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遠くで朝焼けが始まる。
香はその紙を丁寧にツナギの胸ポケットへしまうと、銀色の巨体へ向き直った。
まだ道は続いている。
けれど今日のハイウェイは、ほんの少しだけ違う景色に見えた。
東の地平線から、目も眩むような鮮烈な朝の光が溢れ出し、パーキングエリアのコンクリートを白々と照らし出していく。
香は、黒崎の残した排気音の余韻が完全に朝の空気に溶けるまで、その場から動けずにいた。
ツナギの胸ポケットに触れると、カサリと小さな音が返ってくる。
そこに収まった紙切れは、たった数桁の数字と、ぶっきらぼうな一言が書かれているだけだ。それでも、確かに男の体温を宿していたその破片は、今の香にとって、どんなお守りよりも確かな重量感を持っていた。
「……眠くなったら止まれ、ね」
小さく呟いた言葉は、乾いた朝の風にさらわれて消えた。
ふっと口元が緩む。それは誰かに見せるための愛想笑いではなく、自分の内側から自然と湧き出した、ひどく不器用で、けれどひたすらに純粋な微笑みだった。
相棒の元へと歩き、運転席のドアの前に立つ。
外灯の下で見た時よりも、朝光に照らされたその凹みは生々しく、痛々しかった。しかし、その歪んだ鋼鉄の肌を見つめる香の瞳に、もう恐怖や動揺の色はない。
それは、彼女が「プロ」として、そして「一人の人間」として、命を懸けてこの世界に繋ぎ止められた証。
他人の顔色を窺い、誰かが作った正解の枠に自分を押し込めようとしていた過去の自分への、強烈な訣別のマークでもあった。
「君はもう、“誰かの顔色で走る人間”じゃない」
黒崎の最後の言葉が、エンジンの始動音とともに、再び香の脳裏でリフレインする。 セルモーターが回り、十トン超の排気量を誇る銀色の巨体が、重厚な地鳴りのような産声を上げた。
その激しい振動がシートを通じて身体に伝わった瞬間、香の背筋が自然と真っ直ぐに伸びる。
フロントガラスの向こうには、朝靄を切り裂いてどこまでも続く、黄金色に染まったアスファルトの道。
「よし、行こう」
ギヤをローに入れ、サイドブレーキを解除する。 クラッチを繋ぐ足にも、ステアリングを握る両手にも、迷いは一切なかった。
誰のためでもない。
自分の意志で、自分の腕で、この巨大な塊を走らせる。 目的地までは、まだ数百キロ。けれど今の彼女には、並走する鉄の群れも、時折バックミラーをよぎる孤独な光も、すべてが自分を祝福する景色に見えていた。
加速車線を経て、香は再び、沈黙と速度が支配するハイウェイへと飛び込んでいく。
胸ポケットの小さな温もりを相棒に、彼女は朝の光の粒子を浴びながら、未だ見ぬ地平線の向こうへと、力強くアクセルを踏み込んだ。
【了】




