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「怖いよ」
あまりに即答だったので、香は目を瞬いた。
「眠気も怖いし、雨も怖い。対向車も、朝方の油断した乗用車も怖い。自分が壊れる瞬間もな」
男は缶を傾ける。
「でも、その怖さを誤魔化すために群れると、今度は自分が見えなくなる」
香の胸の奥で、何かが静かに鳴った。
「だから、一人で走る?」
「そうだ」
男は夜明け前の空を見上げた。
「ただ、一人で走ってても、同じ道を走る奴は分かる。さっきみたいにな」
香は無意識に、自分のトラックの方へ視線を向けた。
銀色の巨体。運転席のドアには、まだあの蹴り跡が残っている。
「……あれ、直さないかもしれない」
男が少しだけ眉を動かした。
「戒めか?」
「違う」
香は小さく首を振る。
「あれ見るたび、“生きろ”って言われたの思い出せるから」
沈黙。
けれど、不思議と苦しくない沈黙だった。
言葉を探さなくていい。相手の機嫌を測らなくていい。ただ、同じ夜を走ってきた者同士として、そこに立っていればよかった。
やがて東の空がわずかに白み始める。
男は空になった缶を捨て、ヘルメットを持ち上げた。
「行く」
「あ……」
香は呼び止めかけて、言葉を失った。
名前を聞くべきか。連絡先か。次はいつ会えるのか。
黒いハーレーのエンジンが唸りを上げる直前だった。
「連絡先おしえて……」
香の口から零れ落ちた言葉に、本人が一番驚いていた。
言った瞬間、自分の心臓が強く跳ねる。
誰かに繋がろうとする言葉を、自分から投げたのはいつ以来だろう。
いや、もしかすると初めてかもしれない。
男もまた、一瞬だけ動きを止めた。
ヘルメットを持ったまま、静かに香を見る。
夜明け前の白い光が、二人の間に薄く滲んでいた。
香は逃げるように視線を逸らしかけて、けれど踏み止まった。
いつもの自分なら、ここで「やっぱ忘れて」と笑って誤魔化している。相手がどう受け取るかを考え、拒絶される前に先回りして距離を取っている。
だが今は違った。
この男には、取り繕う必要がない。
「……別に、変な意味じゃない」
少し掠れた声で続ける。
「ただ、その……またどこかで眠そうにしてたら、今度は蹴る前に教えてほしい」




