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二章 点を打つ

Trigger warning

※嫌がる子どもに、同じことを繰り返す大人の描写があります。

フラッシュバック等にお気をつけください。

また、作中の描写は傷を抱える子どもたちに寄り添うためのフィクションであり、

作中のテレビ番組での行為は絶対に真似しないでください。

 炭酸カルシウムの粉っぽさが健吾(けんご)の鼻をくすぐった。日直が黒板を手入れしたからだ。チョークの粉がうっすらと煙幕のように舞っていた。

 三ツ矢紋のような形でCを中心にして、Oが三つ手をつないでいる。その三本の手を外からぎゅっと握るのがCa、カルシウム。そうやってできるのが、炭酸カルシウムだ。


 健吾はチョークの匂いは嫌いじゃないので、それと同時に浮かんでくる構造式にも、不快なイメージは浮かばない。

 ただ、特に好きでもないので、白い背景に黒い描線で、オーソドックスな姿が映し出されるだけだった。


 教室は、様々な匂いで溢れている。新学期から何週間か過ぎたとはいえ、床からはワックス――正確には添加剤の匂い。ワックスの主成分はポリエチレン樹脂。健吾はロボットの顔みたいな、それの構造式が浮かんではすぐ消える。

 クラスメイトの頭髪からはフローラル系のワックスの匂い。いま流行の整髪料なのだろうか。クラスの半分はこれをつけている。

 しかし、フェニルメチルシリコーンオイルの構造式には六角形が入っているので好きだった。自分の苗字は「六角(ろっかく)」だから。       

健吾はその形が全部水色に見える。自分の好きな色だから。



 ニ限目が終わったら、教卓の目の前の席を見る。正確には黒板へ向かってやや左寄り、だ。クラスメイトの冷泉燎太郎(れいぜいりょうたろう)は少し前のめりでノートに何かを書きつけていた。

 チンダル現象で、ごく薄いシルクのリボンが教室に差し込む。健吾はそれを、燎太郎のためのスポットライトだと思った。健吾が何を言っても、バカにしたように笑ったりしない彼は、RPGの世界に生まれたら間違いなく勇者だろう。

 その大きな身体を縮こめるように、いつも背中を曲げて授業を受ける燎太郎は、よく健吾の視界に入る。

 つい何週間か前までは、自分の前に座っていた燎太郎。そこに座ったままだと、そんなに窮屈そうに上半身を折り畳まなくて済んだだろうに、と健吾はもどかしく思う。窓際の席から、黒板まで、視線の流れを考えたら明白なことだった。


 ――おれは、少し見えにくいぐらいでちょうどいいから。


 眼鏡をかけない理由としては、健吾には到底理解できないものだった。非合理的すぎる。

 そう考えながら、健吾は作ったばかりの眼鏡に触れた。これをかけると、黒板の文字が信じられないくらい見やすくなった。

 すると、燎太郎はノートを書き終え健吾の方を振り返る。目が合うと、彼は柔らかく微笑み、席を立った。こちらに向かって、まっすぐ歩いてくる。「お互いに、苦手な教科を教え合う」そう協定を結んでから、燎太郎はよく健吾の席を訪ねるようになった。

「健吾くん、眼鏡作ったんだね、似合ってるよ」

 健吾の右前、机の横に立って燎太郎が声をかけた。

「ああ、ありがとう。しかし、ぼくは冷泉くんと同じやつが欲しかった。見つからなかったから似たようなのにしたよ」

「へえ、気に入ったの?」

 少し艶のある、オーバル型の黒縁眼鏡を見ながら、燎太郎はこう尋ねた。

「いや、冷泉くんの眼鏡を借りたときに、本当に見やすかったんだよ、だからあのときの体験を再現したかった」

「そっか、残念だね、あれ限定生産だったんだよ。フラワーアレンジメントアーティストとのコラボだったから。赤いカーネーションがワンポイントで入ってたからね、それがいいなって思ったんだ」

「そうだったのか? もうそのコラボは終わったということでいいんだな?」

 健吾が残念に思い肩を落とすと、燎太郎は静かに頷いた。

「その眼鏡、見やすい?」

 続けて燎太郎が尋ねると、

「それは問題ない……ただ、冷泉くんの眼鏡が、一番よく見えた気がするんだよなあ」

 健吾はやはり、納得がいかなかった。

 すると、健吾はにわかに顔をしかめた。CH3COCH3。これが飛び込んできたから。構造式の図は浮かぶが、カルボニル基の線が心電図のノイズみたいに乱れる。一番苦手な匂い。アセトン――除光液の匂いだ。

