四章 炎色反応:リチウム
ウォンッと元気なゴールデンレトリバーの声が響いた。
「こ……こんにちは」
健吾は燎太郎の家の玄関で、その人懐っこい犬とやや距離を取りながら挨拶した。
「エスカミーリョ、吠えちゃダメでしょ、ごめんね健吾くん。怒ってたり警戒してる吠え方ではないから。遊んでもらえると思ってるみたい」
燎太郎は健吾の横をすり抜け、愛犬の前に立ちながら、その目をじぃっと見る。エスカミーリョはぱたぱたと尻尾を振っている。玄関の上に座って、鼻先ですんすんと燎太郎の顔を嗅ぐ。少し興奮しているな、とゴールデンレトリバーの大きな体をひとつ撫でた。
ふたりはお揃いのスラックス。あの金曜日の放課後、燎太郎は健吾から設定資料集を借り、土日を使ってじっくり読んだ。
そして今日、月曜日の放課後、さっそく燎太郎は健吾にエスカミーリョを紹介した。
二・五坪ほどの広めの玄関は、エスカミーリョが散歩をするときの出入りを考えてのことだった。そのエスカミーリョは玄関ホールにちょこんと座ってクンクン鳴いていた。
キャラメル色の玄関ドアと、白く塗られたシューズボックスの間に微妙に隠れながら、健吾は初めて対面する大きな犬をおずおずと見ていた。
「エスカミーリョはお利口さんでさ、散歩中におれが警戒した相手なら一緒に警戒してくれるんだ。彼も、おれが健吾くんを信頼してるってわかってるみたい。警戒心のかけらもないよ、見てこのキラッキラな瞳」
燎太郎は愛犬の頭を撫でながらこう言い、ふふと笑った。
「すごいな、なんかゴールデンって優しい犬種だと聞いたけど、やっぱりそういう統計あるのかなあ」
「うん、おれ統計。子犬から一緒に暮らしてるんだもん。エスカミーリョの考えてることがわかるようになるんだ」
しみじみと目を細める健吾に、燎太郎はこう答えた。
「……それは、失礼しました、冷泉博士」
健吾が、おどけているのか真剣なのか、わからない顔で言うので、燎太郎はついに噴き出してしまった。
健吾がゆっくりエスカミーリョに近づくと、彼は前足をフイっと上げた。
「握手がわりのオテみたい、よかったらしてあげて」
エスカミーリョは健吾を見上げている。健吾は「おお」と言いながら、エスカミーリョの前足を手のひらで受け止めた。愛犬のオテは健吾の手底を覆ってしまうのではないかと燎太郎は思う。
「肉球がプニプニする、爪がちょこんと当たってる。……かわいい」
健吾はとうとう破顔した。
玄関から向かって突き当たりの部屋にエスカミーリョのサークルがある。左手の白壁の中頃には階段があって、ペット用の侵入防止柵が、階段への立ち入りを拒んでいた(わんぱくな誰かの)。それ以外の部屋の、廊下と同じ濃いブラウンの扉はしっかりと全部閉まっている。
「なんか、ずっと玄関先だね、ごめんごめん、上がって!」
そう言って、燎太郎はひと足先に玄関ホールに上がると、エスカミーリョがそのふわふわな身体を擦り付ける。燎太郎は上半身を折りたたむと、自分の黒いローファーを壁に寄せた。左右の踵を壁側につけて。
「お邪魔します」
健吾は声を上げると、燎太郎が健吾の家でそうしたように様子を窺った。
「あ、うちも両親帰るの遅いから、今どっちも家にいないと思う」
「そうか」
と、健吾が答えると、少し緊張した様子で上がり框を跨ぐ。そして、燎太郎のローファーから少し離して、自分のスニーカーを置いた。万が一にもエスカミーリョが飛びつかないように、燎太郎はかがんで愛犬の身体を自分の方に抱き寄せていた。エスカミーリョにマテをさせると、燎太郎は廊下を進み、引き戸を開けると健吾に声をかける。
「ここ、手を洗うところね」
ピカピカの鏡を持つ洗面所の奥にまた引き戸があり、その向こうがランドリールームになっていた。
「キレイな洗面所だね、映画のセットみたい」
手を洗いながら健吾が言う。
「映画のセットっていうなら健吾くんの家の方がだよ、おうちにラボがあるなんてさ、静電気除去するやつも! ハリウッドの映画みたい」
「そう? あれが普通だと思ってたからなあ」
健吾はスラックスのポケットから紺色のタオルハンカチを取り出して手を拭いた。
