絡したら『お母さんだけズルい、お父さんも燎太郎くんに会いたい』って言ってた。ずっといたなら顔出せばいいのにね」
カラカラと笑うと、登紀子は「ねー?」っと燎太郎に同意を求めた。燎太郎は苦笑いを浮かべ頷く。
「お父さんの人見知り、こんなときに発動しなくてもよくない? 健吾、メッセージ送ったんだよね、お父さんにも」
「送ったけど、ふたりとも冷泉くんをなんだと思ってるの、失礼でしょ」
燎太郎はすっかり登紀子のペースに巻き込まれる健吾を見るのが、楽しかった。
「せっかくだから、燎太郎くんもご飯食べて行く?」
相変わらずくすくすと笑いながら登紀子が尋ねる。
「迷惑だよ」
健吾が、代わりに答えた。燎太郎は、迷惑そうなのは健吾くんの方だよ、と思わず口をついて出てしまいそうになる。
「ううん、ご馳走になりたい」
味方に背中から撃たれたような、健吾はそんな顔をした。
お望み通り、今日は「遊んで」帰ってやろうか、と燎太郎はそう思った。
「功労のコウですか? 功労者の……」
燎太郎はダイニングテーブルに座って、スナップエンドウの筋取りをしながら、斜めに向かって見た目も朗らかそうな男性にこう訊いた。恵比寿様のようなふくふくとした顔だが、太っているわけではない。勝手に厳格そうなひとを思い浮かべていたので、失礼ながら、燎太郎は意外だった。
「そう、功労のコウに、一番二番の、一ね」
いの一番に手柄を立てるか、一番の手柄、あるいは唯一の手柄を立てるのか、と燎太郎は考えた。
八帖くらいのダイニングに、四人でぎゅうぎゅうと作業をしていた。登紀子はピーラーでニンジンの皮を剥いている。健吾は刃先の丸い白いセラミックの包丁で、皮の剥けた野菜から切っていた。一口大よりやや大きめで、燎太郎は「野菜ゴロゴロカレーだー」とウキウキした。
健吾はマスクをしている。ガーゼも間に挟んでいるらしい。
「生の豚肉のスカトールはちょっと嫌い。あいつ、ベンゼン環いるのに色が可愛くないんだよ」
「そりゃあ、ベンゼン環だけじゃないから仕方ないだろ、ピロール環がくっついてんだから」
「そう、インドール環になると、可愛いより臭みが勝っちゃうの」
功一と登紀子が口々におどけてこう言う。燎太郎は「おお、化学者ジョークだ」と感動して、くすくす笑う。ただし、ベンゼン環に色が見えるのは健吾特有の感覚だと気づいていない。燎太郎は極端な文系だから。
「あんまり言うと、冷泉くんがわからないから」
釘を刺すように健吾がこう言う。功一は愉快そうに笑うと、グスッと鼻をすすった。切っているのが玉ねぎだから。
「ていうか、手伝いまでさせてごめんね」
向かいの燎太郎に、健吾は申し訳なさそうに言う。彼は料理をするので、スウェットに着替えていた。
「ううん、おれ料理するの好きなんだよ。ものが出来上がってくのって楽しいよね」
燎太郎は健吾のドット絵を思い浮かべながら言った。それが、自分の料理と、とても一緒だとは言えないけれど。
「へええ、関心だねえ、健吾も見習いなよ。家事スキルはいくらツリー伸ばしても損はないからさ」
登紀子の声に、おお、今度はゲーマーの会話になった、と燎太郎は楽しくて仕方がない。健吾は「そうだけど」と、まな板の上に集中しているので、上の空で答えた。
功一が、切られた野菜をザルに集めてキッチンに向かう。登紀子もそれに続き、ふたりの連携プレーは熟練の技だった。「アレ」と言うだけで、鍋などをやりとりするけど「違うこれじゃない」という単語は一切出てこない。阿吽の呼吸だった。
健吾は手を洗うと、スナップエンドウの筋取りに合流した。
「これね、マヨカレーで炒めるとうまいぞ。最初はヘキサナール……青臭くて苦手だったんだけど、マヨカレーは全てを包み込むよね」
「へえ、楽しみ」
そうすると、健吾がポリ手袋をしているのは、エンドウの匂いが手に移らないようにだろうなと、思いながら、燎太郎が顔を綻ばせると、キッチンからジュウジュウという音とともに、玉ねぎの香ばしい香りが湯気に乗ってやってくる。
