第3章*「注文の多い料理店」その4
『山猫亭』を後にした三人。
色は、一度研究室に戻るというので、駅に向かう椿や政治郎とは途中で別れることとなった。
「そうそう、これをお渡ししようと思っていたのです」
色はそう言うと、背広の内ポケットから何やら出し、椿の目の前に差し出した。
「これは?」
椿は瞬きをする。
色の掌には、白い小さな蓋付き陶器の入れ物が乗っていた。
蓋の表面には、白百合の絵が描かれている。
「練り香水です。先日の調査旅行でたまたま見つけました」
調査旅行とは、地方への『フィールドワーク』のことだろう。
「昨日お会いしましたのに、つい失念しておりました」
政治郎は、色が昨日会ったのは「椿」ではなく「桜子」であったのではないか、と少し疑問を抱いた。
「……ありがとうございます」
椿は、表情を表に出していなかったが、声の調子から心嬉しいということがわかる。
蓋をぱかりと開けると、甘く優しげな薫香が鼻腔をくすぐったのだった。
***
次の日の早朝、政治郎が訪れたとき桜子は応接間で新聞を広げていた。
『体調不良者、多数。原因不明、即急に究明の動き』
そのようなことが新聞の見出しを飾っている。
「先日もありましたね」
政治郎は新聞を覗きこんだ。
東京のあちこちで、原因のわからない急患が出ているという記事だ。
患者の多くは、嘔吐・痙攣・言語障害などを煩っているという。いつぞやの記事も同じようなことが書いてあった。
「流行病か何かでしょうか」
原因究明という記事だが、前回と同様いつまで経っても新聞は真相を報じていなかった。
そのとき、開いた扉をコンコンとノックするのが聞こえた。
「配達にあがりました」
顔を覗かせた短髪の男は木箱を抱えている。中には瓶が入っているらしく、カタカタと音が鳴った。
30半ばくらいで、日に焼けて黒光りしそうだ。
肌が黒いため、両手にはめた白い軍手が目立っている。
汗に滲んだ額にねじり鉢巻きが印象的だ。
腰には紺色に染め抜かれた前掛けをしている。『酒』という字が白抜きに書かれていた。
「久遠様、お元気ですか?」
男は「おかげさまで」と笑い、政治郎の顔を見た。
政治郎はとっさに会釈をした。
「この方は、大変信用が置ける方ですわ」
桜子はそう言って微笑んで見せた。男は頷きながら政治郎に頭を下げた。
「例の件、調べてきました」
やはりただの酒屋の配達ではないらしい。
桜子は長椅子に座るよう促すと、久遠は「では失礼して」と腰を下ろし早々に話し出した。
「『あの店』だけが、みかじめ料が安いことが不審ですね」
『みかじめ料』とは飲食店や小売り店などが、出店する地域の反社会的勢力に支払う場所代、用心棒代のことである。
1990年代以降、規制強化されるが店側が支払いに応じざる得ない例が後を絶たない。
「と、言いますと?」
「安いってもんじゃない、桁が違います。店を組の身内がやっているのかと思いましたが、どうもそうじゃないようです」
政治郎は『組』という言葉に驚いた。
「桜子殿、この方は一体……」
久遠は鉢巻きを取ると、政治郎に改めて頭を下げた。
「自分は桜子さんのおかげで、あっちの世界から足を洗えたもんです」
そう快活に笑うと、左手の軍手を脱いだ。
薬指の先には肌より濃い色のサックがかかっていたが、それをおもむろに取り去る。
薬指の先はなかった。
「わたくしは何も。お手伝いをしただけで、すべて久遠様のお力です」
桜子は微笑んだ。
「今は明るい方で、真面目に働かせてもらってます」
久遠は照れたように頭をかいて見せた。
そして、咳払をすると話を続けた。
「元舎弟からの情報なんですが、あの店についての詳細は幹部しか把握していないようなんです」
それほど、危険なことが潜んでいるということなのか。
「ときに、久遠様。……もし『その手』の取引を持ちかけるとしたら、どんな方法があるのでしょう?」
「裏取引の……ですか?」
相手に対する『合図』のようなものである。
その地域独自で決められた、何らかなものがあるはずだ。
久遠は顎に手をやり、「うーん」と唸った。
しばらくすると、懐から帳面と鉛筆を出し何やら書き始めた。
そして、びりっと一枚破り卓に置いた。
『くれない 前後』
「自分は何にもお話ししていませんよ。ただの落書きです」
久遠はそう言うと、「そろそろ、お暇しましょう」と立ち上がった。
久遠は出口に向かいながら、桜子に「くれぐれも気をつけて」と付け足し、政治郎に頷いてみせた。
桜子が久遠を玄関まで見送り戻ってくると、政治郎は先程の紙切れを手に持ち唸っていた。
『くれない 前後』……これは何のことなのか。
桜子が声をかける。
「政治郎様。今日は、ご一緒頂きたい場所があるのですがよろしいでしょうか」
「もちろんです!どこへでもお供いたします」
久遠が置いていった紙切れを、ぐっと握りしめた。
***
東京警視本署。
明治7年から昭和23年まで存在した東京の警察を管轄する内務省の地方官庁である。その後、自治体警察となる。
「桜子さん、元気してたかい?」
背広は着ず、白シャツの腕をたくし上げたその男は快活に挨拶をした。
「音無警部、ご無沙汰しております」
音無は、久遠に負けない程よく日に焼けた顔に無精髭を生やした男だ。
ネクタイは首元で緩められ、ほんのお飾り程度のように見える。鍛え上げられがっちりとした体格が服の上からもわかった。
政治郎は簡明に挨拶をした。
「桜子さんがうちに来たってことは、あれだな?」
桜子は微笑んだ。
「はい。お聞きしたいことがありまして」
「まあ、あんたには日頃世話になってるから気にするな」
そう言って煙草をふかした。
「ああ、例の急病人の話か」
新聞の記事のことだ。
「患者の方々に嘔吐・痙攣・言語障害が出ているとありましたが……」
桜子は一呼吸置き、音無の目を見据えた。
「他に、幻覚や幻聴、精神錯乱などの症状も出ているのでないですか?」
音無は一寸黙った。
「……さすが、桜子さんだね」
煙草を灰皿に押し付けて消す。
「あの症状は」と桜子が詰めようとした刹那。
「アヘン中毒?」
政治郎が声をあげた。
「倉田さん、話が早いね」
音無は太い眉を上げ、にかっと笑った。
「まあ、ことがことだから詳細は世間に出さないね。ホシをあげてからでないと」
そう言って、また煙草に火を付けた。
本署を出た二人は、刺すような日差しが少し和らいだ空の下を歩く。
「政治郎様、今夜あの店に参りましょう」
「あの店と言いますと?」
政治郎は歩みを止め、向き直った。
「山猫亭ですわ」
桜子は笑みを見せた。




