第2章*「山月記」その7 完
柳田は語り終えると、小さく肩を落とした。
椿は、おもむろに彼と例の掛け軸に目をやる。
墨で描かれた虎は、竹林から半身を覗かせ今にも獲物に飛びかかりそうな体勢だ。
「これからは、自分自身に敗れることなく…精進されてください」
椿はそう声をかけた。
「……ありがとう……ございます」
柳田の返事は聞こえるか聞こえないかくらいの、かすれ声だった。
刹那、三人の間に沈黙が流れたときだ。
「あっ!!」
この驚愕の声に、椿と柳田は思わず背筋を伸ばす。
声を上げたのは政治郎である。
「なんの騒ぎでございますか、倉田様っ」
椿はいつもの調子に戻った。
「あれを……」
政治郎は、壁にかけられたあの掛け軸を指さす。
そこには虎の姿はなく、竹林のみが紙に描かれていたのだった。
次の日。
昼のドンが鳴る少し前、「岩田興信所」。
「お二人の大手柄でございますね」
桜子は嬉しそうに手を叩いた。
「いえ、『虎退治』をされたのは松平殿ですので」
政治郎は頭をかいた。
たしかに、捕り物をしたのは椿である。政治郎は結果的として「おとり」になっただけだ。
「共同作業ですわ。椿の不得意なことも援助してくださったじゃありませんか」
なかなかの人見知りである椿一人では、人々に聞き込みも出来なかっただろう。
それにしても彼女はこんな些細な動きまで、桜子に報告していたのか。
さすが、仕事専心だと政治郎は感服した。
「大変強情ですので、政治郎様には気苦労かと思いますが。私も若い時分はあの娘と同じでしたのよ」
「え?」
「人間に対して臆病と申しますか……。その気持ちの裏返しでつっけんどんな態度をよくしたものです」
柔らかな印象の桜子からは、とても想像もできない。
「それは、とても思いがけません」
政治郎は心のうちを素直に口にした。
桜子は、ふふふと微笑する。
「このような物を着るようになったのも、歳をとってからなのですよ」
彼女は自身の着物を差した。薄紅梅色が優しげだ。
「若い頃は、何だか気恥ずかしくて暗い色ばかり。今は憑き物が取れたような身軽さですわ」
確かに、椿の着る着物はどれも桜子とは異なり落ち着いた色が多い。
「本当、そっくりなのです」
彼女の柔らかな表情に、政治郎まで顔がほころんだ。
「それと」と桜子は続ける。
「あの娘も、政治郎様には懐いているようですわね」
「え?」
政治郎は驚いたため、ごほごほとむせてしまった。
「では、次の依頼がありましたら、すぐに飛んでまいります」
政治郎は帽子を被る。
桜子は見送りをするため、玄関先に立った。
「ええ、お待ちして……」
そう言い終わらないうちに、目の前の階段を誰かが上がってきた。
「ご無沙汰しております。桜子さん」
翠緑色の背広に身を包んだ背の高い、まるで英国紳士のような出で立ちの男が会釈をした。
第2章 完




