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第2章*「山月記」その5



「今日はわたくしがお供いたします……!」


桜子が別件のため、虎が出没した現場周辺へ椿が同行することとなった。


「お世話になります……」

椿は心なしか興奮しているように見えた。政治郎は静かな気迫におされている。


「本日は一切を一任されておりますので」

椿は、顎をくいっと上げた。


「桜子殿、にですか?」

「もちろんでございます」


政治郎は、椿が何に怒気をはらんでいるのか全くわからないでいたが、捕り物を成功させる勢いが見てとれた。




場所は変わって、馬喰町。

昨夜、この周辺で再び「虎」が目撃されている。


馬喰町は古くから旅籠屋の街である。明治になった今も多くの宿屋が残っており、周辺には江戸から続く他の店も商いをしていた。



町内に入ると、黒山の人だかりが目についた。

どうも、ある店の前に人々が集まっているようだ。



「……倉田様」

椿が政治郎の後ろに回ったかと思うと、小声で話しかける。


「はい、どうされましたか?」

「……あの人々に話しかけていただきたいのです……一体何の騒ぎなのか」


「え?はい、もちろん構いませんが」

「…………わたくし、このようなことは得意ではありません」


政治郎に対し、普段から臆することなくものを言う彼女がこれほど内向的とは思いもよらなかった。


「……尾行専業なのです」

そう言うと、政治郎の背に隠れてしまう。

同じ身内とは言え、誰にでも気兼ねなく話しかける桜子とは大分違うようだ。


「お任せ、ください」

いささか、おかしな心持ちになった政治郎だが、気のせいかとあまり気にも止めなかった。



「あの、失礼ですが」

政治郎は群衆のうちの一人に話しかけた。相手は40代半ばほどの割烹着を着た女である。


「はい、なんでしょう?」

「この店で、何かあるのですか?」


女はさも驚いたような顔をした。

「あんた、知らないの? 例の虎よ」

「昨夜出たという、あれですか?」


しかし、この店とどんな関わりがあるのだろう。


「この『虎錦』さんの虎が抜け出したって、この辺じゃ評判なのよ」


女は店のショーウインドーを指さした。


そこには、見事な虎の刺繍を施された着物や帯が飾られている。

毛並みが美しいそれは牙を剥き出し、今にも飛びかかってきそうな迫力だ。


「これは見事な」


政治郎は装飾品について明るいほうではないが、刺繍職人の腕が確かなことは理解できた。

しかし、理由はわかないのだが……そこまでの印象でしかなかった。




「……ひっかかりますわね」

背に隠れていた椿がやっと口を開いた。


「何はともあれ、虎を拿捕しないことにはどうにもなりません」

政治郎は店の前の人々を前に息を吐く。



「倉田様、今夜事務所までおいでください」

「今夜ですか?」


「『虎退治』にまいりましょう」

椿は政治郎の後ろで仁王立ちになった。





午後21時少し前、「岩田興信所」。


政治郎は玄関の呼び鈴を鳴らした。

「倉田政治郎であります。松平殿とお約束が」


そう言いかけたとき、扉がゆっくり開いた。いや、本来はいつもと変わらなかったのだが、政治郎にはそう感じたのだ。



目の前には椿が立っていた。

紺袴に紫の着物で、今朝までの出で立ちとは異なる姿である。

普段結いあげていた髪も今は下ろされている。

黒々とした長い、その豊かな髪は後ろの部分を紫色のリボンで留められ、それはまるで女学生のようだ。



「こんばんは、倉田様」

「…………あ、え……」


政治郎は、いつもと雰囲気の違う椿を目の前に平静を装うことができなかった。

彼自身、何故自分がこのような心持ちになっているのかも判然としない。ただ、自分の心臓が早鐘を打っているのはわかった。



「今夜は、必ずや捕まえましょう」

「え?」

意気込む椿の言葉に、政治郎ははっと我にかえる。



椿が袴姿なのは、着物より動き易いという理由だった。髪が結い上げられていないのも、崩れる懸念もなく行動出来るとのことだ。





午後21時過ぎ、馬喰町。



この街も、宿屋の入り口に小さなランプがあるのみ。周囲の商店も閉まっているため大変暗い。蔵前と変わらず、一定の距離を開けて設置されたガス灯の明かりだけが頼りだ。


前回の蔵前でのとき、桜子が「一人で歩く」ということが『虎』をおびき出す「おとり」だとは政治郎は気が付かなかった。そのため、今回は自身が役目を果たそうと心に決めていたのである。


「私がおびき出しますので、松平殿は少し離れて付いて来てください」

政治郎は懐に拿捕のための縄を仕込んだ。


「わかりました」




今夜は月も出ている。

政治郎は建物の影で暗闇となった中を歩き出した。少し行くとガス灯の明かりがあるが、その箇所以外は真っ暗だ。

その後ろの、多少離れたところから椿は下駄の音を殺してついて行く。




どのくらい歩き回っただろうか。


静まり返った街。

政治郎自身の着ぬ擦れや靴音以外聞こえない。



しかし、何か……わずかだが、異なる音が瞬刻耳に入った。

カツッ



そのとき。

前方に、人ではない何かが確認出来た。そう、例の『虎』が現れたのだ。

同時に政治郎は足を止めた。

とっさに懐に忍ばせた縄に手をかける。



カッカッカッカッ!!



政治郎の後ろから、もの凄い速度で何かが通り過ぎた。

「?!」


驚いて前を見た。



椿である。

彼女が全速力で駆け出したのだ。


そこにいた「人ではない何か」は、椿の下駄音が近づくと路地にひゅっと引っ込んだ。


カツッ、カコン!カッ!


『虎』が現れる前に聞こえた音が響く。


その瞬間、路地の前に着いた椿は立ち止まった。

おもむろに右足の下駄を脱いだかと思うと、歯を食いしばり声にならない声を上げ、それを力一杯投げつけたのだ。


ーーーーーーーッッッ!!


下駄が見事何かにぶつかった大きな音と共に、どさりと地面に倒れる物音が辺りに響いたのである。




政治郎が路地に駆けつけると……そこには、黒い着物に身を包んだ40ばかしの男が白目を向いて伸びていた。

傍らには、『虎』の剥製とも見間違うほど写実的に作られた張りぼての半身が落ちている。張りぼての下部分に木の棒がいくつか備えられており、これを抱えて運んでいたようだ。



男のすぐそこには倒れたときに脱げたのか、片方の下駄が転がっていた。








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