表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/23

22

男の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑ったのかもしれない。けれどそれは、誰かに愛想を返すための笑みではなく、長い夜道で偶然すれ違った光を見るような、静かな表情だった。


「君、案外しつこいな」

「悪かったな」


香が即座に返す。


男は数秒だけ考えるように沈黙し、それからレザージャケットの内ポケットを探った。


油で少し角の潰れたメモ帳。そこから一枚を破り、ボールペンで数字を書きつける。

乱暴なくせに、不思議と読みやすい字だった。

香へ差し出す。


「仕事中しか出ない」

「……十分」


受け取った紙は、まだ男の体温を少し残していた。

そこには番号の下に、短く一行だけ書かれている。


『眠くなったら止まれ』


香は思わず小さく息を漏らした。


「名前は?」


訊ねると、男はヘルメットを被りながら少しだけ空を見た。

「黒崎」

短い返答。

「香」


「知ってる。さっき呼ばれてた」


そう言って、黒崎はバイクへ跨がる。

香は紙を握ったまま、その背中を見ていた。


大型トラックとは違う、孤独を切り裂くような細いテールランプ。けれど、その後ろ姿には、自分と同じ種類の静けさがあった。

エンジン音が高まり、車体がゆっくり動き出す。


「香」


不意に、黒崎が最後に一度だけ振り返る。


「君はもう、“誰かの顔色で走る人間”じゃない」

その言葉は、説教でも慰めでもなかった。


ただ、長い道を走ってきた者だけが知っている事実を、静かに置いていくような声音だった。


次の瞬間、黒いハーレーは夜明けへ向かって走り去る。

香はしばらくその場に立ち尽くし、やがて掌のメモを見下ろした。

紙切れ一枚。


たったそれだけなのに、胸の奥のどこかが、微かに熱を持っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