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ベンチに座る男の数メートル手前で足を止めると、夜の静寂を破らないよう、けれどはっきりとした声で言葉を投げかけた。


「さっきは、ありがとう。……おかげで助かった」


男は吐き出そうとしていた煙を止め、ゆっくりと顔を上げた。


街灯の逆光で表情は定かではないが、彫りの深い顔立ちに刻まれたいくつもの皺が、彼が越えてきた夜の長さを物語っている。


男は香の紺色のツナギと、その瞳をじっと見つめ、短く応えた。


「……君か」


その声には、驚きも、ましてや先ほどの「一発やらしてよ」と言った男のような卑しい好奇心も微塵もなかった。


ただ、一人の未熟な走者を現世に繋ぎ止めた職人が、その結果を確認するような、淡々とした響きがあった。


「あのままだったら、死んでた」


香がそう続けると、男は吸い殻を携帯灰皿に押し込み、立ち上がった。


「礼を言われる筋合いはない。俺が走りたかったラインに、君の鉄屑が流れてきそうになった。それをどかしただけだ」


突き放すような物言いだったが、香にはそれが嘘だと分かった。


あの速度でトラックを蹴りつけるリスクを負う理由に、そんな理屈は通用しない。男は、香の中に「かつての自分」か、あるいは「守るべき走る魂」を見たのだ。


「次は蹴らせるな。……」


「うんわかった、どこまでいくの?」香が訪ねた。



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