三章 雨は降り水は流れる
「おはよ、燎太郎くん、てか燎太郎でいいよね」
クラスメイトの早瀬白詩は、教卓に肘をついて上半身を倒し、燎太郎を見た。
絶妙な距離感だ、と燎太郎は思う。教卓から見て右寄り、目の前に座る燎太郎に、物理的には近すぎずも、教卓という教室のシンボルから話しかけることで、視覚的なインパクトは充分に与えていた。
「今年の文化祭もさ、多分おれ文実入るから、今度こそ一緒に歌わない?」
燎太郎は曖昧に笑いながら白詩を見る。
深い緑の大きな鉄板の表面は、チョークの粉でほんのりとアイシングされていた。
「ごめん、早瀬くん、去年も言ったと思うけど、おれオペラはやめたから」
巨大なアイシングクッキーに白詩がくっきりと浮かび上がる。紺色に白とグレーのライン入りのニットベスト、緩めた首元から、ガングラブチェックのネクタイがだらりと垂れる。
生徒たちの熱気が充満しきる前の、ややひんやりとしたこの部屋。白詩は「にい」と口の端を吊り上げる。わざとらしい石鹸の香りがした。燎太郎は……またか、と思った。
去年も燎太郎と白詩は同じクラスだった。彼はオペラの活動をしていた頃の燎太郎を知っているらしく、「文化祭だけでいいから」と、軽音部活動のツインボーカルに誘った。
「てか、おれのことも〝シロ〟でいいってば、シロシって言いにくいじゃん。つか、去年も言ったけどオペラじゃなくていいんだよ」
燎太郎はつい、へらりと笑ってしまう。こんな態度が、彼を期待させてしまうとわかっているのに、どうしてもキッパリとした言葉が言えない。そうすることで、相手の眉がどんどん吊り上がってゆくのが怖いのだ。
幸い、白詩はにこにこと人懐っこい笑顔を浮かべていたが、背中に冷たい汗が伝う。シャワーがあたたまる前にうっかり浴びてしまったあの感覚。
「うん……シロくん、ごめんね、もう人前で歌を歌いたくないんだ」
――勝手だと思ってる。その言葉を燎太郎は飲み込んだ。いや、勝手ではない。勝手ではないはずだ。
「もったいないよ! 燎太郎の歌、みんなに聞かせるべきだってー、ねーみんな燎太郎の歌、聞いてみたいよねー?」
白詩は上半身を起こし、クラス中に響く声でこうアンケートをとった。パラパラと手が上がる、ニヤニヤして状況を楽しんでいるもの、白詩に愛想笑いを浮かべながら挙手するもの、「はーい」と言いながら元気よく手を上げるもの、無関心にホームルームの準備をするもの、まちまちだった。
燎太郎は、顔を伏せてしまう。去年もこんな感じだった。燎太郎は文化祭まで、どうやってやりすごしていただろうか、と思い出す。教室には出来るだけいないで、文庫本を静かに読める場所を探す……そうだった、健吾と座ったあのベンチはそのときに見つけた穴場だったのだ。毛虫が落ちてくることがあるのでひと気がないから。燎太郎はそれについては気にしなかった。
でも、健吾もその点が大丈夫か、前もってちゃんと訊くべきだったな……。
「冷泉くんが嫌がってると思う」
その、健吾の声が聞こえた。ふいっと教室の入り口を見ると、健吾がパーカーを被ってずぶ濡れで立っていた。燎太郎はギョッとする。気がつけば、窓の外がザアザアと言っている。雨しぶきがスチームアイロンの蒸気のようだった。燎太郎が慌てて健吾に駆けよると「健吾くん、保健室でタオル借りよう?」と声をかけた。
「ごめんね、燎太郎。そんなに嫌がってるって気づかなくて、本当にごめん」
その後ろから、白詩の声がまっすぐレーザービームのように飛んでくる。声のトーンは優しげだった。
燎太郎は振り返り、ぺこり、と頭を下げた。嫌だな、顔、引きつってなければいいけど、そう思った。だけど、見えてしまった、白詩が健吾を見る目。
「すまん、冷泉くん、傘をまんまと忘れた。ひとりで行けるから、教室に戻っていいぞ」
健吾が、ポケットからタオルハンカチを取り出して、首筋やら、拭けるところは拭いている。廊下を濡らさないように、気をつけているようだ。
「ごめん、健吾くん、おれも一緒に行っていいかな?」
燎太郎は、そう言うと健吾をじっと見た。健吾も燎太郎の顔を見る。
「……そうだな、うん、そうしよう」
「ありがとう」
ほっと息をつくと、燎太郎は迷わず歩調を強めた。健吾が風邪をひいたら大変だからだ。保健室に行く途中の廊下から見える紫陽花(まだ花は咲いていない)を雨霧が霞ませる。
その横を、燎太郎と健吾はペタペタ歩いていく。
☂☂☂