 健吾はさりげなく鼻に拳を当て、下を向く。刺されたかのように嗅上皮がヒリヒリして、額に汗が伝った。顔もきっと青ざめているだろうと、健吾は思う。苦手なのに小さな頃からいつも嗅いでいた。いや、いつも嗅いでいたから苦手になったのか。これを嗅ぐと、大人たちの笑顔が思い浮かぶ。それは、ちっとも自分に親切ではなかった。涙越しに、目を細めた顔がくしゃりと歪む。それを思い出すと、呼吸まで苦しくなるようだ、すると、頭の上から燎太郎の声が聞こえる。

「健吾くん、ジュース買うのまた忘れちゃった、自販機、行こう」

 健吾は、正直に言うと――助かった。と思った。


 廊下を歩く燎太郎を、ペタペタ追いかけると、彼は振り返り「大丈夫?」と尋ねた。「なにが?」と健吾が答えると、燎太郎はハッとして、

「……ごめん、大丈夫じゃないよね、顔色悪いよ」

まっすぐ目を見て、そう、言ってくれた。

「……すまん、気を遣わせて、アセトン……マニキュアの除光液の匂いは、昔から苦手で」

 健吾がこう答えると、燎太郎は静かに「謝らなくていいよ」と言う。その声に、健吾は顔を伏せた。謝罪の言葉を喉の奥に押しやる。申し訳なく思うのに、謝るべきではない。そうなると、どうするのが「正解」かわからなくなるから。

 昇降口に置かれた自動販売機がカションと乾いた音を立てる。硬貨がリズミカルに飲みこまれる音、赤くランプの点いたボタンを押す音、その一つひとつに健吾は、マウスのクリック音を重ねる。

 こんなときは、いつも〝点〟を打つ。パソコンがないときは頭の中で。水玉、ドット。分子。原子。この世のものはすべて「点」で構成されていると言っても、過言ではない。そう思うと、健吾は点を打つ作業が楽しく思えた。

「外の空気、ちょっと吸っていこう」

 結露で濡れたカフェオレの紙パックを拾い上げながら、燎太郎が健吾に声をかけた。

 燎太郎は健吾が言って欲しい言葉を、言って欲しいタイミングで言う。それが、偶然ではないだろうことを、薄々、健吾は気づいていた。

 燎太郎は人と人の間にある隙間に、上手に点を打てるのだろう。そうやって、ドットを繋いでひとつの風景にえがく。健吾には、到底できないことだと思う、と同時に、なぜそんな能力を持ちながら、彼は独りでいるのだろうと考える。


 下駄箱を通り過ぎ、扉をくぐると、春の白い空が広がる。大気が水分を含んでいるからだ。肺の中にあるアセトンの臭気を追い出すイメージで、健吾は大きく息を吸い込んで、吐いた。β-イオノンとα-イオノンが頭の中で水色に咲き、愉快な気分を取り戻す。毎年、チューリップやスミレを園芸部が植えているらしい。

 彼らにとっては、部活動でやっていることだろう。が、いま、健吾の胸に爽やかさを届けているとは、まさか思うまい、と窃笑する――いや、この感謝、伝わって欲しい。頭の中の六角形が薄紫の光をまとった。

「ありがとう、冷泉くん。外に連れ出してくれて」

 健吾が燎太郎の目を見てこう言うと、その目を細め彼は「うん、どういたしまして」と答えた。

「……このあいだ、昼休憩のときに外へ連れ出してくれたときも嬉しかった。言いにくいけど……教室は、トリメチルアミン、お弁当の焼き魚の匂いが、ツラいときがあるから」

 自分に、相手の気持ちを読むスキルがないなら、せめて自分の考えは素直に伝えよう、と健吾は思った。そうすると、相手が自分をおもんばかる手間が減る、合理的だ。おそるおそる、燎太郎の顔を見上げると、彼は照れくさそうに微笑み、こう言った。

「じゃあ、今日から昼休憩は外で食べちゃおう。ベンチ空いてるといいね。他にも座って食べられそうなところ、探してもいいねー」

 燎太郎のその提案を、健吾は心から嬉しく思った。



ΔΔΔ



「ぼくが、アセトンを苦手になったのは小学生のときだ。テレビのバラエティ番組でね……」

 健吾が、購買から少し離れたベンチに腰掛けながらこう切り出す。今日はおにぎりを持ってきていた。白い台形の専用ランチケースをギュッと握って、その先を言い淀んでいると、沈黙がしばしの間流れる。それを破るようにぽつりと、