エスカミーリョにヨシを告げて、いい子だとその頭を撫でると、燎太郎はアコーディオン方式の木製ペット柵を畳んだ。健吾にこっちと声をかけて階段を上ると、エスカミーリョがしんがりを務めた。
「ここがおれの部屋」
チャッとドアを開けると、赤色が広がった。
「大丈夫? ちょっと壁紙が赤なんだけど……目、チカチカしない?」
健吾を招き入れたその部屋。カーテンはチャコールブラウンでトーンを落としている。
突き当たりの学習机はいつからか、シンプルなデスクに交換されており、その左に天井まで届きそうな本棚。本棚の中身は小説の文庫本や、漫画のコミックス、実用書、オペラやミュージカルのプログラムなど、幅広いジャンルの本が置かれていた。
「うん、すぐ慣れると思うけど、あざやかな赤だね」
「はは、小さいころ情熱で突っ走って……いまは落ち着かないよなって思ってる」
燎太郎は照れくさそうに笑いながら、窓を開けた。
「リチウムの炎色反応みたいな色だ、うん、花火の赤色みたいなのを思い浮かべてもらえれば」
「あっ、理科の実験でやったやつだ!」
「そうそう」
ふたりで笑いあうと、燎太郎はカーテンと同じ色をしたローテーブルの前に座るよう促した。
燎太郎がキッチンでアップルミントのハーブティーを淹れて帰ると、健吾がエスカミーリョに絡まれていた。
エスカミーリョが両前足を差し出すたびに、健吾は律儀に手のひらで受け止めている。
健吾は燎太郎に気づくとお盆を受け取り、
「エスカミーリョくんはオテが好きなの?」
と尋ねた。
「オテというより、あれはスキンシップだね、スキンシップが好きな子なの」
燎太郎は気まずそうに笑うと、愛犬の頭にポンポンと手を置く。来客が嬉しいらしく、舌を出してハッハと笑っていた。
「健吾くんナッツ好きなのかなと思って、ナッツ用意したんだけど……」
と、燎太郎は真っ白な小皿に分けたミックスナッツを差し出す。エスカミーリョがかすかに鼻先をひくつかせる。
「ああ、気を遣わなくていいのに。うん、ナッツは好きだよ、ありがとう」
健吾は恐縮した様子でこう答えた、すると、エスカミーリョが健吾の隣に座って背中を向けた。
「あ、背中、撫でてほしいみたい」
申し訳なさそうな声色で燎太郎がこう言うと、健吾はおそるおそる、金色の毛に触れた。
「あっ、硬い。被毛って本当に硬いんだ」
そう言うと健吾は、もうちょっとだけ手を沈み込ませた。そして、目を伏せ、独り言のようにこう呟く。
「あったかい……生きてる動物って、本当にあたたかいんだね」
「生きてる動物?」
少し引っかかる言い回しだったので、燎太郎は聞き返した。健吾はハッとすると、みるみると顔を曇らせてゆく。ついには下を向いてしまった。
「どうしたの? なにかあった?」
燎太郎は焦り、健吾の顔を覗き込んだ。
「いや、あの……エスカミーリョくんがいるところだと、ちょっと……」
しどろもどろになる健吾を見ると、燎太郎はうんと頷く。
「わかった、エスカミーリョにハウスさせるから。サークルに入れてくる」
健吾はガバッと顔を上げると、
「いやいや、それは悪いよ、後日でもいいし」
と申し訳なさそうに首を振った。
「ううん、健吾くん辛そうだから話、聞くよ」
燎太郎はエスカミーリョの方を向く。
「エスカミーリョ、お昼寝の時間だよ。おれ、健吾くんと大事なお話があるからね」
愛犬と目を合わせそう言うと、立ち上がり扉を開け「おいでエスカミーリョ」とまた声を上げる。クウンと鳴くと、その名前の主は燎太郎の後をついていく。
階段をトントンと下りながら、燎太郎はなにか変なことを言っていないかと、自分の言葉を思い返す。エスカミーリョの爪がちゃかちゃかと鳴る。
ペットサークルのある部屋に到着すると、愛犬をサークルに誘導し、
「エスカミーリョ、ハウスしててね」
と、燎太郎はその犬の頭を撫でた。エスカミーリョは伏せをして、左前足の上に顎を置く。
「いい子、いい子」
燎太郎はそう声をかけると、自分の部屋に戻った。
ドアを開けると、健吾がハーブティーを啜っていた。せっかく淹れてくれたものを温かいうちに、という思いやりを感じる。