カラカラと音を立て、保健室の扉を開けると、養護教諭の長谷川先生が「たいへん!」と大きな声をあげた。聡信学院は私立の高校なので、義務付けられているわけではないが、養護教諭だった。
濡れネズミといったていの健吾を素早く保健室に招き入れる。
この部屋はいつ来ても消毒液の匂いがする。うちの救急箱を時々開けるが、それらの中身がこの部屋には何倍も置かれているので、問屋さんのようだと燎太郎は考えていた。
机の上のピンセットや、体温計。湿布の入った段ボール。雑多にものが置かれているが、燎太郎はこの部屋が一番、学校の中で清潔な部屋に思えた。
「六角さん、また傘忘れたの? あ、冷泉さんは付き添い?」
長谷川先生は健吾をパーテーションのある場所まで促しながら、燎太郎をチラと見る。先生はいつも、こげ茶色に染めた髪を、ぴっしりと結い上げていた。
「いいえ、おれも具合悪くて、ベッド借りてもいいですか?」
「あら、熱も測る?」
「熱はないと思うので、大丈夫です。ちょっと気持ち悪くって……」
「あらら、大変ね、そっち側のベッド使っていいですよ」
先生はそう言うと、右手で窓際のベッドをあおぐようなジェスチャーをした。静かな保健室の窓には、ぴつぴつと雫の当たる音がする。それに雨粒が方々にぶつかるドドドという音が重なると、雨音のオーケストラみたいで、燎太郎はつい耳をそばだてる。
健吾が、いつもより色の濃ゆくなったブレザーを脱ぐのを目で追っていると、
「冷泉さん、着替えるから……ね」
長谷川先生が燎太郎の方に顔を向け、こう声をかけた。
「あっ、すみません、体育のときの着替えの気分でいた……」
燎太郎は我にかえったように、慌ててベッドを仕切るカーテンを閉める。自然と健吾を観察していたことに気づき、つい言い訳を口にしていた。それは一見微笑ましくあるようで、その奥に隠れた感情を覗くと、燎太郎は少しゾワリとしたものを覚えた。
いつしか過剰に健吾を気にかけている――自分は「助けてあげる」側。そう勝手に決めつけていなかったか?
それは、優越感や傲慢さにつながりかねない、という危ういものに思えた。
先生にそれを見透かされたかもしれない、と思うとたまらずに、弁明せずにはいられなかった。
まだ、羞恥でカッカと身体が熱く脈打つ。
──恥ずかしい、汚い。
のそのそと布団に潜り込みながら、燎太郎は頭の中で繰り返す。
「六角さんは、着替えたら授業に戻る?」
カーテン越しにゆらゆらと影が揺れる。燎太郎は目を閉じた。ごうんごうんと雨が、校舎に張りついた管を伝って走る。
「あの……ぼくもベッド借りていいですか?」
遠慮がちな健吾の声が聞こえる。
「そうね、身体が冷えてるかもしれないから、あったまっていったほうがいいかも」
影がこちらに近づく気配がした。シャッという摩擦音のあとに、かすかに空気が揺れるのを頬で感じる。隣のベッドがギシと軋む。ひゅっとかために聞こえる衣擦れが、パリッとした保健室の布団を思わせる。
「……冷泉くん、ふたりとも保健室の常連だったとはね、長谷川先生がキミの名前も知っている」
カーテン越しに、声をひそめて健吾が話しかけたので、燎太郎は思わずふっと笑ってしまう。
「うん、よくベッド借りてるんだ。ねえ、眼鏡外した?」
眼鏡ユーザーとしての先輩風を吹かせてしまい、燎太郎はもはや笑うしかない。
「いや、外したら忘れそう……大丈夫、寝返りは一切うたない。あたたまったら教室に帰るから」
いまにも眠ってしまいそうなふわっとした声で健吾が答えるので、燎太郎は苦笑いを浮かべ目を開けた。
「健吾くん、言ってなかったけど、いつもお昼に使ってるベンチ、時々毛虫が落ちてくるんだよね、大丈夫?」
「えっ、それは良くないな。カエデにつく毛虫ならイラガかなあ。あいつらは毒を持っている。刺されたら大変だ……しかし、見るぶんにはかわいいよなあいつら。ぼくはうちの窓に張りつくヤモリなんかにも名前をつけるぞ。今度見かけたら名前をつけてみようか。いや、刺されたら大変だ」
「ミスター・ポイズンとか?」
「いや、それは直球すぎる」
健吾にバッサリと斬られて、燎太郎はふふと笑う。
「名前は顔を見ながら決めるべきだ、いやヤモリは窓越しだから腹だけど、ああ、ごめん、喋ってたら休めないよね」
「健吾くんは寝ないようにね」
「任せておけ」
そう言いながらも健吾は相変わらずふわっふわの声だ。燎太郎はふたたび目を閉じた。