玉ねぎ、ニンジン、豚肉をくつくつ煮ている間に、功一が下茹でしたスナップエンドウを炒めている。燎太郎は、先ほど対面式キッチンの向こうで彼が、マヨネーズとカレー粉を混ぜ合わせているのを見た。
スパイスにマヨネーズの油がマスキングされ、なんとも豊かで少しずっしりとした香りがした。
「燎太郎くんもレトロゲーマーなの? へー、どんなゲームをするの?」
カレーの番をしながら登紀子がこう尋ねた。
「えと、ドット絵の頃のRPGが好きです。九十年代とか」
燎太郎は、ダイニングテーブルで健吾と一緒に腰掛け、ハーブティーを飲んでいた。今日はカモミール。ひょっとして自家製かもしれないと、燎太郎は考えた。
「へえ、健吾の趣味とぴったりだ、話合うんじゃない?」
カウンターで炒めたエンドウをお皿に盛り付けながら、功一も会話に加わる。燎太郎は「そうなんです」と言わんがばかりの笑みでコクコクと頷いた。
「あ、そうだ。レトロゲーといえばさ、健吾が昔『ロープレの魔法って四元素説だー』ってコントローラー握りしめながら叫んでさ。それが健吾の、ゲームにハマったきっかけだよね」
パッケージの上からカレールウを割りながら、登紀子が笑う。
「ちょっと、もお! 昔の話とかやめてよー恥ずかしいから」
健吾がハーブティーを吹き出しそうになりながら抗議する。燎太郎はそんな漫画みたいな光景、実際にあるんだと可笑しさで目を丸くする。
「だってさ『空気・水・土・火』って、だいたいこの組み合わせが基本の魔法として鎮座してるの、いろんなゲームを見たら。偶然の一致じゃないと思ったんだよ。空気は風の場合もあるけど」
ふてくされながらも健吾は燎太郎に説明してくれた。確かにそうかも、と燎太郎は得心が行く。
「中世ヨーロッパ風の世界観から見て、太古……昔からの言い伝えとか、秘術、みたいな立ち位置だと、紀元前の古い概念の方が雰囲気、合うんだろうね」
そう言うと、燎太郎はハーブティーをひと口、運ぶ。
「へええっ、ぼくは歴史は……、丸暗記すればいいから得意科目っちゃ得意科目だけど、考察となるとやっぱり冷泉くんは違うね」
健吾も感心しつつ、カップを傾ける。
「そんな、考察ってほどじゃないよ」
燎太郎が照れて小さくなっていると、
「はい、おふたりさんカレー出来ましたよ」
声を揃えて、登紀子と功一がこう言った。部屋の中はもうカレーのにおいでいっぱいだ。
カレーは甘口だった。燎太郎も甘口が好きなので助かった。あまりにもカラいと、食べられないので。
「美味しいです」
燎太郎はついがっつきそうになるので、スプーンを止めてこう言った。ほかほかのカレーソースは口の中で激しく踊るようだった。
続いて、大皿から取り箸を使ってスナップエンドウを、小皿に取り分ける。お皿にはDNAの二重らせんが描かれていて、燎太郎はだいぶユニークな柄だな、と思う。
「よかった、お口にあって」
登紀子がほっとしたようにこう言う。
「あ、エンドウも美味しい。初めて食べる味だ」
燎太郎は目を細め、確かにあまり臭みを感じないと思った。シャキシャキとした歯応えの中にカレーのスパイスが弾ける。功一も微笑みを浮かべながら頷いている、と、健吾が口を開く。
「冷泉くんにラボを案内したらどう?」
おねだりをする子どもの目だった。
「健吾、よその子は入れられないって言ってるでしょ。事故のないようにするのが、わたしたちの務めだけど、それでも万が一はあるから」
「……はーい」
登紀子にたしなめられ、健吾はしょぼくれた。肩を落として俯いている。いまは人のいない暗いキッチンに、ぽちゃりと一粒、蛇口から水が落ちた。
「このDNAらせんのお皿、変わってて良いですね」
健吾を励ましたいわけではなかったが、燎太郎は空気を変えようと、さっきから気になっていたこのお皿の柄に触れた。
「ああ、それかわいいでしょ? お母さんが学会に行ったとき、お土産でもらったんだって。ぼくもそれ気に入ってるんだ」
功一がパッと顔を明るくして、燎太郎の方を見る。本当に気に入っている様子だ。