「うん、おれ観てたよ」

 燎太郎がこう続けた。少しバツが悪そうに、目を伏せている。

 

 先日、二人で化学の問題を解いたときと一緒のベンチに、またふたりで腰掛ける。カエデの並木横に設置されたベンチは、購買のプレハブが落とした影をギリギリで避けていた。

 そのまま、まっすぐ目線をやると、小道を挟んでグラウンドが見える。つむじ風がときおり、小さな砂粒を巻き上げていた。

「……そうか、なら話が早いな。うん、ぼくは昔、お茶の間の笑い者だったんだな」

 

 平成が終わる頃のバラエティ番組はまだまだ過激さが残っていた。健吾は「ニュースを賑わせた天才少年」として、化学物質の匂いを嗅ぎ分ける、というパフォーマンスを行っていた。

 両親と仕事をしたことがあるテレビ番組のプロデューサーから、両親を通して「番組で化学の楽しさを伝えて欲しい」と、依頼されたからだ。健吾は、自分の好きな化学が、同年代や自分より年下の子どもたちに興味を持ってもらえるならと、とてもやぶさかではなかった。――ただし、それは自分が想像した活動とだいぶ違ったが。

 

 そもそもの「ニュースを賑わせた」出来事というのは、健吾がインフルエンザの学級閉鎖で廃棄される牛乳――全国で、一斉に給食分が行き場をなくした――に注目したのがきっかけだった。もちろん健吾は、飲み物だから飲んでもらえるのが一番いい、と思いながらも、それならば、せめて他に使い道はないものかと思案した。

 健吾の家は、父も母も研究者なので、自宅に簡易ラボがある。

どちらか、あるいは両方の許可を得ないと使えない、という厳重な約束のもと、健吾はそのラボを使わせてもらっていた。

 牛乳を食酢と反応させ、乳タンパク質を分離したところ、想像以上にラクトフェリンが残っていた。ラクトフェリンは抗菌作用や免疫調整作用があるので、感染症対策の研究に

役に立つかもしれない。健吾の発見は、父と母の手に渡り、現在もその研究は進行している。

 そのときに「小学生の六角健吾くん廃棄牛乳から抗菌成分発見か?」という見出しがさまざまな媒体のニュースを飾ったのだ。

 プロデューサーと打ち合わせを重ねる中で、健吾は自分の特技が「化学物質を嗅ぎ分けられること」だと打ち明けると、プロデューサーは思いの外、それに興味を持った。会議室には、両親と、健吾と、数人の番組スタッフがいた。それでも、健吾にはいつもこの部屋が広く感じられた。クリーム色の机と、壁一面に張り巡らされた鏡。そのどれもが他では見ないような大きさに思えた。

 それから、トントン拍子で企画は進み、番組の目玉として健吾の「化学の天才少年が化学物質を嗅ぎ分ける」というショーが決定した。このときはまだ、これで化学仲間が増えるかもしれないという期待があった。きっかけはなんでもいい、楽しさを知ってもらえたら。健吾はそう思っていた。

「最初はシンナモアルデヒドやバニリン……シナモンやバニラなんかの香りを嗅いで、構造式をモニターと連動したフリップに描いていたんだ。正解は、ぼくが見られない背中の、別な巨大モニターに映し出されていて。視聴者は描き損じがないかハラハラしながら見てた。そういったエンタメだったんだ……でも、だんだんと刺激を求めてくるようになってね……」

 健吾が話している間、燎太郎はただ黙って聞いていた。木漏れ日がふたりに落ちる。まるで自分たちは虫食いの葉っぱのようだ。そう考えると、健吾は続けた。

「ある日アセトンがこう……なんて言うんだ? オチ? みたいに使われるようになって……」

 燎太郎は俯いて、いよいよ顔を軽くしかめてしまう。そのシーンも見たことがあるのだろう。

「ごく薄く希釈してあるし、理科の実験のときと同じく、手であおいで直接は嗅がないんだけど。それでもぼくは、ほんとうに、むせて、涙も出るし、咳き込んで、周りの大人たちに助けを求めた……でも、笑ってるんだ、みんな。その絶望感ったらなかったよ、大人は子どもを助けてくれると思っていたからね。『安全性を考慮しています』『絶対に真似しないでください』その仰々しいテロップも、ぼくにとっては白々しかったよ」