木の幹にぶつかる雨粒、雨霧を巻き込む風が転調を繰り返す。燎太郎は冷え切った手足にそれが当たっているのではないかと錯覚した。それを白詩は知っているのだろうか。この冷たさは彼が燎太郎の血を抜いたから起こるものだ。白詩が目を細めると、燎太郎の血管をぎゅうと絞る。白詩が口を鋭角に持ち上げると、指先の細いところをすぱりと切る。彼の生来の人当たりの良さがそれをコーティングする。
しかし。
燎太郎は自分の中に白詩と同じ傲慢さを見た。それがなにより、燎太郎の中の血潮を奪っていくような気がした。ぴちゃんと音がして、燎太郎は雨粒を弾く紫陽花の葉を思い浮かべる。
そうすると、また目を開ける。ざわざわと廊下から声が聞こえるので、しばらく眠ってしまったのだろうと燎太郎は考えた。横を見ると、カーテンがさっきより一段階明るく、隣のベッドがカラなことをしらせていた。
「あれ、健吾くん帰っちゃった?」
まだ少し寝ぼけているように思う。
「冷泉さん、開けていい?」
長谷川先生がカーテン越しにこう尋ねる。
「あ、はい!」
燎太郎がこう答えて、三秒後にカーテンが開く。彼はその時間で上半身を起こした。
「どう、大丈夫そう?」
燎太郎はカーテンを開けるのを手伝う。その顔色を、眼球を素早く動かして診ながら、先生はこう言った。
「はい、だいぶいいと思います。手足も冷たくないし」
燎太郎がこう答えると、
「そう、よかった。手足が冷たくなってきたら、ゆっくり息を吸う……ちゃんとやってる?」
「はい、やってます。最近は息苦しくなってないです」
燎太郎のその言葉を聞くと、先生は安心したように微笑みを浮かべた。踵を返して、デスクに戻り、書類仕事を始めた。
燎太郎は、ベッドから降りると、布団を整え、枕についた緑色の抜け毛を拾い、ベッド横に置いてあるゴミ箱に捨てた。
ふと、健吾のベッドに目をやると、マイクロファイバー製のメガネ拭きが枕の横に落ちていた。ツヤっとした水色で、メガネ屋さんのロゴがプリントされていた。
「このメガネ拭き、健吾くんのかな……」
誰とはなしに燎太郎が呟くと、
「ああー! そうかも。六角さん、着替えた後もメガネ拭きだけは握りしめてたから」
長谷川先生が、燎太郎に向き直り、こう言った。
「あ、じゃあ、おれ届けます」
「うん、お願いします。助かる」
先生のその言葉と同時に、燎太郎は水色の布を拾い上げる。健吾の利き手は右手だ。なのに、その逆にめり込むように落ちていた。
「……寝返りうたないって言ったじゃん」
ツルツルと滑らかなメガネ拭きを丁寧に畳み、カーディガンのポケットに入れると、燎太郎はまた、苦笑いを浮かべた。
燎太郎は、デスクの前に座っている長谷川先生の横に立ち、
「お世話になりました。お手数かけて、すみません」
と頭を下げた。先生は寂しげな顔でフッと笑うと、
「そんなにかしこまらなくていいよ。まあ、礼儀は大事だけどさ。六角さんもいつも似たようなこと言って、帰っていく。でもね、少なくともウチの生徒でいる間は、学校におとなしく守られときなさい。保健室だろうと、使える制度は使っとくのよ」
ニッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「はい、ありがとうございます」
燎太郎が少し恐縮しながらこう答えると、先生はこう続けた。
「あなたたち、小さな頃から大人の世界でやってたから。妙に、大人に気を遣いすぎる部分があるんだよね、ちょっと心配……」
彼女は頭を伏せた後、ハッと顔を上げると、
「今わたし〝あなたたち〟って言ってた? ヤダヤダ、間違えた、あなたね、あなたたちじゃなくあなた」
先生はこう言って、ピースマークを突き上げ、指と指をくっつけたり開いたりした。
「オフレコ」や「カット」のジェスチャーだ。
燎太郎と、健吾がまだどこまでお互いの情報を交換しているのか、先生からするとわからないから、配慮してくれたのだろう。
「大丈夫です、おれ健吾くんが、テレビに出てたこと知ってますよ」
燎太郎は、先生を安心させるためにこう言った。
「そう」
先生の答えはあっさりしていたが、その顔には感謝の色が滲んでいた。
燎太郎は、改めて一礼をすると、保健室を後にした。
今日の雨はしつこかった。じめっとした廊下を通って教室に戻ると、浅葱色のジャージをまとった健吾がお店を開いていた。
リュックの中身を引っ掻き回しては、机に並べる。よれよれのプリント。ビニール製のポーチ。A4とA5サイズのクリアファイルが各一枚。ラムネの箱。