「新体操のリボンみたいでかわいいよね」
登紀子も調子を合わせる。
「ぼくは、構造式柄のお皿がもっとあってもいいと思う。形がカッコいいのがいいけど、料理を乗せても違和感がないやつがいいのかも」
健吾が元気を取り戻して、会話に混ざる。燎太郎はホッとした。いいや、さっきからずっと落ち着いているように思う。
燎太郎はカレーをおかわりしてしまった。こんなに食べたのは久しぶりで、お腹がいっぱいになる。
会話も含めての食事。燎太郎はそんなことを考えた。
功一が最寄り駅まで車で送ってくれた。聡信学院の最寄りと一緒だ。日はとっぷりと暮れている。車から見える夜の学校は、薄い黒絹をまとっているが、窓はところどころ猫の目のように煌々と光っていた。健吾の描く世界観だ、と窓越しに燎太郎は眺めていた。健吾は横でうとうと眠そうだ。
眼鏡はもう外している。燎太郎は健吾が先ほど「一日の着用時間を少しずつ増やして、と言われたから」と、ぶつぶつ言っていたことを思い出す。燎太郎は、なんの言い訳なんだ、と思い出すと少し可笑しくなってきた。
五分ほどで駅に到着する。駅前のロータリーに車を寄せて停止すると、功一は声をかけた。
「健吾ー、起きろ。燎太郎くんをお見送りしなさい」
健吾は項垂れていた顔をハッと上げる。
「今日はウチの親に付き合ってくれてありがとね。うるさかったでしょ」
最後のひと言は声をひそめた。
「け・ん・ご!」
功一がおどける。「聞こえてるぞ」という語調だった。燎太郎はくすりと笑うと、
「楽しかったです、ご馳走になりました。送ってくれてありがとうございます」
シートベルトを外しながらこう言った。
「気をつけて帰ってね」
笑顔を浮かべながら功一は挨拶する。
「気をつけて」
健吾も声を合わせた。四輪駆動の大きな車体から降りると、リュックを背負い、燎太郎は大きな声で改めて、
「ありがとうございました」
と頭を下げ、ドアを閉めた。窓越しに功一がもう一度燎太郎を見て微笑むと、車は走り去って行った。
燎太郎は車が道路に溶け込むまで見送った。二車線の道路は目の前をまっすぐ走ったあと、百メートルほどで、四方に交差した。そこを左折すると、もう車は見えなくなる。
燎太郎は踵を返すと、駅舎までのくすんだタイルを踏みしめた。いつもはノロノロとゆっくりに感じるエスカレーターも、今日はキビキビと早く感じた。
♪♪♪
鳩の鳴き声。生徒の笑い声、近くの工場から聞こえてくる「カタカタカタ」という音が和音のように心地よく感じた。
五月の空は次第に青くなる。その青を仰ぎながら健吾とふたり、あのベンチに座る。カエデが風にのってサワサワと歌う様子も、調和していた。ハーモニーだ。
思えば、この音もひとり座っていたあの頃では聞こえなかった。ヘッドホンで耳を塞いでいたから。
上糸と下糸のように隣り合う、カエデの並木と黒い縁取りのついた木製ベンチ。木漏れ日はちぎり絵。燎太郎はこの景色を、思っていたよりも好きになった。
そよそよと風が、カーディガンの胸元を通り抜ける。カエデの緑と食堂のカレー、うどんのお出汁が混り合った匂いがした。
「昨日はご馳走になっちゃって」
あの楽しかった空間をなんども思い出しながら、燎太郎はしみじみと、唐揚げの挟まれたパンをかじった。
「迷惑じゃなかった? 嫌だったら断ってもよかったのに……」
健吾はピーナッツバターサンドを手に、バツが悪そうに答えた。
「ううん、本当に楽しかったよ」
まだ指先に、スナップエンドウ——これがヘキサナールというのだろうか——の青臭さを感じるようだ。
指先をくんと嗅いで、健吾の方に顔を向けたとき、燎太郎は調和が乱れるのを感じた。
「お疲れー。おれもいいかな」
ベンチの向こう側からのしのし歩いてくる、石鹸の香りを着たクラスメイト。手には購買で買った焼きそばパンを持っていた。みんな、なにかに気を遣ってなんとなく避けるそれを、白詩は当然のように手に取るんだなあ。
燎太郎の思考がにわかにささくれ立つ。