 健吾は一気にそう言うと、おにぎりを持っていない方の手を少し握りしめた。

「今でもこの言葉の意味はわからないんだが、『六角くん、いいリアクションだったよ、視聴者にもウケてる』プロデューサーにそう言われてから、ジャスモン酸メチル、ジャスミンの香りなんかを嗅いでいても、不意打ちのようにアセトンが入るようになったんだ。ぼくは、また当然むせる。『アセトンはむせるから嫌だ』ぼくがそう言ってから、プロデューサーは、収録が始まる前に毎回必ず『今日はアセトン入ってないよ』って言うようになった。ぼくはその度にホッとする。でも、その安心は全部裏切られた……うん、裏切られたんだな……ぼくを迂闊だと思う? でも当時ぼくは「嫌だ」って言ったことを繰り返して面白がるなんて、そんな人、いると思わなかったから」

 そこまで健吾が話すと、燎太郎は目を伏せて右のこめかみを押さえていた。彼が辛そうだと思った健吾は「大丈夫か?」と燎太郎に声をかけた。さっき自分に対して、そうしてくれた気遣いだ。

「……大丈夫だよ、ちょっと昔を思い出してただけで」

「すまん、今日はもうこの話はやめよう……」

 燎太郎が弱々しく笑うので、健吾はこう判断した。

 のろのろとおにぎりケースの蓋を開けた。燎太郎はその判断に対し肯定も否定もしなかった。彼を横目で見て心配しながら、おにぎりを取り出す。

 健吾は、何をそんなに傷つけてしまったのかと、自分の言葉を頭の中で繰り返し再生する。こういったことはよくあった。自分では普通に喋っているつもりが、相手はいつの間にか怒っている。


 ――健吾が一年生のとき。

「やばい、次、ヤマセンうるさいから、ネイル落としとこ」

クラスメイトがこう言いながら除光液の蓋を外すと、健吾は勢いよく立ち上がり、昇降口に駆け込んだことがある。

 

 健吾は、テレビに出ていたこともあり、最初は、クラスメイトたちが健吾の机の周りに集まってきては、あれこれ活動について聞かれたりしていた。その頃に知り合った化学仲間たちの動画配信にゲスト出演もしていて、そちらの方で知った生徒もいたようだ。(今もそちらは、時々ゲストに呼ばれている)

 そのため、学校でもあの「六角くん」がいると、評判を呼んだ。

 しかし、誰かが除光液の蓋を外した瞬間に、音を立てて席を立った行動は、クラスメイトにとってはあからさま、かつ、間接的な批判行為に受け取られてしまったのだ。

 深呼吸をして、昇降口から戻ったとき、教室は不自然に静かだった。しかし、それがなぜなのかわからず、健吾は自分の席に戻ろうとした。すると教室のなかで「わざとらしくない?」「キャラ作り必死すぎ」「窓開けていい? って聞くだけでいいのに」「有名人だからって調子に乗ってない?」などといった言葉が、口々に広がっていく。

 健吾はしばらく、それが自分に向けられた言葉だとわからず、キョロキョロしていると、じっとりとした目線が自分に絡み付いていることに気づいた。ヒソヒソ声につられて、クラス中の顔がこちらに向いていた。お揃いの制服が、無機質に並んだように見える。

「違う」「傷つけるつもりはなかった」「外の空気を吸いたかっただけ」弁明は浮かぶが、うまく声にならなかった。言葉と言葉が〝点〟で繋がらない。息も声も、目線も彷徨わせたまま、静かに席につくしかなかった。

 教室と自分に「ズレ」が生じた瞬間。一度ずれると、元に戻すのは難しい。不可逆反応。一度燃えてしまって、炭になった木片は、もう二度と生木には戻らない。健吾は、頭の中にゆらめく炎で、炭化してゆく自分を感じた。

 そんな出来事が重なってゆくと、ついに健吾の、机の周りからは人がいなくなった。

 ――謝ればいいのに。

 そのときに言われた言葉が、健吾の頭の中で何回もこだまする。

 あのとき、不器用でも素直に言葉を重ねたら……自分なりの点を打てば、よかったのだろうか。そうすれば、いまもあのときと同じ風景を描けたのだろうか。そう考えていると、燎太郎が声をかける。