燎太郎は彼が、雨に濡れた荷物を乾かしているのかもしれないと思ったが、紺色の眼鏡ケースを見つけたそのとき、健吾があからさまにあたふたとしはじめ、開けたり閉めたりひっくり返したりしているのを見て、燎太郎は健吾の席に向かう足を速めた。
「健吾くん、これ探してない? 保健室に忘れてたよ」
燎太郎がメガネ拭きを差し出し、こう声をかけると、健吾は「おおっ」と声を上げ、燎太郎の方を見た。
「あっ! 保健室に忘れてたのか。ありがとう、助かったよ冷泉くん。眼鏡が曇って気持ち悪くて仕方なかった」
顔をくしゃくしゃにして健吾がこう言うと、メガネ拭きを受け取り、レンズを磨き始めた。
「どういたしまして」
燎太郎はこう答えて、何気なく健吾の机を見ると……「レアなもの」が目に入った。クリアファイルの下に置かれた、黄ばんだ白い本。表紙には、青い鎧をつけ、哀愁を帯びた笑みを浮かべた騎士が描かれていた。三十年以上前に発行されたものだ。
「えっえっ!? 設定資料集だ!」
燎太郎は思わず声を上げてしまい、慌てて自分の口を押さえる。レトロなロール・プレイング・ゲームの設定資料集は、学校に持ってきてよいものではないだろうから。
「ああっ、これ……教科書に紛れてたんだ。探してた」
健吾は持ち上げて、パラパラとめくる。古びた紙と健吾の「家」の混ざったような匂いがした。赤茶けたページが、背表紙の糊からこぼれ落ちてしまいそうで、燎太郎はハラハラした。
「読んでみたいー、おれ、設定とか読むの大好き」
興奮を抑えたうわずった声で、燎太郎はこう言った。燎太郎のゲーマーな両親は、あまり設定資料集などは集めないタイプだった。
「うん、いいよ」
健吾が本を渡そうとすると、燎太郎は反射的に時計へ顔を向け、
「あっ、ダメだ! 授業始まっちゃう」
と、焦る。その長針はもうすぐで授業が始まることを告げていた。
「じゃあ、ウチに来るか? 家に帰ればもっといっぱい資料集が置いてあるぞ」
健吾の提案に、燎太郎は顔を輝かせ、
「いいの?」
と聞き返した。
「もちろん、冷泉くんがよければだけど」
健吾のその言葉に、燎太郎は勢いよく頷いた。
燎太郎はそれから、授業が身に入らなくて困った。「いっぱい資料集が置いてある」それは燎太郎にとって宝の山があることを意味していた。
設定資料集というものには、未公開のイラストが掲載されているものが多かったし、裏設定、ボツになったプロットなどが書かれている場合もある。それを読むことは燎太郎にとってまさに、お宝を掘り起こす瞬間だった。物語にも魂があるとしたら、その魂の根底にあたる部分だ。そう考えると、燎太郎は急に「宝」という物質的な例えが失礼に感じてくる。
先生の目の前の席なので、いつもはしないように気をつけている手遊びだが、ついシャーペンの頭を指揮棒のように振ってしまうし、昼休憩のときなどは健吾に何度も「本当に行っていいの?」と確認してしまったほどだ。
「大丈夫、スマホで両親にも確認取ったし。っていうか本当に今日? 冷泉くんはもう、体調はいいのか?」
「うん、大丈夫。むしろ今日金曜日でしょ、土日挟んだら待ち焦がれて逆に具合が悪くなっちゃうよー」
少々困惑気味の健吾に、燎太郎はおどけてみせた。ご機嫌な様子を隠すそぶりはないみたいだ。
カエデの葉が雨に打たれている。燎太郎は愛犬のエスカミーリョをシャワーで洗い流すときのことを思い出した。しっとりと毛を重くしながらもじっとしている。今日のカエデの木もどこかしょぼんとしている。
いつものベンチも濡れていた。購買兼食堂のテーブルに座ってうどんを啜りながら外を眺めていた。
窓はいくつもの雫をくっつけ、重みに耐えられなくなったものからつつーっとフレームアウトしていった。途中で何粒か巻き込んで落ちるので、死なばもろとも、と頭の中でリフレインさせながら、燎太郎はなんだか妙に可笑しかった。
周りを見渡すと、いつもより一段と混みあっているように思う。ざわめきもワントーン低く感じた。
「……春のあいだは大丈夫だろうな」
健吾がポツリと言う。なんのことだろうと燎太郎が顔を向けると、健吾はこう続けた。
「初夏くらいから注意しないといけないだろうな。イラガはそのくらいにタマゴから孵る。もちろん何事にもイレギュラーはあるから、いつでも気をつけるに越したことはないけど」
「ああ、ミスター・ポイズンの話?」