燎太郎は健吾の斜め前に座り、
「言えることだけでいいから」
と、できるだけ穏やかなトーンで切り出す。
「うん」
健吾は青い花の縁取りがついたカップをそっとソーサーに戻すと、また顔を伏せた。
しばらくすると、ぽつぽつと話し始める。
「ぼく、中学生のとき、実験動物の慰霊祭に行ったことがあるんだ。父が勤めてる化学メーカーのね」
燎太郎は予想だにしない答えに、目を見開いた。そのまま目を伏せてしまいそうになるけど、どうにか耐えて、健吾の顔を見る。
「ぼくが化学の道に進むから、特別な許可をもらって同席させてもらったんだって。そのときの父の言葉を今でも覚えてるよ。『化学の道に進むということは、この現実も頭に入れなければならない』って」
燎太郎はまた、うん、うんと頷く。
「ぼくは、今日まで動物と触れ合ったことはないけど、やっぱりショックだった。動物実験で犠牲が出ることも知ってたけど、実際に、その光景を見ると……うん、やっぱりショックだったよ、帰って泣いた」
燎太郎は「泣いた」という言葉にほんの少し、瞼がぴくりと動く。
「慰霊祭の最中は、正直に言うと、難しくてわからない言葉もあったけど、真っ白な部屋に仏壇が置かれて……いや、実際はそんなに真っ白じゃなかったかもしれないけど。お坊さんがお経を上げるんだ。ぼくはその間ずっと手を合わせて『ごめんね、ありがとう』って心の中で呟いてた。お経が終わると、献花……お花をひと束供えた。C10H16Oカンファー、そのときの菊の香りもいまでも思い出せるよ」
燎太郎はなにも言えずに健吾の顔を見ていた、すると健吾はおもむろに顔を上げた。
「でもね、化学を嫌いにはならなかったんだ。人間にとっては苦渋の決断だよね、人間の安全のために他の動物を犠牲にするって。でも、それでも人を助けることに変わりはないからって」
少し、笑顔を取り戻し健吾はこう言った。
「今日、エスカミーリョくんに触れて、柔らかい肉球を知れてよかったと思う。硬い被毛もふわふわの毛も、あたたかい体温も、冷泉くんと、心を通わせていることも。全部。彼は……当たり前だけど生きてる。うん、生きてるんだよね。それ、ずっと忘れないでいたい」
燎太郎は黙って頷いた。そして、健吾の方をまっすぐ見て微笑みを湛える。何も言えなかったからせめて。
「キュウン、ピィー」
ドアの向こうで気の抜けた声がした。
「エスカミーリョ!」
「え? いまのエスカミーリョくんの声なの」
燎太郎は、立ち上がって、ドアを開けた。燎太郎の言葉どおり、そこにはエスカミーリョがいた。ドアを避けると、おすわりをしている。眉にあたる触覚毛を寄せて、目尻を下げていた。
「心配して来てくれたの?」
燎太郎はしゃがんで愛犬の耳の付け根を撫でた。エスカミーリョはクウンと鳴くと、健吾の隣にまた座った。今度は鼻先を健吾の顔に向けてすんすんと匂いを嗅いでいる。
「エスカミーリョくんも匂い嗅ぐのが好きか、ぼくと一緒だな」
そう言うと、口元を緩ませ、健吾もおそるおそる耳の付け根を撫でた。見よう見まねのようだ。エスカミーリョがその腕に、ちょこんと前足を乗せる。
「健吾くんのこと心配してるみたい」
燎太郎がふふと笑うと、健吾は、
「犬は飼い主に似ると言うけど、本当だね。優しい子だ」
と呟いた。
「えっ? おれ優しいかなあ?」
燎太郎は心底信じられないといった顔でこう答える。
「うん、冷泉くんはずっと優しい。優しいときしかない」
すごく褒められてる気がする、と燎太郎はこそばゆくなる。
ただ、それは燎太郎にはずっとそうであって欲しいという、祈りに似た懇願だとも感じた。
燎太郎はそれに拗ねてみせることはできるが、しかしきっとそれは彼の無自覚な感情なのだろうと考える。そして、健吾にとってそれはひどく切実な訴えでもあるのだろう。
でも――健吾は、いつだって思いやりを持とうとしていた。好きで人を遠ざけているのではないのだろう――おれと違って、と燎太郎は自嘲気味に苦笑いをした。