白詩の声が入るだけで、いつものその空間が酷い不協和音を奏でた気がした。
「ああ、お疲れ、シロ。毛虫の件はすまなかったね」
健吾がこう返すまで、燎太郎は自分が固まっていることに気が付かなかった。
「謝んなくていいって、おれらクラスメイトじゃん。助け合わないと」
白詩がベンチに体を捩じ込むので、健吾は燎太郎の方に詰めた。三人並んだベンチはバランスが悪いように感じる。白詩がけたたましい笑い声を上げた。
クラスメイトじゃなくて、たくさんいる〝友達〟と一緒にご飯を食べればいいのに、と燎太郎は思った。いつものように。
だが……毛虫のことについては、自分は何もしなかったのもまた、事実だった。出来なかった、ではなく「しなかった」。
居心地の悪い思いでパンをかじっていると白詩がこう切り出す。
「ねえ、健吾、燎太郎が昔、テレビで密着取材されてたこと、知ってる?」
燎太郎は血の気が引くのを感じた。健吾みたいに「昔のこと言うのはやめて」と素直に言えない。どうしてやめて欲しいかもわからない。恥ずかしいから、だけではない気がする。
「へえ、知らなかった、なんで?」
健吾が無邪気な顔をこちらに向ける。燎太郎は心配をかけまいと笑顔を浮かべ、
「うん、オペラやってるときね。自分で言うの恥ずかしいけど『天才少年』っていって……」
自分は酷いことをされていませんよ、と平気な顔をした。
「へーそうなんだ、ぼくたち『テレビ仲間』だったんだ」
健吾が不器用な笑顔を見せた。白詩はその奥で、かすかに瞼を歪める。
――なにをそんなにムキになることがあるんだろう。
燎太郎は、健吾が白詩の方を振り向かないように、と願った。
「燎太郎、すごかったんだよ、ちょっと泣き虫だったけど」
次に白詩から放たれた言葉は、燎太郎のなかにある心の脆い部分を、確かに踏み抜いた。後ろで誰かが乾いた枯れ葉に足をおろす。くしゃりという音が響いた。
燎太郎は髪の生え際から汗が滲むのを感じた。それでも、笑顔を曇らせるわけにはいかなかった。
テレビの向こう側、真っ赤な顔をして泣きじゃくる自分がいた。
なぜ、大人は子どもが泣くと、カメラを向けるのだろう。
大きな口を開け、悔しさを声と涙に乗せ、思いのままに放り出す。
燎太郎は悔しかった。大人と同じように歌えない自分が。
なんどもなんども、楽譜の通りに声を出しているつもりが、先生に「違う」と言われた。
「やっぱさ、おれもボーカルやってると、声量欲しいんだよね。燎太郎みたいに、基礎のボイトレやったらやっぱ強いかなと思う」
白詩が身を乗りだし、健吾と燎太郎を交互に見ながらこう言った。
「思うだけでどうする、やるんだよ」燎太郎は内心毒づく。乾いた肺に、水が入り込む。
――そうだ、自分もいまは、エラ呼吸をする魚だった。
健吾みたいに、毎日点を積み上げてはいない。そんな人間に、完成図などあるはずがない。
強い諦念を覚え、燎太郎は黙々とパンを食べる。白詩にやめてと言えないのは、自分もまだ引きずっているからだ。
「教室帰ろ」
パンの味もしなかったし、なにを話したかも曖昧だ。だけど、白詩の声に従い、渡り廊下をとぼとぼと歩くしかない。牧羊犬について行くヒツジになれれば楽なのだろうか。
白詩と一緒に教室に入るふたりに、クラスメイトたちが遠慮なく眼差しを向ける。
燎太郎は思う、歌手というものは「歌手という仮面」を被るものだと。燎太郎はその仮面を暴こうとは思わない。最高のパフォーマンスをみせてくれる相手への最低限の敬意だから。
燎太郎は、むかし。仮面を外した姿を、無防備にも晒していた。それがどういうことか、わかっていなかったとしても。
いま、舞台を降りて「高校生」という仮面を被っても、周りの人間は、民衆は、あの時の道化と一緒なのかと、それを剥がして確認しようとする。
しばしばそれは、名声と引き換えるための代償だと議論される。
でも、燎太郎は街角のラジオ――有線から、歌声が消えてしまったら、それは、哀しいことだと、思う。