燎太郎はそう聞き返すと、鉢を持ち上げてスープを啜った。まだ、鉢越しの温度が伝わってきて、手が熱かった。
「本当にその名前でいいのか? 顔を見たら絶対に変えたくなると思うよ。インスピレーションが湧くんだから」
そう言うと、健吾もうどんの麺を持ち上げる。燎太郎はうーんと唸るとこう答えた。
「じゃあ、顔を見るまでの仮称ということで」
「いや、見る前提で話が進んでいるな。本当は良くない。学校に言って駆除してもらわなければ」
真剣な顔で健吾はうどんを口に運ぶ。燎太郎はそれってどこに頼めばいいんだろう、と考えながらふと気づく。
「健吾くん、食堂って……匂い大丈夫?」
健吾に顔を寄せ、声をひそめながら燎太郎は尋ねた。あたたかい料理は、匂いもたつような気がしたから。
「うん、カレースパイスのにおいは嫌いじゃない。それが一番強いのが幸いだな」
そう言うと、健吾はフッと笑った。つられて燎太郎も笑ってしまう。
♢♢♢
オパールグリーンのカーテンの向こうで白くくすぶる空を見ながら、燎太郎は晴れたらよかったのにと思った。ホームルームが終わった教室は浮かれているのに。
湿気が熱気に変わって少しだけ暑い。それを除けば燎太郎も浮かれてはいた、が。
教科書をリュックにしまう手が軽やかだった。
教室の出入り口に向かう人の流れに逆らって、燎太郎は健吾の席に向かう。
健吾は机の中を指差し確認すると、立ち上がって燎太郎とクラスターになる。教室の中はそうやっていくつかの房になっていることを、燎太郎は今やっと見えるようになった気がした。
保健室に寄って、健吾は自分の制服を受け取る。健吾はなんども頭を下げて、燎太郎はさっき先生が言っていたことをぼんやり理解した。
燎太郎はいつも正門を使っていたが、健吾は裏門を使っているという。
昇降口を出ると、校舎の横を抜けて、駐輪場に出る。雨を受けて紫陽花の葉がヘッドバンギングしている。廊下から見る姿とは違うということも、今日初めて知った。
燎太郎は健吾を自分の傘に入れ、
「コンビニ寄る?」
と訊いた。
「なんで?」
と健吾が返したので、
「傘買っていくかなって」
燎太郎がそう答えると、健吾はピタリと立ち止まった。
「そうか、コンビニで傘を買えばいいんだ。コンビニなんてどこにでも店舗があるんだから……あれ? なんでだろ、ぼくはウチの近所のコンビニしか〝買い物するところ〟だと認識してなかったな」
目線を泳がせながら、おろおろと健吾がこう言う。車輪の再発明をした人類みたいな顔をする。
「でも、傘を忘れるたびにコンビニで買ってたんじゃ、ぼくのお小遣いは吹き飛んでしまう。根本的に忘れないように対策する方がいい」
一通り思案したあと、健吾はこう結論を出したようで、肩を落としふたたび歩き始めた。燎太郎は思わず噴き出すと、健吾をまた傘に入れた。
燎太郎はいつもと違う通学路を歩く。裏門から出ると、道路を挟んでタウンハウスが並んでいた。三角形のガーランドをひっくり返したような尖った屋根に、カントリー調の鎧張り。板木は水色、からし色、ラベンダー色などが全てスモーキーカラーで統一されていた。レンガ調タイルが土台を支えているようで、おしゃれだ。
その家並みを抜けると、鉄筋コンクリートで五階建てのアパートが見えた。その一階部分にコンビニの店舗が入っている。
「あっ、あそこにコンビニがあったぞ! 冷泉くん寄っていいか?」
健吾は向こう側のコンビニを、腕を畳んだまま指差した。横断歩道が近くにあったので、それをわたり、ふたりはコンビニへ入った。
燎太郎の赤い傘の横に、健吾の透明な傘がパッと咲く。一足早く咲いた紫陽花のようだ。このコンビニは学校からこんなに近いのに、ふたりとも初めて入った。
しばらく歩くと、ネット状で色褪せた緑のフェンスが目に入り、その向こうで切り立ったコンクリートの堤防、その下に小川が流れていた。雨で流れが速くなり、ざんざんと音を立てている。
相変わらず民家やマンションは建ち並んでいたが、この辺りは比較的視界が開けていた。
空き地と言っていいのだろうか、雑草だけが伸びる児童公園ほどの広さの土地に隣り合って、クスノキやケヤキが何かを取り囲むように立っていた。その中心には神社があるのかもしれないと燎太郎は考える。湿った風が一陣、通り抜けた。
その小川沿いに十五分ほど歩くと、健吾が「あれ、我が家」と今度は遠慮なく指差す。