「……これからいつも、そうあれるかわからないけど、少なくとも健吾くんに対して誠実ではありたいと思うよ。高校に入って唯一の友達だから」
燎太郎は苦笑いを押し込めると、微笑んでこう言った。
「友達と、そう思ってくれていたのか」
今度は健吾が心底驚いてこう答えた。
「えっ? 逆になんでそう思ってなかったの?」
「いや、宣言がなかったから……」
おろおろしながら健吾がこう答えると、
「宣言してなるものではありません」
結局、燎太郎は拗ねてしまった。
申し訳なさそうな、照れているような健吾を尻目に、燎太郎はフッと笑って気持ちをリセットさせた。
体を捻って、デスクからタブレットを取ると、ミュージックアプリを開いた。
「これが、カルメンのアリア……独唱だよ。オペラのカルメンは、エスカミーリョの名前の、えっと……元ネタね。有名な曲だから聴いたことあると思うけど……」
燎太郎はこう言うと、アプリを操作して音楽をかけた。エスカミーリョがまた、伏せをして前脚に顎を乗せる。
鼓動そのもののようなイントロ。伴奏が最低限なのはみんな――この場合は舞台上の聴衆が、カルメンの声を聴きたいからだと燎太郎は思う。
カルメンの独壇場といわんがばかりの、ささやきのような熱い叫びのような歌声で全体的に進行するが、時々囃し立てるように民衆のコーラスが入る。
シャンシャンとタンバリンの音が彼女の生い立ちを告げているようだ。
フランスオペラの特徴である豊かな巻き舌。燎太郎は最初、これを取得するのに苦労した覚えがある。
カルメンが声を伸ばすとさざ波が起こる。燎太郎はその波を浴びる瞬間が何よりも好きだった。
――好きだった。
健吾は、展開が変わるたびにのけぞったり、目を見開いたりしていた。そのうち目をつむって聴き入る。
曲が終わると、燎太郎は細長い長方形がふたつ並んだ停止ボタンをそっと押した。
しばらく余韻に浸っていたのか、曲が終わったことに気づかなかったのか、健吾はじっとしていたが、ハッと息を吸うと、
「うん、これ聴いたことある! 力強い歌声だよね」
と言った。
「そうでしょ、いろんなところで掛かるもんね。『ハバネラ』って曲。……あのね、むかしおれ、彼女、カルメンになりたかったんだ」
「いまは?」
……まさかいまはと聞き返されるとは、露ほども思わなかった燎太郎は面食らってしまった。ちょっとした秘密を打ち明けた気分だったのに、こうもあっさりと返されると、不意打ちをくらったようだ。
カッと怒りが弾けたのか、燻ぶっていた情熱が呼び起こされたのか、今の燎太郎にはまだ測りかねた。熟れすぎたいちじくのように、柔らかい心がうっすらとかさぶたを貼っている。
「もう、出来ないんだよ……声変わりしたからね。メゾソプラノの音域が出せなくなっちゃったの。少なくともステージの上では……」
平静を装ったつもりが、少し声がうわずってしまったので、咳払いをして誤魔化した。
「……あっ! ごめん、ぼく、あの、無神経で……」
健吾がにわかに慌てはじめたので、燎太郎も慌てて微笑み、首を振る。怒っているわけでは決してなかったので。
「聴くの、嫌いにならなかったのは本当に良かったと思ってる。あのね、やっぱりオペラは生演奏が一番だよ。この百倍は……いや、一万倍くらいは良いからね! おれ生音至上主義かもね、はは、厄介オタみたい」
クレッシェンドのように弾む声。
「こんなにテンションの高い冷泉くんは、初めて見た。設定資料集を見てたときもヤバそうだったけど、もっとヤバそうだね」
健吾もつられて笑顔を見せた。
「小さいとき、両親にカルメンのオペラに連れて行ってもらってね。いま考えたら子どもには過激じゃない? と思うんだけど」
思い出すと、燎太郎は小さく笑う。
「ほとんどお話はわかんなかった。でも、カルメンがやっぱりカッコ良くてね。舞台狭しと歌って踊って。エネルギーがほとばしってたんだ。ああ、いつか自分もカルメンを演じたい。自然とそう思ったよ」
「そうだったんだね」
健吾はただ黙って話を聞いてくれていた。
「でもね……」
燎太郎が目を伏せると、健吾は心配そうな目線を送る。