「おにぎり、美味しそうだね。菜野菜が入っていて贅沢だ」

 言い終わると彼はにっこりと微笑む。健吾は、燎太郎が怒っていなかったことに、安堵の胸をなでおろす。

 このおにぎりは偏食のひどい自分のために、両親が考案したレシピだった。においをできるだけ抑え、海苔や青菜で少しでも栄養を摂れるように。実際にβ-カロテンをはじめ、大根の葉や海苔には豊富な栄養素が含まれていた。

 このおにぎりの価値に燎太郎が気がついてくれたような気持ちになり、健吾は嬉しくなる。

「ああ、ひとつ食べてみるか? β-カロテンは細胞に良いぞ」

 そう言いながら健吾は、ケースに入ったままのラップに包まれたおにぎりを、燎太郎の方へ軽く突き出した。

「えっ? いいの? いや、なんかごめん。催促したみたいになっちゃった」

 目を見開いたあと、照れくさそうに燎太郎が手を伸ばすと、

「構わないよ、うちの特製おにぎり、食べてもらいたかっただけだから」

 健吾はこう答えた。

「ありがとう、じゃあ、こっちのパン、タマゴサンドって食べられる? これと交換しよ」

 さっき、燎太郎が購買で買っていた。健吾はそれで燎太郎が遠慮しなくて済むなら、もらってみようと思った。



 五限目の現国は眠気を誘う。健吾はこの先生を、新学期早々泣かせてしまったことをいつも思い出す。

 この授業についていけないから眠くなるのではなく、その現実から逃げたいだけなのではないか、と最近はそう思うようになった。あとで謝りに行ってみようか、今からでも間に合うのだろうか。


〝ご遠慮ください〟この一文が伝えたいことを読み取りましょう――。

教師の声が遠く聞こえる。〝ご遠慮ください〟それは、健吾が苦手な言葉のひとつだった。決してその行為をしてはいけないのか、少しなら許容するのか、推しはからねばならないプレッシャーを感じるから。

 ――もし、これがきつく禁止する言葉なら、なぜ始めからはっきりと断らないのか。

少なくとも、健吾はそうしてきたつもりだった、嫌なことははっきりと嫌だと言った。なのに、伝わらないことも痛感した。その上、相手が本当に嫌かどうかも察知しなければいけないなんて、気を配らなければならない感情が、迷宮のように入り組んで、迷子になる。

 先生が、何人かの生徒を指名する。全ての生徒が「やめてほしい」と、答えた。すると先生はこう言う。

「この意味を理解した上で、曖昧な表現は避けるようにしましょう」

健吾は、肩の力が抜けていくのを感じた。曰く、日本語話者(国内外問わず)の熟練度はまちまちで、このような曖昧な表現だと伝わらない可能性があるから、ということらしい。

 健吾は、自分の日本語が未熟なことは認めた上で、このような考えが広まるのは、ありがたい、と思った。

 あとで、先生に謝ろう。なぜ今までそれを避けてきたのか、健吾は急に歯痒くなった。



 いつもより三十分遅く帰宅の途に着く。しかも職員室を後にして。それでも、健吾は清々しい気分だった。退室するそのときまで、緊張は解けなかったが、先生は「こちらも大人げなかった」「よく謝ってくれた」と言ってくれた。自己満足なんじゃないかという不安がゆっくりと溶けてゆく。

 遠くにサックスの音が聞こえる。吹奏楽部だろう。耳を凝らすと、ホルンやトランペットの音も聞こえた。チューニング中なのかもしれない。いつもすぐに帰宅する健吾には初めて響く音だった。

 まだ少し、速く脈打つ鼓動を抱えながら、教室を覗く。誰もいなかった。健吾はそっと自分の席に立ち、教壇の方を見た。そして、そのまま観察する。健吾は絵を描く上で、一番大事なものは観察だ、と聞いたことがあった。

 ポケットからスマホを取り出して、ペイントソフトを立ち上げる。そして打ちかけのドットと、モデルであるその景色を見比べる。

 慎重に合わせられてゆく楽器の音色を背に、描きたい光景を想像する。濃い紫に染まった教室、最初はギャグのつもりだった。いつもここにいて、何時間も座り続ける教室が、こんなに薄暗かったら怖いだろうと。

 でも、今日、家に帰ったら、スポットライトを一筋、入れてみようと思う。唐突に浮かび上がる光の筋は、より笑えるようになるだろうか、それとも……。

 健吾は、笑われることは好きじゃなかった。でも、燎太郎にはこれを見てもらいたい、と思った。

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