ふたりで縦に並んで歩いても、人ひとりなら余裕ですれ違えるくらいの歩道から、ゆるやかな坂道が一本逸れていた。坂道の脇は緑の雑草……健吾に雑草と言うと怒られてしまう……が生い茂り、タイル模様の石垣がにゅっと生えている。その石垣の上にさらにどっしりと構える、コンクリート造りの建物が見えた。
一見すると、燎太郎は倉庫かと思ったが、よく見ると、二階部分は木造建築で、ベランダがコンクリートのスカートの上にちょこんと乗っていた。物干し竿が止まり木のように洗濯バサミを止まらせているので、確かにここで健吾が生活している息吹を感じた。
「一階は簡易ラボになってるんだ、二階に上がるぞ」
門をくぐると、庭には砂利が敷かれていた。プランターが並んでいて、よく見るとそのほとんどがハーブのようだった。小さな窓のついたコンクリート部分。研ぎ石のようにてらてらと濡れた壁をまわると、門から見て裏の方に玄関があった。横長に方眼の並んだ傘立てに「適当に突っ込んでいいよ」と言われたが、これは業務用ではないかと、燎太郎は笑顔をひきつらせる。
頑丈そうなアルミ製のドアの横に、ガソリンスタンドでよく見る黒い丸型の出っ張りがある、と思うと同時に、健吾がそれに触れた。
「ラボの入り口にもあるんだが、玄関でも一応。冷泉くんも触ってくれないか。静電気が飛ぶとヤバいものもあるから」
「えっ、これガソスタとかにあるやつ? 静電気除去の……」
燎太郎が尋ねると、健吾は「そうそう」と頷いた。
「そんなに怯えなくても、念の為だよ。試薬の管理は両親がキチンとしてるから」
その言葉を信じて、燎太郎はその黒い丸に触れた。続けて健吾が鍵穴に鍵を差し込んだとき、少しヒヤリとしてしまった。(推理小説ではなにかと細工されがちな鍵穴。燎太郎のイメージでは火花が飛ぶ)
玄関を開けてすぐに階段があった。玄関にはビニール製の長靴がそびえ立ち、アルコールなどの薬品の匂いが微かに漂っている。
「アルコール臭くてすまないね、玄関も散らかってるけど上がってよ」
「お邪魔します」
燎太郎が声を上げ反応を窺っていると、
「ああ、大丈夫いま親、どっちもいないから」
と、健吾が言うので頷いて靴を脱いだ。階段を登りながら健吾は、
「本当は冷泉くんにもラボを案内したいけど、そもそもぼくが親に許可をもらわないと入れないし、スマホで『お友達は絶対入れちゃダメ』だと、どっちからにも釘を刺されたよ。はは。確かに冷泉くんに何かあっては大変だからね」
燎太郎は「それはそうだろうな」と「ちょっと残念だな」がちょうど半分くらいの顔をした。
階段を上ると、左手にリビングダイニングとキッチンがあった。よそ様の生活空間なので燎太郎はサッと目を逸らすが、椅子が四脚据えられた無垢材のダイニングテーブルの上は片付けられていた。
健吾は廊下を歩くと突きあたりの部屋のドアを開けた。チャッとラッチボルトの引っ込んだ音が響き、ドアがこちら側にぐいんと弧を描く。廊下には右手にも左手にもふたつずつドアがある。ダイニングテーブルと同じような材質のドアがしっかりと閉じていた。
「ごめん、ほんと散らかってるけど、どうぞ」
健吾は少しそわそわした様子だ。
「お邪魔します」
燎太郎は改めてこう言うと、健吾の部屋に足を踏み入れた。
学習机が目に飛び込んでくる。キャビネットにはびっしり図鑑や辞典などが並べられており、「科学」や「分子」などの文字が目立った。本の高さは同じもので纏められており、背の順に並んでいた。燎太郎は思わず「机重そう……」と考えてしまった。その上にふたつの横スリットのような細長い窓が並び、空色のカーテン越しにうっすらと光が射している。
机の上にはノートパソコンと、パットと呼ばれるボタンのようなものが、いっぱい搭載されたサンプラーが置かれていた。パットはポチッと押せば、あらかじめ録音されていた音が鳴る。
燎太郎は「なぜサンプラーが?」と思ったが、学習机の右横にある本棚に興味が移った。
「冷泉くん、その本棚、右下あたりに、資料集が集まっているぞ、ほんの一部なんで、なんかご所望のタイトルがあったら他の部屋から持ってくるけど……」
「いや、大丈夫だよ! これ没シナリオのノベライズが載ってるやつだー。番外編もある! もー嘘でしょー充分だよホント」
心臓が高鳴るのを隠しもせず、座り込んで、本棚を眺めた。ここでも、ゲーム会社、ゲームタイトルごとに、背丈を合わせて並べてあった。
「じゃあ、どれでもいいんで、読んでていいよ。ぼくこのジャージ、借り物なんで着替えてきていい?」