「ダメなら……せめて最初に言って欲しかったんだ。カルメンはキミには無理だって。なんか、おれの前で声変わりはタブー扱いになってたフシ、あるかも。中学に上がると、やっとさりげなく、パート移動を勧められたんだ。……遅いよ……ワンチャン声変わりないかもって思ったけど、はは、おれには無理だった。おれはソプラニスタにはなれなかったんだよ」
顔を上げ、空笑いを浮かべる燎太郎。健吾は燎太郎の目をまっすぐ見てこう言う。
「うん、わかるよ。……ハッキリ言ってもらえないのは辛いもんね」
燎太郎は目頭がつうんと熱くなったから、また下を向く。
「ありがとう、健吾くん」
こう声を絞り出すだけでやっとだった。
「健吾くんはやっぱり、化学の道を進むの? ピクセルアーティストがやりたいことだったんじゃないの?」
燎太郎は少し落ち着くと、こう尋ねた。エスカミーリョはすっかり寝息を立てている。
「うん、でもさ、やりたいことと、できることは違うから。ぼくは昔ながらの古風なドッターって言い方が好き。それを仕事に出来たら楽しいだろうと思う。でも楽しいだけじゃ仕事はできないんだよ……。ぼくは〝学者にしかなれない〟親がこう言ったからね」
――親がこう言ったから。
健吾からこういったニュアンスの言葉を聞いたのは二回目だった。
しかし、燎太郎は思う。本当に健吾の親御さんは、そんな言葉で健吾を縛るような人たちなのだろうか。わけてもらった青菜のおにぎりは、お酒と醤油を煮詰めたタレで青菜の臭みとエグ味を消していた。丁寧に塩下茹でもしたのだろう。それをひと口かじったとき、比喩ではなく優しさの詰まった味がした。塩辛くもなく、醤油の風味はしっかり残っていた。
だが――その一方で、嫌がっている健吾をバラエティ番組に出し続けたという事実もある。
しかし燎太郎は自分が知っている表面的な情報で、その人たちのことを断じるのは良くないと思った。人は誰しも矛盾する心を持ちつつ、どちらも同じ体に抱えることもある。
それは、善し悪しではなく、誰だってそうだろう。
あくまで、これは燎太郎の想像にしか過ぎないが、健吾のカナリア色のパーカーは、フードを被ってパニックや過集中を抑えるためのものだろう。カナリア色――黄色は警告色だから、保護者が見つけやすいように。デザインは微妙に違えど、同じものを着け続けると安心することも相まって……そういったことが今日まで続いたのだろうと。
燎太郎にはまだわからない、健吾が抱えているものも。なんと声をかければよいのか。なにを言ったらいけないのか。もどかしかったが、ズカズカ人の心に踏み込むのもまた、良くない。
でも、いつか重荷のひとつ、ほんの少しでも渡してもらえればいいな、と燎太郎は思った。
「冷泉くん、エスカミーリョくんが寝ちゃったから、おいとまするよ。起こしちゃ悪いから」
健吾が声をひそめてこう言った。しかしエスカミーリョはそんな言葉はお構いなしに、ガバッと起き上がって健吾の顔を見た。
「あ、ごめん、耳がいいって本で読んだことあるけど、まさかここまでとは。起こしてごめんね」
オテを受け止めながら健吾の眉が下がる。
燎太郎は健吾を駅まで送った。
「電車乗れる?」
燎太郎は健吾の〝物理的には乗れるが、ぼくに不具合が出る〟という言葉を思い出しながらこう尋ねた。
「うん、ラッシュじゃなければ大丈夫なんだ。万が一、人が多くなりそうになったら降りて歩くよ」
「そう……」
二番ホームまでしかない、そんなに大きくない駅舎。駅へと急ぐ人は、そう多くはなさそうだが。
大きな白い雲が、駅舎の上で一休みしていた。空はまだ青く、四月の終わりは日が長い。
そうすると、夕陽が差す頃まで長居した自分は、一体何時間お邪魔していたんだろうと考えると、少し恥ずかしくなった。
「機会があったら、一緒にエスカミーリョを散歩に連れて行ってみない?」
燎太郎はこう誘ってみた。
「ええっ! ぼくは戦力にならないと思うけど、大丈夫?」
「散歩なんだから、そんなに難しく考えなくていいよ、ついてきてくれるだけでいいから」
「うん、そうか、じゃあ、いつかね。送ってくれてありがとう」
