第3章*「注文の多い料理店」その2
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次の日。
15時半を過ぎた頃、東京帝国大学内。
色 春継は自身の研究室にいた。
『民族学 第一研究室』
民族学とは、風俗や習慣、伝説、民謡、家屋など、古くから伝わってきた資料をもとに、伝承されてきた現象の歴史的変異を明らかにする。
そして、それを通じ現在の文化を相対的に説明しようと試みる学問だ。
調査方法の主な手法としては、現地に滞在し「聞き取り」、紙資料の収集、文化の記録、労働・行事・儀礼への参与観察といった「フィールドワーク」である。
その「フィールドワーク」が数日から数カ月かかる場合があるため、彼自身東京を不在にすることも多々あった。
桜子に「久しぶり」と言ったのは、この調査旅行のためである。
机に座り、万年筆で書き物をしていた色だが、開け放たれた窓の外から吹く一筋の風に目をやった。
壁をずらりと囲んだ本棚には、多くの本が収めれている。
あちこちの土地を訪れて書き留めた資料も多数あった。
すると扉の向こう側から、ノックの音が響く。
訪問者は見当がついていた。
「どうぞ」
扉がきしみながら、ゆっくりと開いた。
「貴女でしたか」
姿を現したのは、椿であった。
やって来る相手がわかっていたはずの色の口から、そんな言葉が出た。
彼は幾度か瞬きをすると、壁にかかったカレンダーに目をやる。
「ああ、今日は椿さんでしたね」
後ろから、政治郎も顔を出し会釈をする。「興信録記録係」として同行したのである。
「おや、倉田さん」
政治郎は先程色が発した「今日は」という言葉が、心なしかひっかかった。
「岩田興信所」では、本日桜子も出勤しているはずであり、曜日によって変わるわけではないからだ。
しかし「出勤しているはず」というのは、政治郎は今日桜子には会ってはいない。
どうしても外せない別件があり、今日は椿が馳せ参じたというわけなのである。
「椿さんにもお会いするのも、随分と久方ぶりですね」
色は椅子から立ち上がると笑顔を見せた。
「ええ。お久しぶりでございます」
椿は政治郎の後ろに隠れることなく、通常通り接しているところを見ると、彼とは長い付き合いなのかもしれない。
だが、笑顔を見せるといったことはなく淡々とした様子だ。椿の愛想がないのは今に始ったことではない。
「早速ですが、その行方がわからなくなった方の情報をお聞きしたいのです
」
椿の黒目がちな瞳が猫のように光ったように見えた。
田岡 久志。32歳。
英語科の講師。
一人身であり帝大周辺である本郷に下宿を構えている。
英語が専門ということもあってか、イギリス文化に傾倒しており非常に興味を持っているらしい。
ちなみに下宿先の主人から、彼が帰宅した様子はないと言われたという。
「田岡様は、どのような方だったのでょう?」
「真面目で穏やかな男です。酒や煙草、賭け事もやりませんね」
「近頃困っていたことなど、おわかりになりますか」
それは主に金銭関係だ。
もし、失踪が自主的あるいはそうでない場合にも視野に入れなくてはならない。
「いや、聞いていませんね。変わった様子もありませんでしたし、先月賞与も出たばかりで金に困っているということはまずないでしょう」
次に講師室に残されていた私物をあらためることになった。
鞄、革靴と背広。
椿は机の下に揃えられた革靴に目をやった。
「靴が置きっぱなしのようですが」
「彼は講義以外は、上靴代わりに下駄へ履き替えるんですよ。楽ですからね」
近辺なら、これで出て行くらしい。
普段昼食へも下駄で出掛けるという。
次に、残された鞄の中も見てみることになった。
中身は、文庫本が2冊、万年筆、手ぬぐい……と荷物は少ない。
財布は昼食を取ると言っていたこともあり、持って行ったのであろう。
「鞄、背広が置いたまま。手ぶら同然の格好で出て行ったということは、やはり大学の近隣に出掛けたということが自然かと思います」
戻って来たら作業があると本人も言っていたという情報から、わざわざ遠くまで出掛けるのも考えにくい。
「田岡様は食事をとりに行くとおっしゃっていたのですね?」
「はい、それは確かです。昼食を食べ損ねたと漏らしていました」
「ではまず、周辺の飲食店を洗い出しましょう」
周辺のほとんどが住宅地であったが、大学があるということで飲食店は比較的多い。
店はというと、和食を中心とした定食屋、洋食店、蕎麦屋、うどん屋、中華店など10軒近くあるらしい。
「色様、田岡様が食事に出られたのは夕方だとおっしゃっていましたが、具体的に何時頃だったのでしょう?」
色はおもむろに自身の腕時計に目をやった。
「あれは、16時半近かったと記憶しています」
椿は部屋の壁にある掛け時計を見た。16時を過ぎた頃だ。
「では、この時間に暖簾を下げている店を探してみましょう」
周辺の食事処は夜の支度のため『準備中』という看板を携え、ほとんどの店は閉まっていた。
店を開けているのは、蕎麦屋とうどん屋、そして洋食屋の3軒だけである。
「蕎麦屋には立ち寄ってないと思いますね」
色は口をついた。
「以前、『蕎麦を口にすると喘息発作が出るから食べない』と田岡本人から聞いたことがあります」
「それなら、うどん屋も除外しましょう」
「何故です?」
政治郎が聞いた。
「恐らく田岡様は蕎麦粉を受け付けない体質なのでしょう。うどん屋は蕎麦も出す店も大変多いです。その場合、うどんと蕎麦は同じ湯で茹でるため、うどんにも少量の蕎麦の成分がついてしまいます。ご自身のお体を理解されているようですから、うどん屋は意識して避けられていたはずです」
「なるほど」
政治郎は感嘆の声をあげた。
残ったのは、洋食店ただ1軒となった。