燎太郎は、保健室での出来事を思い出し「そうだね」と頷いた。
健吾がドアを閉める音を確認したら、燎太郎は番外編の設定資料集を読み始めた。
少しざらついたページは、細かい傷や指の皮脂を思わせた。例によって、背表紙からぱらりとページが落ちてしまいそうで、ハラハラする。この本は分厚い。燎太郎は映画館の大盛りポップコーンのように、どう全てを楽しもうかと胸をワクワクさせた。痛いほどだ。
夢中でページをめくっていると、またチャッとドアが開いた。
上下グレーのスウェット姿で、手に持ったお盆の上にハーブティー、個包装のミックスナッツが乗っていた。
燎太郎は、本を丁寧に本棚に戻すと、健吾からお盆を受け取った。
「すまない、なんかこんな服しかなかった……。おやつも、もっと、こうキラキラしたものがあればよかったんだけど」
健吾はそう言うが、紺色のソックスが、薄グレーの膨張色を引き締めていた。部屋のほぼ真ん中にある、シンプルな四角形の白木調のローテーブル、燎太郎はその上にお盆を置いた。
「お構いなく、それにハーブティーもナッツも好きだし」
「そうかよかった、召し上がれ」
健吾に促され、いただきますを言って、袋を引っ張って開けると、マカデミアナッツをつまみ上げて、口の中に運ぶ。それを飲み込んだら、ハーブティーをつまみ上げる。アップルミントだった。燎太郎はふうと一息つくと、雨で冷えた身体が温まるような心地がした。
「健吾くん、ウェットティッシュみたいなのある? ナッツって結構脂分あるでしょう? 本についたら大変だからさ」
「冷泉くんこそ、そんな気を遣わなくていいぞ」
そう言いながらも健吾は、ボックス型のウェットティッシュのケースを差し出した。
「ありがとう」
燎太郎はお礼を言いながら手についた油脂を丹念に拭き取ると、使用済みウェットティッシュをカーディガンのポケットに入れ、また本棚に手を伸ばした。そのとき燎太郎はふと気づく。
「あれ? これ吸音材じゃない?」
本棚の横、壁に目をやると、ウレタン素材の吸音材が壁の全面、天井にまで張り巡らされていた。
燎太郎は健吾の顔を見ると「バレたか」という感じで、彼は目を伏せて複雑そうな笑みを浮かべていた。
「じつは、むかし、叔父さんにエレキギターを借りたことがあって。あまりにもぼくが夢中になって弾くもんで、結局は譲り受けてしまった」
「へー! すごい」
燎太郎は目を見開いて微笑むと、健吾の方を見た。健吾は少し落ち着かない様子でこう尋ねた。
「……聴く?」
燎太郎が力強く頷くと、健吾は少し気恥ずかしそうにしながら、スススッとフローリングを滑るようにクローゼットへ向かい、年季の入った、ところどころニスのハゲたエレキギターと、ミニアンプをクローゼットから運び出した。
健吾はストラップをギターに取り付けると、拳よりひとまわり大きいくらいのミニアンプにギターを繋いだ。
ベッドに座ると、健吾はギターを構える。開放弦を鳴らすとペグをゆっくり回し、チューニングを始めた。
空気を振動させることによって音が鳴る。
燎太郎にとってはもう、むかし、誰かが言っていたことだが、その言葉のとおり部屋の空気が揺れる。
健吾の手元ではじく弦がキュッと鳴る摩擦音と、アンプから飛び出たコードを通したエレクトリカルな電子音が重なり合っている。
燎太郎は、チューニングでだんだんと整っていく、この空間を懐かしく思った。
「さっき冷泉くんが読んでた本のゲーム。どこでかかる曲か当ててみて」
健吾は悪戯っぽく言った。サンプラーの横からピックを拾い上げると、パットを操作して音を流した。シャンシャンとドラムのハイハットが一定のリズムを放つ。ああ、このためにこれがあったんだと燎太郎は納得した。
イントロから健吾の指はネックの上を跳ね回る。軽快でテンポは速いが、これから始まる長い戦いの序章のような静かな予感がある。
「怒涛の四連戦のとこ!」
燎太郎が声を上げると、健吾はニッと笑って続けた。
ところどころたどたどしくはあったが、ヤギの鳴き声に似たギザギザの波形の音は、ミモザの花を思わせる。健吾が六本の弦を飛び回ったり、パソコンのキーボードの打鍵のように、弦をタッピングするたび、燎太郎の頭の中にはミモザが咲いた。
この曲がかかる場面は四連戦で、戦いが終わると次の戦いに向かわなければいけなかったのに、進む手を止めて四分弱くらいただ聴いていたこともある。