そう言って手を上げると、健吾は振り返らずに駅舎へと吸い込まれていった。
燎太郎は先ほど、教室で再会したときのための、ちょっとしたゲームを考えて提案した。
健吾も乗り気だった。燎太郎は明日が楽しみだった。
♬♬♬
「健吾くん、今朝のおれの音楽はなんでしょう」
健吾は多くの場合、ホームルームギリギリで教室に入る。なので、一時限目が終わると、燎太郎は健吾の席まで行き、こう尋ねた。
「んー……。意外にもボカロとかだったりして、でも、やっぱりカタく『ハバネラ』!」
健吾は考え込むと、こう答えた。
「ブブーッ! 正解はカルメンの『闘牛士の歌』。ちなみにこれ通称なんだよ。『諸君の乾杯をよろこんで受けよう』歌詞の冒頭部分からこれが題名。そして、もちろん邦題」
燎太郎は人差し指を立ててこう言った。
「ええっ、ちょっと待って。オペラはぼくの知識量が不利だからやめようよー」
健吾は眉尻を下げ、頭を抱えた。
「だって仕方なくない? 健吾くんはねえ『ハイドロマギサ三姉妹のテーマ』と見た!」
「違うぞ、オープニング曲の方」
燎太郎は答えを聞いてしばらく固まる。
「あのさ、もしかしてこれ難易度高いゲームなんじゃ?」
ふたりは目を合わせて、小さく笑った。
きのう、あれから。駅へと歩く道すがらに喋っていると、ふたりとも頭の中で常に音楽が流れていることを知った。
そうすると、朝、学校で再会したとき、お互いにいまなにが頭の中で掛かっているか当ててみようということになったのだ。
実際にやってみると、まあ難易度は高いが面白かった。
レースカーテン越しに朝の光が、健吾を淡く照らした。今日は雲も少なく一日中晴れそうだ。
燎太郎がそのことに安心して笑顔を浮かべていると、ふと肩を叩かれる。
エスカミーリョが「グルル」と唸る声が聞こえた気がした。
シャボン系のコロン。これだけで、自分に置かれた手の主がわかった。
去年からずっと変えてないから。
いやってほど嗅いだ甘い香り。
泡のように、すぐにぱちんと弾けることが約束されたこの香り。
「楽しそうだね」
白詩だった。いつのまにか燎太郎の横に立っている。
「……そんなに身構えないで、本当に悪かったと思ってるから。改めて謝罪、ごめん、グイグイ行きすぎて」
燎太郎は、笑顔を作って「気にしないで」と言った。顔面ストレッチかと思う。
「健吾も、教えてくれてありがとね」
白詩は健吾の方を向きこう言った。
「構わないよ、早瀬くん」
「いや、だからシロでいいんだってばシロシは言いにくいからね」
燎太郎は白詩の態度に激しい違和感を覚えた。一見フレンドリーだが、同じクラスになってから、一度も彼に話しかけたことなどないのだから。それなのに、いきなり呼び捨て……。
その裏の魂胆をうっすら想像すると、燎太郎は怖気がした。燎太郎と健吾のクラスターを乱暴に歪められた気がするので。
でも、そんなことを決めつける自分も嫌だった――汚い。
「あのね、健吾。生徒会の友達に聞いたんだけど、意見箱に意見書入れてたんでしょ? ホラ、健吾、ちゃんと記名してくれてたじゃん? だから同じクラスのおれに頼まれたってわけ」
「あ、うん。イラガ、毛虫が落ちるらしくて。生徒が危険だったからね」
健吾は、ああその件か、といった風に興味を示したようだった。
「それね、先生がベンチにどうせ誰も座ってないからって認識で、後回しにしちゃってたんだって。だから、おれのクラスメイトが使ってるからって言って駆除、ちゃんとしてもらえることになったから」
なんて恩着せがましい言い方……。燎太郎はそう思った。
「おお、ありがとうシロ」
そのとき、やっぱり燎太郎は見てしまった。いつぞやと同じ、白詩が健吾を見る目。
――呼び捨てにされるのが嫌なら、ニックネームなんてハナから教えなければいいじゃないか。
クラスターはときに、すぐに分かれてしまう。ブドウの房も引っ張ったらすぐに千切れる。
ただし、それは誰かの意思でもって、初めてなることだ……白詩はその誰かになるつもりなのだろうか。
燎太郎は、健吾とゆっくりと作り上げた〝和〟を乱される気分だった。




