第2章*「山月記」その4
棟梁の男は、岸川と言った。
自身の事務所に二人を通すと、両手を膝に置き話し出した。
こんな大事になるとは…夢にも思わなかったんです。
実は、とある資産家から屋敷の増築を依頼されたんですが、夏の末までに終わらせろと難題を押し付けられまして。建築ってもんは、一朝一夕にできるような代物じゃありません。しかも増築っていっても並みの規模ではない。自分たちの家より大きいくらいで。
「そんなことは無理だ、職人総出で夜もこなさなきゃならない」と取引先に意見したところ、「夜中まですればいい。東京の街は夜でも朝のような明るさだろう」と一蹴されました。
いくらガス灯があるったって、それは無理な話だ。何より、自分たちが過労で死んじまう。
だが意見を通すんでも、相手が相手。今後の取引にも関わるし、悪評をバラまかれちゃたまらない。
だから、仲間内で相談しました。もし夜に何か騒ぎがあれば通常通り昼間のみの作業で済む…相手が吹っかけてきている納期を遅らせる理由になるんじゃないかって。
そこで、「虎事件」を思いつきました。夜道ってもんは、なんだかんだ言って怖いでしょう。そこで猛獣に出くわせば誰もが混乱する。連れがいない者をあえて狙ったのも考えのうちです。不安が煽られる。大人数で気が大きくなって反撃されちゃあ堪らない。
まあ、昨夜は追っかけられるとは思いもしなかったから、そりゃあ度肝を抜かれましたよ。おかげで逃げるのに慌てて壁にぶつかっちまいました。
おっしゃる通り、あの「虎」は木を使って作りました。自分たちは普段からカンナなんて扱ってるだけあって、手先はなかなか器用なもんで。
夜で視界も不自由でしょう?
木で骨組みを作って、その上に布を被せちまえば結構格好がつくんです。
ご指摘いただいたよう、あの布はあたしらの使い古しの半纏だ。金はかけられないし、何よりうち石澤組はまっさらな半纏が売りだもんで、汚れが落ちなくなったもんは処分しちまうんです。材料には事欠きませんでした。
あたしらの「虎」を見た人が「目が血に飢えた猛獣」のようだったって?
そりゃあ、嬉しい。ただビー玉を突っ込んだだけでして。人の恐怖心は、最後の仕上げみたいなもんですねえ。
あ、こりゃ……不謹慎でした。あい、すみません。
語り終えると、岸川は深々と頭を下げた。
「悪さをしようと考えたんじゃ……ありません。ちょっと脅かすくらいでいい。見た者が噂を流してくれればいいんです」
多くの職人達を抱えた彼らの苦肉の策だったというわけだ。
「心中お察ししますが」
政治郎が口を開いた。今回は怪我人がいなかったが、最悪の事態も考えられなくもない。
「わかっています。だからと言って世間を騒がせたのは……本当に申し訳ありませんでした」
手ぬぐいで汗を拭ったのか、あるいは涙なのか。政治郎にはわからなかった。
「ときに、岸川様」
桜子は口をついた。
「なんでしょう?」
「夜、張りぼてを携えて街の中を徘徊する際はそちらで?」
桜子は岸川が履いている地下足袋に目をやった。
「ええ、これで。夜道で足音がしにくいですからね。なにより、走り易い」
そう言って、その場で跳ねたり走る真似をしてみせた。
「これで一件落着ですね」
政治郎は相手の事情を聞いて複雑な心境ながらも、「虎出没」が収まる安堵感でいた。
桜子は口元に手をやって何か考えているようだ。
「桜子殿?」
「……これで、終わりませんわね。きっと」
「え?」
桜子の予想は的中し、その晩また「虎」が現れたのだった。