燎太郎は気がついたら身体をゆすっていた。……自然と音楽に身を委ねたの、何年ぶりだろう、と思う。
演奏が終わると、燎太郎は下を向いて「これ好き」と言った。
「そうか、よかった」
健吾は安心したように笑った。
「レトロゲーの曲再現、パソコンの打ち込みとか、いろいろ試したけど、エレキギターが個人的には一番しっくりきたんだよね」
燎太郎はのろのろと顔をあげて微笑みを浮かべると、確かにレトロゲームの音源、いわゆる「ピコピコ音」と、ギターの音色は相性がいいかもしれないと思った。
「あっ、じゃあ、ひょっとして健吾くん自身がやりたい、ことって……」
燎太郎が遠慮がちにこう尋ねると、
「いや、これは息抜きの趣味。やりたいことはね……実はこっち」
健吾がこう答えて、ギターをベッドに置くと、おもむろにパソコンを立ち上げ始めた。
ふたりともなにも言わずに、ゆっくりと立ち上がるパソコンをぼぅっと眺めていると、健吾はやっとペイントソフトを立ち上げる。
作品一覧のタブから、サムネイルをクリックすると、パッと映し出されたキャンバスには、ピクセルアートが画えがかれていた。
「ハイドロマギサ三姉妹だ……」
燎太郎が後ろからパソコンを覗きながら、感嘆のため息を吐き出し、こう呟いた。
まだ小さな末娘と、スラリとした次女が横に並び、筋肉質な姉が後ろでふたりを守るようにどっしりと構えている。そのフォーメーションは上から見ると正三角形だろう。感心してしまうのは、魔女を思わせるお揃いのローブを羽織りながらも、それぞれお気に入りの服を着ているとわかるところだった。ローブを留める大きなブローチには星のマークが浮かびあがっている。
「うん、小学生のとき最初に描いたドット絵。彼女らは『デルタ』って単語が入った技を使うだろう? それで気になってね」
健吾がこう言うと、
「最初は、なにが『デルタ』なのか考察したけど、結局よくわからなくてね。エネルギーが変化してるからかな、ということで一応の決着を見たよ」
と続けた。
「えっ、おれ単に魔法の流れが三角だからだと思ってた。だから、長女が末っ子に魔法を跳ね返すカウンター魔法をかけるじゃない? 次女がそのカウンターに向かって攻撃魔法を放って、末っ子はそれを跳ね返して敵に……あれ? 全然三角じゃないじゃん! それだとY字型だよね」
ほらこう、と、燎太郎は魔法の流れを、指を動かして再現した。しばらくふたりは固まったかと思ったら、同時に糸が切れたように笑い出した。
健吾はパソコンに向き直り、画面を切り替えると「クラウド同期、終わったかな?」と言いながら、新しいキャンバスを開いた。
「これは、我らが教室です」
パッと紫を基調としたピクセルアートが映し出された。健吾の席から見た教室の構図で、教壇にスポットライトが何本も落とされていた。
「どう? シュールじゃない?」
健吾がにこにこしながらこう訊くと、燎太郎はディスプレイをじっと見つめたまま、
「ううん、キレイだよ……」
と、ごく真面目に答えた。
「教室が劇場みたい。それにスポットライトのグラデーションがすっごくキレイ。本当に光ってるみたいだよ。うちの教室、こんなにポテンシャルあったんだ……」
燎太郎は画面から目が離せないようだ。健吾は下を向いて、ありがとう、と照れくさそうに言った。
しばらくふたりで、この劇場でどんな物語が上演されるのか、ディスプレイを見ながら考えていた。声に出しているわけではないけど、きっとそうだとお互いに思っただろう。
ふと、ベッドの上に浮かぶ大きめの窓を見たら、オレンジの陽が差し込んでいた。
「あ、やばい。エスカミーリョ待ってるから、そろそろ帰らなきゃ」
燎太郎は、ハッとしてこう言った。
「え、エスカ……?」
健吾がこう返すと、燎太郎は、
「おれん家で飼ってる犬。ゴールデンレトリバーなんだけど」
こう答えた。
「い、犬さんか。ゴールデンレトリバーって結構大きな犬だよね」
「会ってみたい?」
燎太郎が悪戯っぽく尋ねると、
「うん……動物、触れ合ってみたい」
目を伏せながらおずおずと健吾が答えた。ただし、瞳はかすかに輝き、口元も緩んでいる気がした。
「いつでも待ってるよ、カルメンの登場人物から名前、もらったんだ」
燎太郎は目を細める。
「えっ、カルメンて、有名な……オペラ?」
健吾がこう尋ねるので、燎太郎はにこやかに頷いた。
――今度は、自分のことを知ってほしい、燎太郎はそう思った。




